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第四章 『秘密色エンゲージ』

 

 夢を、見ていた。

 

 穂波が我が家にやってくる、半年ほど前の記憶だ。

その日、私は小学校から帰ると寝室に駆け上がった。そのとき、母はナントカという病気をこじらせ、寝室で寝込んでいたのである。と言っても精神的には元気なもので、ベッドの上の彼女はゲームボーイを片手にしていたのだが。

 私はただいまも言わず、部屋に入るなり彼女に問うた。

「ねえ、お母さん。僕は、お母さんの子供じゃないの?」

 母上はこの質問にぎょっとしたような顔をする。

「学校でみんなに言われたんだ。僕はO型なのに、お母さんはB型で、お父さんはA型でしょ。僕は、お母さんの子供じゃないの?」

 今思えば、A型とB型の夫婦からO型は産まれうるので、これだけでは決定打にならなかったはずだ。しかし、母上はそんなことに思いを巡らす余裕も無かったのだろう。あからさまに動揺した様子で、ゲームボーイの電源を落とした。

「……はあ。隠しておきたかったんだけどね。あんたは、あたしの弟の子なんだよ」

「弟って……つばめおじさん?」

「そうだよ。あんたは燕の息子なんだよ。あたしは病気で子供が産めない体になっちゃったから、燕からあんたをもらったんだ。ほら、あそこのほなちゃんはあんたの妹」

 私は、思いもよらぬ事実に茫然としていた。

「ほら、雪村の男はみんな鳥の名前がついてるでしょ? おじいちゃんは鷹夫だし、その子供は燕。あんたは隼。その字、ハヤブサっていう鳥の名前なんだよ」

 母上はそう言うと、ベッドからふらりと立ち上がり、私に倒れこむように抱きついた。

「ごめんね、隼。今まで、嘘吐いてて」

 その声を聞いたとき私は、怒ることも、悲しむこともできなくなった。いつでもちゃらんぽらんでふざけた様子の母が、泣いている。

「お母さん、いいよ。本当のお母さんなんかより、僕はお母さんの方が好きだから!」

「……あんたはいい子になったねえ」

 母は涙声で笑いながら、いつまでも私を抱いていた。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 ゆさゆさと身を揺すられ、私は目を覚ました。ぼんやりと目を開ければ、穂波が至近距離で私の肩を掴んでいる。

「……おふぁよう、穂波」

 ぼんやりと記憶を辿る。そうだ、私は空き時間、ゼミ室のソファで居眠りをしていたのであった。ここのソファはよほど上質のものらしく、下手なベッドよりも寝心地がいいのだ。

「こんな時間におはようもないものね。そろそろ行かないと遅刻するわよ。比較文学の田窪、性格悪いから欠席扱いにされるわ。早く起きて頂戴」

「君、仮にも教授を性格悪いとか言うものではないぞ。まあ性格悪いとは思うが」

 と私はぼんやりと答えながら、ハッとした。

「遅刻だと?」

 時計を見れば十四時半。昼食直後から寝ていることを考えると、ざっと二時間も寝てしまったらしい。

「……まさかこんなに寝てしまうとは。ほんの仮眠のつもりだったのに。どうしてこんなに寝てしまったのだろう」

「まあ待つんだ、牧野君」

 部屋の奥より、鼻がかった渋い声が響いた。我々がハッとしてそちらを見れば、窓際の安楽椅子で逆立ちをして、中年のオジサマがにこりと笑っている。

「これは、ミステリだよ」

 大林康介教授、いらっしゃったんですね!

「というか教授、何をしてるんです……?」

 若干引きながら穂波が問うと、大林康介教授は窓の外に目をやり、フフフと含み笑いをした。もはや何がミステリなのかわからぬ。この人の存在だろうか。

「アホ教授に付き合っている暇は無いわ。さっさと行くわよ」

「だから君、教授をアホとか言うものではないぞ。まあアホだとは思うが」

 私が穂波に手を引かれ、第二書庫を出る瞬間まで、大林康介教授は逆立ちを続けていた。よくも安楽椅子のような不安定な場所で逆立ちなどできるものだ。さすがは日頃タイピングで腕を酷使する小説家、バランス感覚や腕力も抜群だということか。いや、いくらなんでもそれは世の小説家に怒られる気がする。

 

