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第五章 『西園寺美月の独白』

 

 試験が始まり二日目のことです。西園寺と稲本さんは、ゼミ室にてノートパソコンの画面を眺めてました。画面の向こう側では、試験終了間際の牧野さんが、カリカリとペンを動かしてます。

「ねえ、稲本さん。ちょっと思ったんですけど、『ダレイオスちゃん』があればカンニングし放題じゃないですか?」

「何を言ってるんだよぉ、ミヅキちゃん。技術をそんなふうに悪用しちゃ駄目だよぉ。末恐ろしい子だねぇ」

 小型カメラと録音機を盗撮・盗聴に用いるのは悪用では無いと言うんですね。相変わらず行動理念がよくわからない人だなぁ。

「ねぇ、ミヅキちゃん。そろそろ、こんなことはやめなぁい?」

「こんなこと、って言うと?」

「マキノをストーキングするような真似は良くないって言っているんだよぉ。僕はこんなことをするために『ダレイオスちゃん』を作ったわけじゃないんだぁ」

 むむ、この人に正論を言われるとなんか従いたくない。

「稲本さん、お忘れですか? 西園寺に『オウノメちゃん』を無許可でつけて、行動を観察していたじゃないですか。あれと同じですよ」

「僕は人間観察の資料が欲しかったんだよぉ。それに、同じ人には一日限りじゃないか。同じ人に三カ月もつけて、当人に特別な感情を持ってるミヅキちゃんとは違うんだよぉ」

 この人の中では、線引きがあるんだろうなぁ。あんまり理解できないけど。

「そんなに崇高だって言うなら、西園寺にも考えがありますよ。ストーカー……じゃなくて、その『人間観察』の証拠を学生自治会に提出しちゃいます。世間は稲本さんを犯罪者と呼ぶと思うんですけど」

「謝るよぉ! あれは確かに悪かったよぉ!」

 あれは五月のことだったでしょうか。

 大林ゼミに入った西園寺は、稲本さんの『人間観察』のターゲットになってしまったのでした。そのせいで、西園寺が牧野さんを陰ながら見ていることが稲本様の知るところとなってしまったのです。

 しかし、ただやられているばかりの西園寺ではありません。付けられた『オウノメちゃん』に気づき、稲本さんを脅しに掛かったのです。怒った西園寺は手段を選ばないのですよ。

 脅迫はあっさりと受け入れてもらいました。『オウノメちゃん』を使わせてもらう代わりに、稲本さんの悪事を黙っていると言ったら、二つ返事で快諾して頂けたのです。えへへ、さすがは西園寺。使えるものはでぶでも使うのです。

 

「でもねぇ、ミヅキちゃん。僕は確かに女の子たちを撮ってはいるけど、それはあくまでも彼女たちの行動を追体験する楽しさを求めているんだよぉ。でもキミは違うよねぇ。マキノ自身にこだわって、彼のプライバシーに興味を求めている。こう言っちゃなんだけどぉ、キミは世間で言うストーカーなんだよねぇ」

「わざわざ言われなくてもわかってますよ。でも、」

 西園寺はぷうと頬を膨らませました。

「西園寺は不器用なのです」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 牧野さんと最初に出会ったのは、今年の春。大学の、入学式のときでした。

 その日、西園寺は華麗に大学デビューを迎える予定だったのです。友達のいなかった高校時代を知る人はここにはいません。ここで西園寺は面白美少女として、友達百人作ってやると意気込んできたのです。

 服良し、髪良し。春休みに染めた髪はきっちり栗色だし、キュロットスカートは膝丈より短くしました。

 

 

 

 その日、西園寺は大学で迷ってしまったのです。式が講堂で行われることはわかっちゃいるのですが、講堂ってどこなんでしょう。構内に入るときにもらったパンフレットに地図は載っていますが、現在地がわからなきゃ地図なんて役に立ちません。

 もちろん、近くの人でも捕まえて道を聞けばよかったんです。しかし西園寺は、見ず知らずの人に声なんて掛けられません。自分でもバカバカしいとは思っているんですけど、西園寺は人が苦手なのです。慣れた相手ならば明るく話せるのですが、知らない人相手だと声が出てこないのです。

