第六章 『幸せの花火は、葉月の夜風と共に』
穂波の様子が、近頃目に見えておかしい。
試験が終わった、そのすぐ後からであろうか。彼女はめっきり口数が少なくなり、一人で部屋にこもっていることが多くなった。
まあ、もともと内向的な人間であり、食事時くらいしか居間に来ない女であったから、傍目には大差が無く見えるであろう。現に、父上はこの異常事態に全く気付いていないご様子である。まあ気づいても気にしなそうではあるが。
それでもいつもの彼女は、私の部屋に顔を見せたり、食事時には会話もしたり、という程度のコミュニケーションまで怠るような奴ではなかったのだ。だが近頃の穂波は違う。
食事時にもまともに話をしないし、私の部屋にもとんと来ない。痺れを切らし、私が彼女の部屋を訪問したり、外に連れ出し本屋や図書館に出かけても、表情が冴えぬ。何度も言うが異常事態なのだ。
彼女が何か悩んでいるのか? 怒っているのか? それすらわからぬまま、一週間が過ぎた。
それは夕食時のことだった。
私と穂波は黙々と生姜焼きをやっつけていた。――――気まずい。父上は先ほどから電話で誰かと喋り続けている。と、ようやく電話が終わったようで、彼はがちゃりと受話器を置いた。
「誰からだったのですかね?」
父上はにこりと嬉しそうな顔をする。
「泉だよ。来週くらいには退院できるんだってさ」
「母上が?」
この三カ月以上、家を空け続けた母上がついにお帰りになるのか。ただでさえ空気が悪いというのに、彼女が入ると事態が一層混乱するようにしか思えん。
「よ、よいお知らせですな。ほら穂波も嬉しくないかね?」
「そうね」
つれない妹である。お兄さんは寂しいぞ。
私が何を言ったものか言い淀んでおると、父上が口を開いた。
「そうだ、今の電話で言われたんだがな、穂波ちゃん。ご飯食べたら和室に来てくれ」
「……何ですか?」
「それは来てみてのお楽しみ」
父上はそう言うと、すたすたと居間を出て行ってしまった。
それから十数分後、私が洗い上げをしていると背後の扉がガタンと開いた。私は振りかえらないまま父上に声を掛ける。
「どうされました、父上」
「ほら、見なよ隼。かわいいぞ」
何ぞと思って振り返れば、そこには浴衣姿の穂波が父上と並んでおった。枯草色をした蜻蛉柄の浴衣である。彼女の女性らしい体型に、サイズもぴったり合っておる。
「なるほど、美しい。似合っておるぞ穂波」
「……ありがとう」
そっぽを向いて言う穂波。しかし穂波は浴衣など持っていなかったはずだ。
「父上、この浴衣はもしかしなくても母上のものですかね」
「そうだよ。お古だけど欲しいかって電話が来てね。ほら、君たち明日の夏祭に行くんだろう。そのときにでも着て行けばいいじゃないか」
「……ありがとうございます。あとで、泉さんにも連絡しておきます」
「それがいいよ、泉喜ぶから」
よかった。穂波の表情が少し明るくなったような気がする。ありがとう母上。
◆ ◆ ◆
翌日、午後四時半。
人混みをかきわけ、私と穂波は福追駅前を進んでいた。いつもはのんびりとした田舎町である福追だが、本日は首都もかくやと言わんばかりにごった返しておる。
「穂波、手を離すでないぞ。これでは一瞬ではぐれる」
「……うん」
右も左も人、人、人。我々はともかく、約束をしていた手芸店の前に向かうことにした。
泳ぐように人混みを抜け、路地を一本変えてようやく閑散とした福追の道になる。やれやれと歩いて行けば、手芸店の前でゼミの愉快な仲間たちが待ち受けておる。例の如く師匠は汗まみれのTシャツであるが、女性陣は浴衣姿である。
西園寺はいつも通り、髪を両側で結び、薄桃色の浴衣を着ておる。穂波に比べて彼女の胸は押さえ切れない豊満さを表わしているな。決して穂波は貧相ではないが。