 墓参りの日から、既に二週間が過ぎていた。七月も中旬を迎えた今、福追大学は試験週間である。

私は日々焦燥感を感じておった。

無論、試験に不安があるからというわけではない。自分で言うのも如何なものかと思うが、私は日頃きちんと勉強をしている優良学生である。いつも通りの生活をすれば、試験など恐るに足りん。直前になってばたばたと慌てるようなロクでもなき大学生諸君とは違うのだよ。

 我が焦りの原因は、遅々として進まぬ穂波の恋路である。

 先月手芸店に行ったあの一件以来、穂波と滝沢の交流はぱたんと止んでしまったようなのだ。いや、無論大学で顔を合わせれば話もしているし、メールアドレスも交換しているという話だが、学外では全くのノータッチなのである。これはまずい。激しくまずい。例の『炭酸抹茶』に匹敵するほどにまずい。

 師匠によれば、異性の友達とは『学校で会う者』、恋人とは『家で会う者』、外で会う者は『友達以上恋人未満』と定義されるらしい。とどのつまり、如何に公共空間から私的空間に相手を引き込むかが重要だ、という発想であろう。まあ、理解できぬ話では無い。ただ……ホームパーティでも開いたらどうするつもりなんだと聞いたところ、

「そんなもんに出るようなリアジューには適用されないよぉ」

 とのことであった。リアジューって何だろうか。リアル十代かと思ったが文脈に合わぬ。

 ――――まあ師匠のことはどうでもよろしい。ともかく学外での接触を持たせねばならん。そう思っていた矢先の試験週間である。つまり、試験が終わってしまえば夏季休暇となり、滝沢との交流は途切れてしまうことは間違いが無い。

 私とて、滝沢と長期休暇中に会うのなんて数日なのだぞ。穂波がどうなるかなんて、火を見るよりも明らかである。となれば、ここで私が手を打たずしてどうするのだ。

 私は良き兄として、穂波を助ける義務があるのである。

 

 比較文学の講義が終わるや否や、私は隣の親友の肩をバシンと叩いた。

「滝沢! ああ滝沢滝沢や」

「どうかしたのかい、牧野くん?」

 滝沢は爽やかな顔をしておる。

「どうしたもこうしたも無いわい。君は明日、暇かね?」本日は金曜日なのである。「確か、君のアルバイトは火曜日と水曜日だった覚えがあるのだが」

「あと第二、第四日曜日かな。うん、明日は空いているよ?」

「それなら良かった。我が家で勉強会をせぬかね? もちろん穂波も一緒だぞ!」

 背後からブッと何かを吹くような音が聞こえてきた。見れば、滝沢の逆側に掛けていた愛する妹が、ゲホゲホとむせている。

「大丈夫かね、穂波」

「ば、ばば馬鹿! 何をいきなり言い出すのよ! びっくりさせないで頂戴!」

「君の驚愕など構うものかね。私は人権論の講義中ほとんど寝てしまったためノートが無いのだ!」

 再三書こう。私の特技は息をするように嘘を吐くことである。

「わたし関係無いじゃない!」

 ええい人の気も知らずにこの阿呆は。せっかく私が彼との接点を持たせてやろうと思っておると言うのに。……まあ、人権論のノートを見せてもらいたいのは確かに本当なのだが。仕方ないだろう、あの講義は非常に退屈でつまらんのだ。あんなものを九十分聞き続けられる奴がいるとしたら変質者である。……ああ、それでは滝沢が変質者になってしまう。まあいいか、どうせコヤツは古文書変態なのだし。

 私は愛しの姫の頭をぽんと撫で、滝沢に振り返った。

「というわけだ、滝沢! さあ我が家にカモン!」

「どういうわけなんだい……?」

 滝沢は小さく肩をすくめ、苦笑する。

「まあ、牧野くんが唐突なのはいつものことか。了解したよ。ノート全部持ってけばいいのかな?」

「左様。明日の九時にでも、岩戸駅に降りてくれ。迎えに参る」

「わかった。岩戸なら定期の区域だし、問題は無いよ」

 滝沢は答えながら荷物をまとめ、立ち上がる。

「牧野くんはもう帰るのかい?」

「いや、私は図書室に本を返しに行くつもりだ」

 と、そこで私は再び思いつき、穂波を彼にぎゅっと押しつけた。フヒャアなどと間抜けな声を上げ、我が妹はよろめいていく。

「そのため私は君たちとは同行できない。先に帰宅するといい」

「ちょっと、牧野くん……」

 私はくるりと踵を返し、教室からぴゅうと駆け出した。滝沢に何事か言われたような気がしたので、出がけに手をぷらんと振って。

 