(そもそも、周り歩いてる人が先輩か新入生かもわからないし、新入生に声かけちゃったら仕方ないし、だから話しかけないのは不可抗力なのです)

 そんな後ろ向きなことを考えながら、西園寺はとぼとぼと廊下を歩いてました。

 そのときでした。

 背後から突然、ぽんと肩を叩かれたのです。びくっとして振り返れば、そこには大柄な男性が立ってました。

 歳にして三十代くらい。もしかすると二十代の半ば程度かな。下駄に作務衣という組み合わせでありながら、焦げ茶色のショルダーバッグが何とも不似合いです。

「君、先ほどから挙動不審だよ。どうかしたのかね?」

 耳が隠れるほどの長さの髪は、ろくに手入れもしていないのでしょう、ばさばさとぞんざいに伸び、あちらこちらが跳ねています。厚い黒ぶち眼鏡は鼻の頭までずり下がっておりますし、顎には無精ひげがぽつぽつと飛び出ています。冴えないおじさん、という風貌でしょうか。

 なんて感想を持てたのはずっと後のことで。

「わ、わた、その、えと」

 そのとき、西園寺はすっかりパニックになってました。知らない人と話すのは苦手、ましてや男の人なんてお父さん以外ではほとんど喋ったことが無いですから。気まずいのと同時に、この人を困らせることになってしまう申し訳無さが胸を突きます。

 しかし作務衣さんは、気にも留めていないように微笑みました。

「フムゥ、まずは落ち着きたまえ。そら、深呼吸だ」

「え、あ、あの」

「それゆけ深呼吸。吸って、吸って、吸って」

 言われるがままに息を吸い、西園寺はハッとしました。

「は、吐かせてくださいよ!」

 思わず突っ込みを入れると、作務衣さんはしたり顔になります。

「わはは、やっと日本語を喋ったな。実は外人だったらどうしようかと冷や汗が流れていたのだが、杞憂だったようである」

 全然そうは見えなかったけどなぁ。

「言葉が通ずるならば話は早い。いったい、どうしたんだね?」

「あの、実は道に迷っていて……。えっと、わたし新入生なんです。今日は入学式で……」

「ああ、なるほどそういうことかね。それできょろきょろしては溜息を吐いていたのだな」

 そこから見てたのか。だから西園寺の狼狽も予想済みだったのでしょう。

「えと、講堂はどこですか?」

 まあいいです。この人に道を聞けば、すぐに講堂に案内してもらえるはず――――

「それは私も聞きたいところだよ。なに、私も新入生でな。連れと一緒に来たのだが、あの人混みではぐれてしまってこのザマよ。すっかり迷ってしまってこの始末である。やれやれ、十九の誕生日を迎える若者としてこのような体たらくは恥ではあるまいか」

 二十代半ばと思っていたら、同い年ですか!

「ご、ごめんなさい……」

「恥を恥と知るは成長だ。私に謝ることは無いぞ」

 彼は苦笑しながら肩をすくめます。いや、べつにそこに謝ったわけじゃなくて、その。

「落ち着きたまえ。私は『怖くない人』だから、君が慌てても平気だよ」

「……え」

「あれ、違ったのかね。君は人が怖いんだとばかり思ったよ。君、初対面の人と話すのは苦手なんじゃないかね?」

「な、なんで、それを」

「先刻から君は私の目を見ないどころか、焦点が合わぬ目をしているよ。人見知りにありがちな類型だ。大方、そのせいで道を誰かに尋ねることもできなかったということではないかね?」

「……よく、分かりましたね」

「そりゃあ、わかるさ。そういうのが私の家にも一人いるのでな」

 彼はずり落ちた眼鏡を両手で上げると、私に手を差し伸べます。彼の手はごつごつと骨ばっていて、それでいて指はすらりと長く、私の小さな手とは全く違うものでした。

「よし、行こうか。誰かに道を問おうではないか。なあに、問答は私に任せたまえ」

「あ、ありがとうございます。……えと、その手は、何でしょうか?」

「手をつなごう。またはぐれては敵わぬからな」

 ……凄く、変な人だと思いました。

 でも、そんな変な人に、西園寺は心を奪われてしまったのです。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「それで好きになってマキノを追いまわした挙句、同じゼミに潜りこんだはいいけど、一年経った今でもまともに話もできないんだもんねぇ。ミヅキちゃん、ちょっとキミは情けないよぉ」