だがまあ、二人のことはよろしい。驚くべきは、もう一人であった。
天城はポンチョの代わりに、真っ黒な浴衣を身にまとっている。しかし、何より目を引くのはその長いおさげであった。いつもは妖怪かと見紛うようなぼうぼうの髪は、今つやつやと輝き、高い位置で纏められている。そのためいつもの鬱々とした雰囲気はどこにやら、まるで名家のお嬢様である。――――誰だ貴様。
「とろいわよ、汚物! 汚物の分際で人を待たせるなんて、とんでもなくハイな汚物ね!」
まあ、中身はいつも通りなのだが。
「すまぬ。人混みに飲まれたのだ。あそこまで混むとは思わなかった」
「ここの花火は全国的にも有名ですからねー、早めに約束して良かったです!」
私は見逃さなかったぞ。西園寺がそう言った瞬間、穂波はぴくりと反応を見せたのである。
何だろうか。もしかして、最近の異常の原因は西園寺なのだろうか。しかしこの二人、そもそも大した交流も無かったはずだが……。
まあ、後で聞いてみようか。どうせ穂波はどれだけ困っていても私に助力を求めはしまい。
「ときに、滝沢はまだ来ていないのかね?」
「そうだねぇ」師匠は汗を拭き拭き答える。「やっぱりあの人混みに苦戦してるのかもねぇ」
「――――あ」
穂波が私の裾をちょんちょんと引く。
「来たわ」
見れば、先ほどの私たち同様、ふらふらとした足取りでやってくるは滝沢である。余程苦労したのであろう。
「ご苦労だったな、滝沢」
「久し振り、牧野……」
滝沢には、紺色の浴衣がぴしりと似合っている。ううむ、男の私から見ても恰好よい。
私も浴衣を着てくるべきであったろうか。下を向けば、私はいつもの作務衣姿である。
いやいや、いかん。私が色気を出してどうする。このイヴェントの目的は、あくまでも穂波と滝沢の交友を深めることにあるのだ。私の服飾などどうだってよろしい。
滝沢は私の後ろの変態達に気づくと、小さく頭を下げた。
「えっと、大林ゼミの皆さんだよね。初めまして、滝沢裕貴です。今日はわた……ボクも混ざっちゃってよかったの?」
そうか、滝沢にとっては初対面なのであった。実はモニタごしに何度も君を見ていたのだが、とは言うわけにもいかぬ。
「当たり前よ! アタシは寛大だから、雪村の友達であれば友達になってあげる! アタシの名前は天城奈緒! なおにゃんとお呼び! アタシはユウキちゃんと呼ぶから!」
「え、それはちょっと……」
じき成人しようという男を捕まえて、ちゃん付けは無いであろう……。
というかこの女、どうしてここまで滝沢を気に入ったのだろうか。いつもならば男は汚物とか言っている奴だぞ。ええい、今日の天城はおかしいぞ。
「それじゃぁ、みんな揃ったことだし行こうかぁ。こんなところで喋ってないで、出店でも回ろうよぉ」
師匠の言に従い、我らはぞろぞろと移動を始めた。
『ふくおい遠州の花火』は、全国でもトップクラスの規模を誇る花火大会である……らしい。
花火文化の育成、向上、普及を目的とし、全国から選抜された超一流の花火師が匠の技を披露する。優勝者にはナントカ大臣からの賞が授与されるということだ。花火大会って優勝を競うようなものだったのだな。
ともかくそういうわけで、規模は非常に大きい。二時間の間で打ち上げられる花火は全部で三万発近くになるという。これを越える規模の花火大会は、日本でも十も無いとか。……という話を、延々と西園寺はしてくれた。
「よくもまあ、そんなことをご存じだな」
「まあ、ぶっちゃけ他に何もありませんからね! これしか知りませんよ、たはっ!」
我々は、川沿いの堤防をてくてくと歩いておった。滝沢と穂波の初デートを追った挙句辿りついてしまった、あの川だ。
「出店きたわ! 今年も金魚すくいでトラブって女の子の着物にシュートするわよ!」
「その対象に西園寺は含まれていませんよね!」
「僕も行くよぉ」