 図書室に返却する本があったというのは本当である。私は図書室に駆けこむと、さっと返却を済ませ、本棚の間を散策しながら溜息を吐く。既に夕時ということもあり、図書室には学生の姿もまばらである。

「全く……あれでも穂波はやる気があるのだろうか」

 ぼやきたくもなるというものだ。せっかく私が彼女と滝沢の接点を必死で捻出しようとしているというのに、我が姫君はその好機を毎度毎度ふいにしようとしてくれやがる。アヤツ本気で滝沢にレンアイしているのならば、もっと積極的にならねばいかんのではあるまいか。

「明日の勉強会、果たしてどうなることであろう。つい思いつきで彼を誘ってしまったものの、今回ばかりは策が無い」

「そうだねぇ。ここは君だけじゃなく、助力を乞うべき場面だと思うよぉ」

「そうなのだよな……って、ぬな!」

 私はぎょっとして振り返った。夕暮れの図書室、紅く染まる世界の中で、この世の物とは思えぬほどに凛々しい姿の男が仁王立ちしておったのである。

「マキノぉ。水臭いじゃないかぁ。キミとホナミちゃんが悩んでるなら、それはもう大林ゼミの悩みだよぉ」

 赤いチェックのよれよれジャケット、破れかけたダブダブのジーンズ。そして美しく恰幅の良い腹部がはっきりと確認できるTシャツ。脂汗の申し子、稲本竜平師匠その人である。

「師匠! ど、どうしてここに? いや、むしろどうして私の状況をご存じなのですか?」

「マキノ、図書室では静かにねぇ。とりあえず、話は書庫でしようかぁ」

 

 師匠に連れられ、私は第二書庫に向かった。元々この部屋は図書室の書庫なので、廊下に出ること無く、直接図書室から入ることができるのだ。そこで私は、再び驚愕することになる。

「えへへ、どうも牧野さん」

 西園寺が困ったような笑顔で控えていたことはこの際構わない。問題は、机の上に置かれたノートパソコン、そのディスプレーに映されていた景色である。それはつまり、私が今見ているものと全く同じであった。

 ハッとして襟元を見れば、そこには見覚えのある小さな機械が付けられているではないか。そっと取り外せば、まぎれもなく『オウノメちゃん』である。い、いつから付けられていたのだろうか?

「む?」

『オウノメちゃん』だけではなく、もう片側の襟にも小さな機械が付いているではないか。

「……まさか、これは」

 と言いながら私は気付いていた。というのも、私の台詞がそのままノートパソコンからも聞こえてきたからである。西園寺はきらきらと口角を上げ、犬耳をぴょこんと動かした。

「話は全部聞かせてもらったぜ、先輩! ここからは西園寺に任せな!」

 いい笑顔だなぁ。

「男前に言われても何を任せたらいいのだ。もう君、面倒だから黙っていたまえ」

「そりゃないですよ、牧野さん。今日の西園寺はこれが言いたくて第二書庫で待っていたんですから」

「君は時間を無駄にしたとだけ言っておこう。それより、師匠」

 私は先ほどから己の声を出すパソコンを指差した。

「どういうことだね、これは」

 師匠はうふふふふと満面の笑みを見せた。

 ……同じ笑みなのに、西園寺のそれとはまるで異なる渋味があるから不思議である。

「紹介するよ、マキノ。これぞ僕の新作ビックリギョーテンメカ、『オウノミミちゃん』だ!」

 ――――嗚呼、ここに穂波か天城がいればこの男を蹴り飛ばしただろうなあ。やりおった、この男。やるとは思っていたが、やりおった。

「要するに単なる盗聴器では無いかね……」

「何を言うんだ、マキノ。盗聴器風情と一緒にしないでもらいたいよ、本当にぃ。普通の盗聴器を人間の襟元に付けたりしたら、息や足音、震動でノイズだらけになっちゃうんだよぉ。『オウノミミちゃん』はそんなことは無いのさぁ」