「……ほっといてください」

 終業の鐘がガランガランと鳴っている中、私はぷくっと頬を膨らませました。「というか人の回想を勝手に覗かないでください」

「ぬふふふふ、絶賛覗き中のキミがそれを言うのかぁい?」

「温厚な西園寺もそろそろ沸点来ちゃいますよ? それより、試験時間は大丈夫ですか?」

「はいはい、それじゃあ失礼するよぉ」

 稲本さんがどすどすと出て行くと、第二書庫は不意に静かになります。まさかと思って振り返っても、大林教授はいません。試験監督をしているのですから当然ですけど。

 パソコンの画面を見れば、牧野さんの友人が見えます。滝沢さんでしたっけ。さっきの試験の答え合わせをしているようですね。牧野さん時間割なら、この後には倫理学の筆記試験を控えているはずです。……すごいでしょう? 彼の時間割は全て把握しているんですよ。

 わたしは『ダレイオスちゃん』のモニタリングムービーを終了させると、ノートパソコンをぱたんと閉じました。

「西園寺は――――わたしは――――最低ですね」

 自重気味に呟きます。

 今までしてきた覗きや盗撮。それはもちろん、到底許されることではありません。しかし、私の罪はそれだけではありません。後をつけている中で、私は知ってはならないことを知ってしまったのです。それは、彼の呟いた独り言を聞いてしまったことで、分かったことでした。あの日も、牧野さんは屋根に上って呟いていたのです。

 

「鎮まれ牧野隼。君は実の妹相手に何を考えておるのだ」

 

 ……牧野さんが、雪村さんのお兄さん?

 それから彼の独り言を記録した結果、わたしは牧野家と雪村家の間で起こったことの顛末をほとんど正確に把握することになってしまいました。わたしは初め、この事実を喜びました。てっきり、牧野さんは雪村さんと恋人とばかり思っていましたから。彼らが兄妹ならば、わたしにもチャンスがある。心からそう思いました。

 ですが、彼の行動を追ううちに、わたしは自分の考えが大きく間違っていたことを知りました。牧野さんは自由ではなかったんです。むしろ逆で、彼は兄であるゆえに、雪村さんへの思いを募らせ、いつも悶々としているようでした。おそらく彼は、雪村さんを大事にするあまり、自分のことなど考えられないのでしょう。

 ……わたしは、牧野さんが不憫でなりませんでした。彼がそれでいいのなら、と耐えてきましたが、限界が訪れました。わたしは、この状況に決着をつけようと思い立ったのです。

 第二書庫の戸が、がらりと開きます。そちらを見なくても、誰が来たのかは分かっていました。というのも、他の方は軒並み試験に向かっているはですし、そもそもわたしが彼女を呼び出したのですから、分かって当然というものです。

「――――話って何?」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 涼しげな顔で立っていたのは、雪村穂波その人です。