天城たちがタカタカ駆け降りて行く河沿いの草地には、確かにずらりと出店が並んでいる。花火大会と言いながらも、実質、この町の夏祭のようなものになっているのだろう。
「……子供みたいな人だな、天城さん」
滝沢はぽつりと呟く。
「そうだな。妙齢の女がアレでは親が気の毒である」
「いいじゃない、女の子っぽくて」
滝沢の美意識は今一つわからん。まさか女なら誰でもいいのかコイツ? いやいや、流石にそこまでロクでもない男ではあるまい。
私がそう思っていると、裾を引く者がある。見れば穂波が出店に目を奪われていた。視線の先には、香ばしいたこ焼きがおるな。
「たこ焼きでも……いや、ちょっと待ちたまえ」
私は滝沢に聞こえぬよう、彼女に耳打ちする。
「今はせっかく滝沢がいるんだぞ。甘えたまえ。彼に奢らせられれば、また君のレヴェルが一上がる」
男は、女に奢りたい生き物なのである。師匠はそれを「奢らせて頂きたい心」と表現した。滝沢とて一人の男だ、我が愛する妹のような可愛らしき女性に「奢らせて頂ける」ならば、喜んで小銭の数枚くらい提供するだろう。
しかしまあ、斯様に腹黒い甘え方は、確かに穂波には無理な相談やもしれぬ。彼女は周囲を気にせず動けるほど気の強い人間では無い。だいたい、そんなことができるならば私が手を貸す必要など無いではないか。
たこ焼きを買ってずんずん進んでいくと、一つの出店の前で目を輝かせている天城を発見した。金魚すくいである。
「ふふふ……ラッキーハプニングが待っているわ……」
何やら恍惚としておる。
「天城、こういう競技は得意そうだな」
「口を慎みなさい、汚物。集中が途切れたらどうするのかしら?」
口の減らぬ女である。
「師匠と西園寺は何処へ行ったのだね」
「汗汚物は知らないわ。美月は……ええい、話しかけるなと言っているのが分からないのかしら、この汚物。不愉快! 不愉快極まってるわ! アタシは金魚をすくうのよ!」
「そんなことを言っているならさっさとやればどうかね。そら、出店の親父が先ほどから君を見ているぞ」
「アタシに見惚れているのかしら、この汚物! 物好き汚物だわ、こいつ!」
「ああもう貴様黙っていろ」
確かに髪を上げた天城は可憐だとは思うが、流石にそれが原因ではあるまい。店先で延々と金魚を睨む女がいたら商売の邪魔である。
「ふ、仕方ないわね。目ぼしい美少女はいないけれど、練習がてらやってやるわ!」
ほっとした様子で親父が代金を受け取り、ポイを天城に渡す。
その五秒後、ポイは破れた。
天城が「ハァイ」などと声を上げ、勢いよく水に突っ込んだのである。これには親父も苦笑い。
「……隼、私もやるわ」
「おうおうやりたまえ。乙女の格式を見せつけてやるのだ」
穂波はそろそろとポイを水につけ、ゆっくりと金魚を狙う。馬鹿である。ああ、しなしなとポイが破れていく。私も釣られて苦笑い。
「……この紙、破けるわね」
当たり前である。
穂波は頬を膨らませている。か、カワイイ。しまった、今の私は天城みたいだ。
私は先ほどから話に混ざれないでいる滝沢をちょんと引いた。
「滝沢、やってみたらどうかね」
この場面でカッコよく金魚を取り、穂波にプレゼントでもすればたいへん浪漫である。
……ただ、滝沢はひどく残念な結果に終わった。あまりに残念だったため深く書くことはしない。私にも仁義くらいあるのだ。
「どうだい兄ちゃん、あんたもやってみないかい」
金魚すくいの親父がにやりと笑う。
仕方あるまい、こういう場で金を出し惜しみするのは文化人として正しくない。私は三百円を支払い、ポイを手に持った。袖をまくり、いざ勝負である。
ごくりと唾を飲み、私は金魚を見据えた。狙うは動きのとろい、この手前のものだ。
私はカッと目を見開き、ポイを鋭く水槽に飛び込ませた。角度よし、速度よし、いけるッ!