 それでも結局、ひどく性能のいい盗聴器では無いのだろうか。まあ、そんなことは忘れよう。問題は、

「師匠、何ゆえ私に『オウノメちゃん』と『オウノミミちゃん』を付けたのだ?」

「あぁ、それ二つセットで『ダレイオスちゃん』だからぁ」

「どうでもよろしい。その『ダレイオスちゃん』を付けた理由を吐きたまえ。というかいったいいつから付けていたんだね。いくら師匠とはいえども、穂波に迷惑を掛けるような真似をしたなら許さぬぞ」

「ま、牧野ぉ。そんな怖い顔しないでよぉ」

 む? 自覚は無かったが、そんな形相になっていたか。師匠を睨みつけるなど、弟子として褒められた行為では無かったな。

「今日、キミは延々と昼寝してたじゃないかぁ。そのときに付けただけだよぉ」

 ひとまず、よかった。ということは、我が家が筒抜けになるような事態は起きていないのだな。

「なぜマキノに付けたかってぇ? その理由は二つあるんだよぉ。一つは、『オウノミミちゃん』のテストをしたかったから」

 やはりそういう適当な理由なのか。

「そしてもう一つは、さっきも言っただろぉ? 君が最近、何かと難しい顔をしているからその理由を知りたくなったのさぁ。できることがあるかもしれないしねぇ。図星だったようだよぉ」

「し、師匠……!」

 正直に申す。私は不覚にも感動していた。やはり私の見込んだ男である。ここまでゼミの仲間のことを考えている素晴らしき男だったとは。私の悩みはそんなにありありとわかったのか。しかし、私がすっかり感極まった隣で、西園寺は溜息を吐く。

「稲本さーん、だからって盗撮や盗聴は犯罪ですよ? というか、牧野さんを選んだときだって『見つかってもあいつなら怒りゃしないからねぇ』とか言いながらだったでしょ」

「ちょっとミヅキちゃん、それ言っちゃ駄目だよぉ」

「西園寺は正直者なのです。悩みうんぬんは結果論だと言うのに、それを察知していたかのように言うのは見逃せません」

 全く、この女は理解が乏しいから困る。

「聞け、西園寺よ。この愚か者め。結果論とはいえども、師匠が私の力になってくれようとしているのは事実。私がありがたく思っていればそれでいいのだよ!」

 ですよね、師匠……と私が見ると、師匠は明後日の方向に目を逸らしている。

「どうしたんだね、師匠」

「確かに『ダレイオスちゃん』を付けたのは僕だよぉ。でも、映像を見た上で、キミを助けようという案を出したのは僕じゃないんだぁ」

「ではいったい、誰が?」

「――――あたしよ」

 ぼそっと、後ろから声がした。

 振り返れば、そこには真っ黒なポンチョを身にまとう不審者が一人。天が拒む地が拒む、女が認めようとも私が拒む、もののけ系変質者の天城奈緒である。いつにもまして長髪がばさばさと広がり、妖怪じみた何者かになっておる。

「まさか君が私の悩みに手を貸してくれるとは思わなかったな」

「……勘違いしないで。汚物のためじゃない。カワイくないもの」

 別に私だって自分が可愛いとは思っておらぬが、それにしても気に障る言い草である。

「あたしはほなちゃんのために力を貸すの。ほなちゃんの恋の悩み……カワイイ。助けたい。むしろ舐めたい」

「聞きたくないが聞かねばならぬ。何を舐めるのだ」

「ほなちゃんよ」

「私の目が黒いうちはそんなことは許さぬぞ。穂波の貞操は私が守る!」

 私たちがギリギリと睨み合っていると、西園寺が間に割って入る。

「まあまあ、天城さん。欲望はそのへんに! 可愛い西園寺で落ち着いてください! 牧野さんも、ここは穏便に。どう言ったとしても、天城さんは先輩の味方なんですから」

 ――――まあ、天城の助力は決して馬鹿に出来ぬ。

 コヤツは腐れ変態であるものの、そのおかしな行動力は目を見張るものがあるからな。敵に回したくは無いものだが、味方に回せばこれほど心強い者もいないだろう。しかし、なぜであろう。私はこの者が手を貸してくれることに違和感を覚えた。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「……ねえ、隼?」

 その晩、夕食の食卓にて。私の対面に掛ける穂波は、ぷるぷると震えていた。

「いったいどうしてこんなことになっているのよ?」

「おや、私の料理にご不満でもあるのかね? 君は鮭は好物だったと記憶しているのだが」

 本日の夕食は、鮭とキャベツのオイル焼きである。帰り途中、魚屋で鮭が安かったのだ。

「はっ、そうか。君は焼き鮭をご所望だったのだね! しかしそれは無茶というものだ、我が家のグリルはそこまで大がかりなものではないのだぞ。全員分焼くのにどれだけ時間が掛かってしまうかわからぬ」