「他には、いないのね」

 わたしの隣、ソファにぽすんと腰を落としました。

「今の試験、すごく性格悪い文章題が出たわ。あいつ、絶対に許さない」

 先ほどまで、このモニターに映っていたから知っています。と言うわけにはいきませんか。

「……それより、西園寺さん。話って何?」

「雪村さん」

 私は、前を向いたまま……彼女を見ぬまま、声を絞り出しました。

「牧野さんを、解放してくれませんかね」

 ……廊下の外の雑踏が第二書庫にまで響いてきます。たっぷり十秒以上、静寂が流れました。

「言っている意味がわからない」

 雪村さんは、静かにそれだけ言います。

「解放って、まるで私が隼を縛り付けているみたいな言い方ね」

「あはは、伝わりませんか。じゃあ言い方を変えましょう。雪村さんは、どうして滝沢さんと中途半端な関係を続けているんですか?」

 わたしの左で、雪村さんがぴくりと反応したのが分かりました。

「これはあくまで西園寺の勝手な妄想ですけど」

 ちらりと見れば、視線がゆっくりと下がっています。「あなたが好きな人は、滝沢さんではありませんよね」

「……どうしてそう思うの?」

「誰がどう見ても不自然なんですもの。誰でも分かりますよー、一部例外を除いて」

 そもそも、雪村さんの口から滝沢さんに対する好意が語られたことはありません。牧野さんの勘違いという可能性は十分にあります。あの牧野さんですからね。

「牧野さんが勘違いした理由は、一つ。あなたが大事に持っていた写真が、牧野さんと滝沢さんの写っていたものだったから。それだけですよね? でも、あなたは牧野さんの協力を受け入れないどころか、滝沢さんとの関係も宙ぶらりん。つまり、あなたは……」

「……そうよ」

 無理に平静を装ったような声で、雪村さんは答えます。

「私が好きなのは、隼」

 ――――そうですよね。

 予想通りです。だからこそ、雪村さんは滝沢さんとの関係を縮めようとしないのです。牧野さんは、自分が手を貸さなかったために内気な雪村さんが動けなかったと思い込んでいたようですが、それは間違いでした。そもそも、前提が違っていたのです。

「それなら、どうしてすぐに言わなかったんですか?」

「言ったわ。でも、聞いてもらえなかった」

 ……ああ、そう言えばそうでしたね。雪村さんは最初から、滝沢さんではないと明言されていました。しかしだからと言って、面と向かって牧野さんに本心を打ち明けられない、と。

 そこまでは分かります。ですが、分からないのはここからです。

「牧野さんが分からず屋なのは分かります。狂おしいほどに。でも、滝沢さんにならどうですか?」

 牧野さんを追い続けたわたしが見る限り、滝沢さんはものわかりの良い方です。『隼に勘違いされ、こうやって引き合わせられてしまった』とでも言えば、それを受け止めぬような相手では無いはずです。牧野さんに聞かれずに話をする場面はいくらでもあったのですから、そのときにでも言って、後々牧野さんの前で、滝沢さんに振られる寸劇でも見せればすれ違いは解消できるはずなのです。それなのに、雪村さんは何もしなかった。ただ、流されていました。

「言ったわ」

「……え?」

「だから、滝沢くんにも言ったわ。滝沢くんも、さっきの西園寺さんみたいに、私の気持ちを言い当てたの。そうしたら、私に協力してくれるって言ってくれたの。だから、私たちは仲良くなっていく演技をしていたのよ」

 ――――何を言っているんですか、この人は?

「そんなことをして、何の意味が……」

「私と隼は、すっかり家族みたいになっているわ。でも、私が他の誰かに恋をして、他の誰かのものになろうとすれば、隼の気持ちが動くかもしれない。……私のことを、異性として見てくれるかもしれない。そう思ったの」

 呟くように言うと、雪村さんは目を伏せました。

 そういうこと、だったんですか。牧野さんは全く気付いていませんが、この人と滝沢さんの二人の計略にまんまと乗せられていたんですね。

 事実、その計略は成功していたのでしょう。牧野さんは、自分の中に芽生える感情に悩まされ、苦しみ、混乱していました。彼が雪村さんの従兄だったら、きっと彼女に恋心を持つようになっていたのでしょう。しかし、実際にはそうはいきませんでした。彼は 雪村さんの実の兄だったのですから。