果たして、水から上がった我がポイには、まるまると太った金魚が見事に乗っていた! そして、その重さに紙が耐えきれず……水槽に落ちて行った。
「はい残念だったね兄ちゃん」
私は深く溜息を吐き……異常に気付いた。ぷくくと笑いをこらえる穂波をこつんと小突く。
「そんなに笑うことは無かろう。私の珍プレイはさておき、天城はどこへ行った」
「『カワイイ幼女発見!』って言って走っていったわ」
変態のことは忘れよう。
私たちが歩いて行くと、滝沢がアッと声を上げた。見れば、一つの屋台に人だかりができている。何事であろうか、と目をこらした私が見たのは、神々しきものであった。すなわち、汗をまき散らしながら衆人環視の中一人でハイスピード盆踊りを舞う太った男である。師匠の汗は宝石のように煌めきながら、彼の周囲を飛び散っている。
「……何やってるの、稲本は」
呆れ顔で穂波が呟く。私にもわからん。非凡な人間の考えは、我々のような凡人には預かり知れぬことなのだよ。
良く見ると、師匠は火縄銃を持ちながら踊っている。そして、まるで一種の芸術のような滑らかな動きで銃身を構え、店の中に撃ちこむ! スパーンと良い音が響き、人形が撃ち落とされる。み、見事である。というか射的屋だったのか。
恐れをなした群衆に道を開けられ、師匠は悠々と屋台を後にする。私は彼に駆け寄った。
「師匠! 今のはいったい?」
「ああ、マキノかぁ。今のは戦いの踊りだよぉ。使用するとそれ以降5ターンの間、命中率がアップするんだぁ」
「それは凄い。私もやってみよう」
早速射的屋に向かおうとすると、両そでがギュウと引っ張られた。見れば、穂波と滝沢がひどく冷たい目でこちらを見ておる。
「牧野、それは駄目だ。人として駄目だよ」
私程度の人間では師匠の真似をするには早いということか? なるほど納得である。
私は射的を早々に諦めた。さて、天城と師匠には会ったことだし、西園寺はどこにいるのだろう。
「ときに、師匠。西園寺を見かけなかったかね?」
「見かけていないなぁ。探すかい?」
「いや、構わんよ。少々気になっただけだ」
よく考えれば、西園寺は穂波の異常に関係がありそうだ。今は接触をしない方がいいかもしれない。
私は師匠と別れ、再び三人で歩きだした。
懐中時計を取り出せば、既に十七時半だ。我々は河沿いの公園に入り、ベンチで調達した食べ物をやっつけていた。私は焼きそばをズルズルすすっていたのだが、気づくと穂波の食が進んでいない。
「どうした、穂波。途中でりんご飴なぞ食っているから腹が膨れてしまったのか」
「……子供扱いしないで」
全く、子供のような奴である。そこが庇護欲をそそると言えばそうなのだが。私が内心ニヤニヤしておると、真横に掛けていた滝沢が立ち上がる。
「お手洗い行ってくるね」
読者諸君に問おう、男子大学生が「お手洗い」などと言うものであろうか。トイレでいいではあるまいか。こういうところに品性の良さが現れるということなのであろう。できた男である。
さて、滝沢が後方へぱたぱたと走っていき、私たちは二人で残された。いい機会だ。今のうちに、穂波に聞いておくべきだろう。
「穂波、君は何か私に隠していることが無いかね」
ぴくんと反応。
「――――どうしてそう思うの?」
「最近、君の様子がおかしいからな。何か悩みでもあるのではないか? そしてこれは想像なのだが……その原因は西園寺では無いのか?」
返事はなかった。だが、否定の言葉も無かった。穂波は嘘の吐けない女である。ここで否定をしないのは、私の言が見当外れとも言い難いことを示していた。
「なぜ、私に話さなかったのだ。隠しごとは無しにしようではないか。喧嘩でもしたのかね?」
言い訳をすれば、私は別段悪気があったわけではない。いつもの調子で、軽く、善意のつもりで聞いたのである。しかし、穂波は思いもよらぬ反応を見せた。すなわち、ぱっと立ち上がり、こちらをキッと睨みつけてきたのである。
「ばか!」
何ぞ?