「確かにわたしは、網焼きの方が好きよ。でも別にオイル焼きだって嫌いじゃないわ」

「では何が問題なのだね?」

「この人たちよ!」

 穂波がずびしと指し示す先には、大林ゼミの愉快な仲間たちが勢ぞろいしている。これだけ人数がいれば焼き鮭ができなくとも仕方あるまい。

「牧野さん、お料理上手なんですね。グルメな西園寺もこれには満足です!」

 にっこりと西園寺は微笑む。出来た子である。

「……ほなちゃんの料理が食べたかった」

「文句があるなら食うな、妖怪め」

 よくわからないことを天城は言う。変態だ。

「がつがつむぐむぐもげらもげら」

 清々しいほど一心に、師匠は料理をたいらげていく。料理人としては最高の客だ。

「隼、一体全体、ここはいつから大林ゼミの分室になったのよ。きちんと説明して頂戴」

 穂波はすっかり呆れ顔である。「何かするつもりなのかしら?」

「左様。来たる明日、勉強会と見せかけた君と滝沢の親交会が開かれるわけだが、その助力を頂くことにしたのだ! よって本日は急遽泊りがけで協力してくれるそうだぞ!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 穂波の顔が赤くなってゆく。

「どうしてみんなまで、わたしと滝沢のことを知ってるのよ! 隼、まさか話したの?」

「そんなことをするわけがなかろう」

「それじゃどうしてバレてるの?」

「私が師匠に盗聴器を仕込まれていたからだ!」

 稲本師匠が脂汗をまき散らし飛んで行くが、残されていた皿は空っぽであった。流石は師匠、こうなることも予測して早めに食事を済ませようとしていたということか。神がかった先読み、そして深い礼節の持ち主と言えよう。

「さ、最ッ低! わたしを笑い物にしたいのね!」

「不本意千万である。みな、君の恋路を応援しようと集まってくれたのだぞ。私に怒りを向けるは当然だ、盗聴器を仕込まれたのも私の不手際と言えよう。しかしゼミの皆を責めるのは間違いだぞ」

 穂波はしばらくわあわあと喚いていたが、五分もすると大人しくなった。私はこの態度を崩さなかったし、西園寺は何を言ってものれんに腕押しと言った状況だし。師匠はぴくりともしない上、天城は怒鳴られ喜んでいる節まである。むしろ、この状況下で五分も事態打破のために怒鳴り続けられる穂波は大したものだと思う。さすが我が妹。

 そんな穂波も、ようやく諦めたらしく、深いため息を吐いた。

「それで、何をするつもりなのよ。言っておくけど、変なことはしたくないわよ」

「その説明は君が蹴り飛ばした漢がするはずだったのだ」しかし例の如く、師匠はぴくりとも動かない。「そうだな、天城。君が話してくれないか」

「……あたしに命令?」

「穂波の頼みだ。目をつむれ」

 開けてるんだか閉じてるんだか、前髪でよく見えないが。

 天城は不満そうな顔をやめ、一枚のプリントを取り出した。大学を出る前に、師匠が印刷してきたものである。穂波はそのプリントを受け取り、ウワッと頓狂な声を上げおった。

「……作戦名『滝沢裕貴の本能を開花させよう企画』」

 私や西園寺もそのプリントを受け取る。そこにはかっちりとした明朝体、まるでマトモなことが書かれているかと言うような企画書の体裁で、随分と破廉恥な内容が書かれておった。

 

『今回の企画の目的は、依頼者「雪村穂波」とターゲット「滝沢裕貴」の物理的接触である。同居人「牧野隼」からの報告によれば、既に両者はまずまずの友人関係を築いていることがわかっている。しかしそれは、ある意味では危険な状態だ。というのも、発展し続けた関係が友人関係で安定してしまうと、それ以上の関係に発展することが難しいまでに安定してしまう――――つまり、良いお友達としての位置に収まってしまうことが懸念されるためだ。

 そこで今回の目的は、ターゲットの本能を喚起させ、依頼人の女性性を再確認させる。具体的には、身体的な接触の機会を増やす、依頼人の肌を露出させる、など。ターゲットと依頼人の関係が発展中であることを否応なく認識させられればそれでよい。