 結果、彼は妹への愛情を募らせ、必死でその感情を押し殺すことになった。

 こんなことが、こんなことがあっていいのでしょうか。

「……雪村さん。いや、雪村穂波。わたしは、あなたを軽蔑する」

 気づけば、わたしは呟いていました。

「あなたはそれでいいのかもしれません。でも、周りの人間の気持ちはどうなるんですか?」

「…………」

「滝沢さんの気持ちが、ないがしろにされてはいませんか?」

「……滝沢くんは承知の上で私に協力してくれた」

「それだけだと思っているのなら、あなたは本物の馬鹿ですよ。誰が見ても分かるじゃありませんか。滝沢さんがあなたをどう思っているのか、分かるでしょう」

 わたしが言うと、雪村は小さく息を飲みました。

「あなたの態度も不審でしたが、滝沢さんの言動も理解できませんでした。彼も彼で、なかなか決定的な動きを見せない。あなたの気持ちが、牧野さんに向いていることを知っていたのであれば、それも納得がいきます。彼は牧野さんに遠慮して、あなたに対して動き出せなかったんです。滝沢さんは、優しい人ですから」

 予想もしていなかったのでしょう、雪村は茫然としています。私は、ここで追いうちを掛けるべきだと思いました。

「それに、その計略はもう失敗していますよ。牧野さんは、あなたの恋に全力で協力し続けています。あなたのことを意識するどころか、ただの妹扱いから全くぶれていないじゃありませんか」

「それは……」

「いいですか? 牧野さんはあなたと結ばれてはいけない理由があります。だからこそ、あなたの幸せをただ願って、自分のことを脇に置いてまで、あなたに純粋な協力をしてくれているんです。それなのに、あなたはその誠意を踏みにじっているんですよ」

「理由って、何よ」

「それはわたしの口からは言えません。牧野さんがあなたに語っていないのなら、それはわたしが言うべきことではありません」

 雪村はさっきから俯いたきり、顔を上げようとしません。

「わたしが先ほど言ったことの意味は分かってもらえましたか? あなたは今、牧野さんをがんじがらめに縛り、自分のことだけを考えさせています。しかも、彼があなたに振り向くことは絶対にありません。そんな無意味なことに、あなたのことを想う青年を利用し、押し潰し、芝居を続けさせています。自分がどれほど身勝手な人間か、分かりませんか?」

 反論は、無い。沈黙が返ってくるばかりです。だから、わたしは勝利を確信しました。

「今の状況では、誰も幸せになれません。でも、全ての問題を解消できる人物が一人だけいます。……分かりますよね?」

「……どうすればいいのよ」

「簡単です。牧野さんの作戦通りにあなたが滝沢さんと結ばれればいいんです。滝沢さんは待ち望んでいたでしょうし、牧野さんはあなたを心から祝福してくれるでしょう。それが正しい形です。それが正しい流れです。流れに身を任せれば、それで全てが救われます。牧野さんも、滝沢さんも、

 

 わたしも。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 やはり――――わたしは最低です。

 一人残された第二書庫、わたしは一人頭を抱えていました。いつまでそうしていたのでしょうか。ふと気付くと時計は一時間以上進んでいました。がらりと戸を開け、稲本さんが戻ってきます。

「……どうしたんだぁい?」

 一目でわかるほどに、西園寺の状態はまずかったのでしょうか。首に巻いたタオルで汗を拭き拭き、稲本さんはわたしの対面にどっかりと腰掛けます。

「何かあったのぉ? 凄く顔色が悪いよぉ」

 

 わたしは、雪村さんとの問答をゆっくりと語りました。

 彼女を呼び出し、質問を繰り返したこと。雪村さんは滝沢さんとグルになり、牧野さんを騙していたこと。そして、わたしが彼女にとんでもない攻撃を仕掛けてしまったこと。稲本さんはウンウンと頷きながら、話を聞いてくださいました。

「わたしは最低ですね。わたしには、雪村……さんを責める資格なんてありません。わたしも彼女と同じです。自分の幸せのために、誰かを犠牲にすることを厭わない、汚れた人間です。わたしは結局、牧野さんのことを考えていたわけではないのです。牧野さんを一人にしたかった、それだけなのかもしれません。とどのつまりは自分のことしか考えていなかったんです」

「それでも、いいんじゃないかなぁ」

「でも、わたしは……自分のために、雪村さんの幸せを……壊しました……」

「普通の人は、みんなそんなもんだと思うよぉ」

 稲本さんは耳をゴソゴソほじりながら、呑気に言います。

「自分のことを考えた結果、人が見えなくなってしまうことなんて、誰にだってあることだよぉ。もちろん、わざわざ人を嫌な目に遭わせようとするのは駄目さ。でもぉ、何かの結果として誰かが傷ついてしまうのは、絶対に避けられないことじゃないかなぁ」