コヤツに大声を出されたのなんていつ以来であろうか。
「隠しごとをしてるのはそっちでしょ!」
――――まさか。ばれたのか? 私たちが、兄妹であることが。しかしいったいなぜ。私が混乱していると、その反応が良くなかったようだ。
「やっぱり、本当なんだ……」
「ち、違う。いや、違わないのだが……隠していたことは悪かった。しかし、少し落ち着いて聞いてはくれまいか」
「聞きたくない! 隼に――――恋人がいたなんて!」
えっ?
「ちょっと待ちたまえ穂波。君は何か猛烈な勘違いをしている。私には恋人などいないぞ」
「嘘よ。そうでないなら、私と『結ばれてはいけない理由』って何?」
ぎくっとした。
「誰がそんなことを君に言ったんだね」
「西園寺さん。それで分かったの。隼は、西園寺さんと付き合ってるんだって」
何を言っているんだ、コヤツは。
というか何を吹きこんでいるんだ西園寺は。とんだ誤解である。しかし全否定することもできぬ。
確かに私は、穂波と結ばれてはいけない理由がある。実の兄妹だからな。だがそれは、穂波がまだ気づいていないことだ。話すわけにもいかん。
「西園寺さんと付き合うのに私が邪魔だから、滝沢くんとくっつけようとしているんでしょ? 厄介払いなんでしょ? ねえ?」
「な……言わせておけばメチャクチャなことを言いおって!」
流石の私も、ここまで無茶なことを言われれば怒る。
「断じて否である! 私は純粋な誠意から君に協力していたのではないか! そんなことを言われる筋合いは無い!」
「純粋な協力なんていらない!」
「何だと?」
「わたしは隼に協力してほしかったわけじゃない! 私が誰かに恋をしたと思って欲しかっただけ! 私が好きなのは……隼なのに!」
そう怒鳴り、穂波はパッと駆け出して行ってしまった。私は、茫然とそこに残される。
◆ ◆ ◆
……今、あやつは何と言った?
『私が好きなのは……隼なの』……? スキ? 穂波が、私のことを?
それも、話の流れから考えて、家族愛としての好きでは無いだろう。つまり、穂波の想い人とは、私……ということか。
がさり、と後ろの藪が動く。振り返れば、そこには滝沢がばつの悪そうな顔をして立っていた。
「聞いていたのかね」
「……うん」
滝沢は私の隣にまで歩いてくると、小さく息を吐いた。
「滝沢、頼みがある。穂波を、追いかけてやってはくれぬか。あやつは感情が限度を越えると錯乱してしまう」
「何言ってんのさ。牧野が追わなきゃ駄目だよ。それとも、何。追いかけたくないの? 本当に、雪村のことを厄介払いしたいだけなの?」
「そういう……そういうわけではない。だが、彼女が私に想いを寄せているとわかった以上、ますます私が好感度を上げるような真似はできないのだ。だから滝沢、君に穂波を任せたいと思う」
「それは無理だね。――――ああ、もう話しちゃおう」
滝沢は小さく言うと、ごそごそとポケットをいじり始めた。ようやく財布を見つけたところで、彼はその中から一枚のカードを取りだす。
「……これ、見て。わかること無い?」
学生証である。高校のときの制服であろう服をまとった、滝沢の顔が証明写真として使われている。先日滝沢が財布を忘れたとき見たのと同じ。
何が問題か? 一目瞭然である。
つまり、滝沢の学生証にはセーラー服をまとった滝沢がいたのである。
「以前見たから知っている。まさか、親友が女装好きの変態だったとは思わなかった。大丈夫だ、誰にも言わぬから」
「……ねえ、どうして逆という発想は出てこないの?」
「逆? どういうことだ」
「つまり、ボク……ううん、わたしが男のフリをしてただけだってこと」
は?