 ただ、仮にターゲットの本能が限界点を突破してしまった場合、この作戦は直ちに終了、成功として扱う』

 

 師匠は力を込めて書いてくださったが、要するに『穂波に破廉恥なことさせる作戦』である。

「……悪くない作戦。豚にしては上等。ほなちゃんのカワイイ姿が見られそうで、あたしはもう興奮している」

「天城さん、そろそろ友達をやめたくなってきたのだけれど?」

 穂波も気の毒である。私が思っていると、つんつんと私をつつく者あり。西園寺である。

「牧野さん牧野さん、ちょっといいですか?」

「何かね。稲本師匠の一番弟子、この牧野隼が答えられる限り説明しよう」

「この、最後のところ。ターゲットの本能が臨界点を……って、つまりアレしちゃったときの話ですよね? いいんですか?」

「いいも悪いも無かろう。いずれ恋人となればすることだ。師匠の談では、付き合いだしてから二週間ほどが基本だと言うが、まあ付き合う前のきっかけともなる例も少なくないそうだからな」

 私はすらすらと答える。しかし、西園寺はこの返答がお気に召さなかったようだ。犬耳ヘアがへろへろと垂れる。

「それ、ゲームの話じゃないですか。そうじゃなくて牧野さんは、現実にそんなことが起きても、いいんですか?」

 う。

 構うものか、なんて嘘は吐けなかった。もちろん、そんな事態が明日に起きることは、たぶん無い。あの紳士滝沢が、そんな無法な真似をするものか。

 しかし、先ほど私も言った通り、いずれは起きうる未来なのである。私は穂波をちらりと見た。彼女が滝沢の元に行くのは、なんだかとても嫌だと思ってしまうのが本音だ。だが、

「私は穂波の味方である」

 私は彼女の兄なのだ。と、強い決意で答えたときである。私は側頭部に激しい衝撃を受け、椅子から転げ落ちた。

 くるりと顔を上げれば、天城が黒ずんだ妖気のようなものをまとって立っていた。

「何をする妖怪め」

「……ほなちゃんを、いやらしい目で見てた。汚物」

「冤罪も甚だしい! そんなことは無いぞ! なあ、西園寺よ」

「そうですよ、天城さん。牧野さんはちょっとシスコンなだけです!」

「西園寺、それでは欠片もフォローになっていないことにお気づきか!」

 嗚呼、向こうで何も言わない穂波が怖い。 

……と、そこで私は先ほど覚えた違和感の正体に気づいた。そうだとも、天城は異常なまでの女尊男卑思考の持ち主なのだ。コヤツに掛れば師匠のような崇高な理念を持つ男も、大林康介教授のような実績ありしオジサマも、あろうことか私のような平々凡々とした普通の男子学生すらも、一様に『汚物』なのである。

 そんな彼女が、カワイイ美少女の恋を知ったらどういう行動に出るか?……考えるまでもない。汚物に駆け寄る美少女を、全力で阻止しようと動くはずだ。

 つまり、だ。何ゆえ天城が我が家に踏み込んできたかと言えば、我らが『滝沢裕貴の本能を開花させよう企画』を邪魔しようと企んでいるからにほかならぬのである。

「敵だ」私は呟いた。

「貴様は敵だこの変態同性愛者が! いや別に同性愛が悪いと言うわけでは無い、貴様が変態と同性愛を兼ね揃えているだけだ!」

「図星を指されて逆切れなんて最低。そんなにほなちゃんを見ていたかったのね。変態はそっちよ、この汚物」

「そんなこと申してねーよ!」

「牧野さん、ちょっと落ち着いてくださいよ」

「みっちゃん、その汚物に触らないで。腐るわ」

「貴様ッ、言うに事欠いて腐るとは何事だ! 流石の私もそろそろ傷つくぞ!」

 私たちがぐぬぬと睨み合う中、がちゃりと居間の扉が開く。見れば、工房から戻ったらしき父上――――いや、実際は叔父だが――――、京介さんである。さすがの天城も、家人の顔を見て平静を取り戻したらしく、肩を縮ませているように見えた。