 そう言うと、稲本さんは鞄をごそごそと探り始めました。取り出したるは、大柄なフィルムカメラです。

「これはね、二十年以上前に販売が中止になったプレミアモデルなんだよぉ。でも、この間、亜麻松のコグレヤで百台限定の再販売が行われたのさぁ」

「それが……なんですか?」

 いきなり飛んだ話に、わたしはついていけません。

「まあ、聞きなよぉ。僕はねぇ、このモデルがどうしても欲しかったんだぁ。だから、前日から並んだのさぁ。でも、僕がコグレヤに並び始めた頃、既に人は多くてねぇ。結局、翌朝、僕はギリギリ九十八番目でこのモデルを買うことができたのさぁ」

「はあ、そうですか。おめでとうございます」

「まあ、僕はそうしてこのカメラを買えたから良かったんだよ。でも、僕より三人以上後ろに並んでいた人はどうなったかなぁ。もちろん、カメラは買えなかったわけだよ。ほらね、僕はその人たちのことなんか考えていなかったし、結果的に彼らの幸福を奪ったことになるだろぉ?」

「それは……行列という例だからです」

「いいや、違うねぇ。むしろ、恋愛なんてのは一種の戦いだからねぇ。一人しかいない人間を奪い合う以上、誰かが負けなきゃいけない」

「戦いって……そんな」

「何も間違っていないだろぉ?」

 稲本様はにったりと笑います。

「そこで、誰かの不幸を取り除けるならと、自分の欲しかったものをみすみす渡してしまえるのは、マキノのような変人にしか出来ないことだよぉ。凡人は、奪い合うことでしか幸せを手に入れられないのさぁ」

 ……納得がいきません。でも、このおでぶさんが何を言いたのかは分かりました。

「だからねぇ、ミヅキちゃん。そんなに気に病むことは無いんだよ」

 この人は西園寺を慰めてくれているのです。

 ただのスケベでおかしな気持ち悪い人かと思っていましたが、なかなかどうして、優しい御方ではありませんか。思えばこの方は、わたしが牧野さんを追い続けていたとき、ずっと手を貸してくれました。

「……ありがとうございます」

「お礼なんていいんだよぉ。それに、ね」

 稲本さんはニィと微笑みます。

「キミの思っているような結末には、ならない……いや、なれないと思うよぉ」

「……どういう意味ですか?」

「さぁ、どういう意味だろうねぇ。ポヤポヤなマキノはもう話にならないとして、キミも直接の接触が無かったから知らなくても無理はないよぉ。でも、さっきの話を聞いた限りでは、ホナミちゃんも気づいていなかったみたいだねぇ。だから事態がますますややこしくなっちゃってるんだよぉ」

 仰る意味が、全く分かりません。

「稲本さん、あなたは……何を知っていると?」

「知っていると言うか、気づくと言うかねぇ……。まぁ、僕がここで君に教えてあげてもいいけど、きっと君は信じないだろうと思うよぉ。それに、"カノジョ„も隠したがっていることみたいだしねぇ」

 彼女……雪村さんの秘密? 隠したがっていて、秘密なのに、『ホナミちゃんも気づいていなかった』……?

「ミヅキちゃん、キミは心配することは無いさぁ。確かにあの三人の関係はいびつな悪循環を起こしていた。それを壊すために、キミは大きな役割を果たしたはずなんだよぉ。ここからどうなるかは、僕にもわからない。だけどもう、事態は転がり始めてしまったんだぁ。もうキミが悩んだところでどうしようもない、終着点を決めるのはマキノでしかないんだからねぇ」

「何だか、あなたらしいイタイ言い回しですね……」

 その言葉の意味するところはわかりません。しかしわたしは、彼を信じることにしました。最後に牧野さんがわたしを選ばないとしても……彼が今の状況から脱出できれば、それはわたしにとって少しは慰めになることですから。

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