何をわけのわからぬことを……と思ってちらりと横目で見た瞬間、私は自分の間違いに気付いた。それはもう、ばかばかしいほどに鮮やかに。
「わたしは、女だよ」
もはやそこにいる者は、男には見えぬ。ハスキーな声を出す、背の高い女がいるだけだった。
「君と知りあって、本当にいい友達になれると思った。だから、牧野がわたしのこと男だと勘違いしてると気づいても、言い出せなかったんだよ。わたしが実は女だった、なんて言ったら、牧野と友達でいられなくなるような気がして――――」
言われてみれば確かに思い当たる節はいくつもあるのだ。
そもそも初対面のとき、コヤツの一人称は『わたし』であった。私がこの喋り方なのでさほど気にしなかったが、一般的な男子学生として『わたし』は無いであろう。
私に対し何かと挙動不審だったのも、逆に穂波や天城を相手に最初から仲良くなれていたのも、コヤツが女だと考えれば納得がいく。異性に対してデレデレしている不埒者ではなく、異性に対し緊張するウブな女だっただけである。
天城がコヤツに対し寛容だったのもうなずける。何せコヤツは汚物たる男ではなく、カワイイ女であったのだから。
読者諸君、私はアホである。どこをどう考えてもアホである。妹の恋を後押しするつもりだったのに、何ゆえ女相手に女をくっつけようとしておったのか。そもそもどうして滝沢を男だなどと思っていたのだろうか。確かに宝塚に出てきそうな美男子だとは思っていたが。――――いや待てよ、宝塚の美男子って、つまりは女ではあるまいか。
すっかり気を抜かれ、私は溜息を一つ吐いた。
「……残念だな。君が男なら、穂波を任せるのにこれ以上ない逸材だと思っていたのだが」
「牧野、何言ってるの? 雪村さんのこと、好きじゃなかったの?」
「……好きさ」
私はもはや、偽るほどの気力が残っていなかった。
「私だって彼女が好きだとも! だが、それは家族に対する愛情だ。異性への愛などでは無い、絶対に違う。この気持ちは恋なんかじゃない。私はそんな感情を持ってはいけないのだ!」
「――――どうして?」
「彼女は……私の実の妹だ。私は牧野家の養子、本当は雪村隼なのである。彼女の兄でありながら、牧野家にもらわれたのだよ。だから、私は彼女に恋するわけにはいかんのだ」
……言ってしまった。これだけは隠しておかねばと思っていた秘密を、言ってしまった。
しかしあろうことか、滝沢はくすりと笑ったのである。
「何がおかしい!」
「だって……何を言ってんだ。もっと凄い事情があると思ったら、まさかそんなことだなんて」
「……『そんなこと』だと?」
「うん。だって牧野、あれだけ雪村さんのことを溺愛してたのに、あの子の好意を拒絶するようなことばかりやってたじゃないか。だから、何か物凄い理由があるのかと思ったら……まさか、血のつながった兄妹だ、程度のことだったなんて」
「血のつながりは恋愛において相当な障害だと認識しているのだが……」
「だから何? わたしの知っている牧野隼は、そんなことでくじける人間じゃないよ。いつも身勝手で、無茶苦茶で、正直たまに迷惑で。でも、……君はいつもまっすぐだった」
滝沢は真面目な顔になっている。
「最近の牧野、どんどんおかしくなってる。無茶なこと言い出さなくなったし、いつも何かに脅えているようだし、誰かに振り回されてばかりだし。……君はそんな人じゃない。どんな状況にあっても、決して困難に負けず、やりたい放題高笑い。それが……わたしの好きになった、牧野隼なんだよ」
「……滝沢。ありがとう」
私は滝沢の頭をぽんと撫でた。
「私は、どうかしていたようだ。行かなければ。滝沢。私は、君という親友を……本当に、誇りに思う」
穂波の行き先に、当てなど無い。私は闇雲に福追を駆け回った。
人混みに紛れていたなら見つけるのは不可能に近い。しかし、彼女の性格から言って、一人で人混みを進むことができるとは思い難い。私は河辺を離れ、町中を探すことにした。いつもの駅、あの日の手芸屋、大学。どれくらい町を走り回ったのだろう。懐中時計を取り出せば十八時半。既に一時間ほど走りまわったことになる。
私は、穂波の行き先を必死に考えた。自分が彼女の状況だったら、いったいどこに行くだろう? 今度は、十二年前のときのような手掛かりは無い。ともかく私は走った。楽しげな家族とすれ違い、夜道をひたすらに走る。
そのときだ。
私の尻からブルブルと震動が伝わった。西園寺からの電話である。
「何だね西園寺! 今、少々忙しいのだ」私は足を止めずに、走りながら電話に叫ぶ。「用が無いなら後にしてくれないか!」
『分かってます。雪村さんを探してるんですよね?』
西園寺の声は、静かに落ち着いていた。
『話は全部滝沢さんから聞きました。雪村さんが気づいていなくて、彼女が隠したがっている秘密――――そういうことだったんですね。わたし、とんだ馬鹿野郎でした』
「バカ野郎?」
そうか、私はそんなに情けないか。自覚はあったがそうまで断定されると傷つくな。
『い、いえ、何でもありません! それより、雪村さんの居場所なら、西園寺、分かります』
「何だと?」
私が問うと、脂っこい声が西園寺の声にかぶさる。
『やあマキノぉ』
師匠である! ええい、この頼もしき声ときたら!
『こんなこともあろうかと、さっきの射的のときに、ホナミちゃんにオウノメちゃんを取りつけておいたのさぁ。キミたち、妙な様子だったしねぇ』
私は坂道の真ん中、足を止めた。
「師匠、モニタリングはできるのか?」
『キミのケータイには、こないだ入れたモニタアプリがあるはずだろぉ? ホナミちゃんにつけたオウノメちゃんはキミのIDに情報を送信するようになってるから、何も設定しなくてもキミのケータイでモニターできるはずさぁ』
「でかした師匠! これで穂波の居場所がわかる!」
私は電話を切ろうとしたが、そこで相手が西園寺に戻る。
『牧野さん、一つ、伝言を頼まれてくれますか!』
「何だね?」
『雪村さんに、西園寺が――――わたしが間違っていた、と……ごめんなさい、と』
意味がわからない。しかし、声は真剣だった。きっと穂波に言えば通じるのであろう。
「承知した。必ず伝えよう」
『お願いします! それでは、牧野さん、幸せを掴みに行ってください!』
電話はそこでぷつんと切れた。私はすかさず携帯電話をいじり、モニタアプリを起動した。
画面に映りし景色は、見覚えがある。この丘、この森、この大河。いったいどこであったろうか?
私は必死で記憶を辿り、そこがどこなのか確信を持った。
ここは、以前西園寺と一緒に迷い出た大河である。中堤防の向こう側にも川が見えるところをみると、駅から少し離れた上流の方であろう。この辺りにも来ると、花火の客はいないようだ。
むろん、彼女の顔は見えぬが、ゆっくりと歩いていることだけはわかる。
私ははっきりと、呟いた。
「私が、穂波を助けなければならぬ」
そして私は、駅の方向に駆け出した。
◆ ◆ ◆
堤防の上、やさしい笑い声とほのかな光の中を私は走り続けた。
私は唇を噛みながら、ひたすら一心に穂波を探した。土を蹴り、見物客を抜ける。川も上流になり、もう一本の河と合流する部分にまでさかのぼった。穂波の正確な居場所はわからなかったので、とにもかくにも走るしかなかった。
人混みが無くなったとはいえ、遠くからは楽しげな喧騒が聞こえてくる。
私は、穂波に出会えたら何を言うべきか考え続けていた。しかし、そんな考えは穂波を見つけた瞬間に吹き飛んだ。
私の思った通り、彼女はとぼとぼと歩いていた。どうにも、ひくひくとしゃくりあげているようである。
私は意を決し、彼女に駆け寄った。
「穂波。帰ろう」
穂波はこちらを振り向くこと無く、立ち止まる。
「……どうして来たの? 隼には西園寺さんがいるのに」
その声は平静を装っているが、はっきりと涙が混じっていることが聞いて取れる。
「それは君の誤解だ。私は彼女と何の関係も無い。どうして彼女が私のことをそんなに知っていたのかがわからん」
「嘘よ。隼は、私が嫌いなんでしょ?」
穂波は震えながら声を張る。
「私が嫌いだから、滝沢くんに押し付けて、厄介払いがしたかったんでしょ?」
「だから何を言っているんだ? 私はあくまで君のことを思ったがゆえに君を応援していたのだぞ」
「嘘よ。私が滝沢くんとくっついてしまった方が良かったんでしょ? そうしないと、ずっと私の面倒を見るはめになるから」
私は、何も返すことができなかった。
「滝沢くんには最初に話したの。私が好きなのは隼だって。だから、二人で話し合って、デートに行ったり、キスの真似もした。隼が嫉妬してくれると思ったから。でも、隼はいつも平気な顔をしていたわ」
私が、平気だっただと?
「冗談では無い! 平気なわけが無いだろう。君が滝沢と仲を深めて行く様を見ながら、私は本当に心を痛めていたのだぞ! 毎日、悶々とし続けた私の気持ちを勝手に解釈するんじゃない!」
「なら、どうして何もしなかったの? 私と滝沢くんの恋を応援していたの? 私のことが好きなのに、そうであってはならない理由って、何? 恋人がいるからじゃないの?」
「違う! 私が君に隠していたことはそんなことではない!」
私はもはやためらわなかった。深呼吸をすると、静かに真実を告げる。
「穂波。私は牧野家の息子では無い。私の元の名は雪村隼。君の、実兄だ」
「……何を、言ってるの?」
「信じられぬとは思うが、私は幼少の頃、君の家から牧野家に譲渡されたのだよ。だから私と君は従兄妹同士では無い。実の兄妹なのだ」
我が妹は言葉も無いようだ。それはそうであろう。恋する相手であった従兄が実の兄だとわかったのである。
「どうだね、穂波。私が兄だと知ってもなお、私のことを愛してくれるか?」
穂波はゆっくりと振り返った。うつむき加減にしているが、目元は赤く泣き腫らした様子が見て取れる。何かを言おうとするように口を小さくぱくぱくと動かしているが、言葉になっていない。
私は肩をすくめて見せた。
「私は、君が妹だとしても愛しているよ」
その瞬間、辺りがぱっと明るくなった。一瞬遅れ、後ろから破裂音が聞こえてくる。どうやら花火が始まったようだ。色とりどりの光に、穂波の泣き顔が照らされている。
「……私が妹だから、恋しないようにしていたの?」
「ああ、そうだ。だがもう、私はふっきれた。どんなに誤魔化しても、君への愛は本物だった。良き兄になることは諦めたよ」
「その……私……」
「穂波、君はどうだね。もう一度聞こう、兄が相手でも、君は良いのかね?」
我が愛しの妹は、ゆっくりと小さく頷いた。
「……でも、兄妹じゃ……結婚できない」
「恐ろしく気が早いことを言うな、君は」
何を言われるのか戦々恐々としていただけに、私は半ば呆れてしまう。
「なあに、法的に婚姻届が出せないだけではないか、構うものか。事実婚なら何の問題も無いのだぞ」
「そんなに適当なものかしら」
「そうとも」
実は一度近親婚について散々調べたことがある、とは言えぬ。実は子供作ったって構わんのだぞ。日本の法は我らの味方だ。
「第一、周囲にとっては、未婚の兄妹が同居しているだけではあるまいか。いったい何の問題があろうか。皆無である。これにケチをつけるようでは『赤毛のアン』のカスバート老兄妹にも文句を言ってもらわねばならん」
「……そうね」
我が愛しの姫君は、そう言うとくすっと笑った。
「ここまで来るのに……随分と遠回りをしたわね」
「そうだな。私は時間を掛けすぎたな」
「ばか。わたしも、隼も」
「ああ、そうだな」
「……おにいちゃんって呼んでいい?」
「そいつは随分と背徳的だな」
私は彼女をふわりと抱き寄せた。
改めて、私は決めたのだ。私の命ある限り、この女と共に生きて行こうと。