「……お邪魔しています」

 ぺこり、と頭を下げる妖怪。慌てた様子で、西園寺も挨拶を続ける。父上はひらひらと手を振りながら、リビングを横切って行った。

「お友達か。どっちの?」

「両方のである。ゼミの愉快な仲間達だ」

「なるほどなぁ」

先ほどまでの騒ぎが聞こえなかったはずはあるまいに、父上はにこやかに冷蔵庫を開け、缶ビールをごくごくと飲んでいる。師匠が白目をむいて転がっていても何のそのである。この人が私の実の父ならなぁ。このような落ち着きが私にもあったであろうに。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 翌朝。私が目覚めると、床に敷かれた布団で師匠がいびきをかいていた。そのでっぷりとたくましき腹が丸出しになっているが、手を触れるには恐れ多い。放っておこう。

 私は師匠を起こさぬよう静かに着替えることにした。時計を見れば、既に八時十分を回っておる。昨夜は本日のため、様々な仕掛けをこの部屋に施した。その準備が終わったのは、午前二時半ほどのことであったろうか。八時に起きられずとも無理は無い。

 滝沢との約束は、確か駅に九時であったか。駅までは歩いて十分ほどの距離だ、朝食を取る時間はあろう。

 そっと部屋を出れば、家の中はしんと静まりかえっている。居間に降りれば、父上のメモが残っていた。どうやら彼は既にトーストを食べ、工房に籠っているらしい。私はトースターに食パンを突っ込むと、その間の暇つぶしにゆっくりと部屋に戻った。隣室の様子を伺おうと思ったのだ。

 こちらも師匠と同じく、すっかり熟睡である。ベッドには穂波にしがみつくような形で天城がいびきをかいておるし、床の敷布団では西園寺がすうすうと寝息を立てている。天城にくっつかれている穂波は随分寝苦しそうだ。

 私は遠慮なく妖怪変化の首根っこを掴み、愛する妹から引き離した。そこは私の特等席である。女と言えども譲れはしない。

 急な衝撃で目を覚ましたらしい天城は、トロンとした目で辺りをきょろきょろと見回す。

「……ここ、どこかしら……」

「牧野家だ。君たち、昨晩結局泊っていたのだろう。忘れたか?」

「…………ふにゅう」

 寝ぼけているのか、こいつ。先ほどから丸い目をさらさらと撫でているが、擦りたいのだろうか。――――ん?

 丸い目?

 見れば、寝癖で前髪が跳ね上がり、いつもは隠れている目が露わになっていた。寝ぼけてトロンとした垂れ目である。珍しいものを見れたなぁ。

 また、もちろん寝るときまでいつもの黒ポンチョを着ているはずもない。彼女が今着ているのは、薄い草色をしたTシャツである。

 そら見たことか。前髪を上げてまともな服を着れば、なかなかどうして可憐ではあるまいか。全く、見る目があるくせに、自分をないがしろにしているとは勿体無い奴である。元の器量が良いのだから、ふざけた扮装にかまけて他人を着替えさせている前に、自分の可愛さを追求すれば良いのに。

「愚か者め」

「……にゃんで?」

「君は十分にカワイイからだ。この馬鹿」

「なっちゃんは……カワイくなんて、にゃい……」

 コヤツ、自分のことを『なっちゃん』なんて呼んでいるのか。意外である。

「自己認識の甘い奴だなぁ」

 寝ぼけて素直になっていることも相まって、コヤツがあの妖怪女とは思えない。何となく、前髪を払ってやった。

 しかし、いつまでもこうしてはいられまい。正気を取り戻した後が怖いからな。

「起きろ天城。朝だぞ」

「ふにゅ……ほなちゃん?」

 何を言っておるんだコヤツは。私のような骨張った男を、あれほどチャーミングな婦女子と見間違うとは。寝ぼけていると言っても限度があるのではなかろうか。

――――などと私が呑気に構えておると、次の瞬間、天城はとんでもない行動に出た。

 すなわち、私に不意に飛びついて来たのである! 私は悲鳴を上げて彼女を引き離そうとしたが、そうは天城が卸さない。この妖怪め、なかなか力があるな!

「ほなちゃん……いいにおい……」

「馬鹿者ッ! 離したまえ!」

 ええいこの女、いつもはポンチョで隠され気付かなかったが、存外ボリュームのある身体をしておる。ぐぬぬ、あちこちに柔らかい感触が! 何としたものか! 何としたものか!

 しかし待て、鼻の下を伸ばしている場合では無いぞ。こんな状況を西園寺や穂波に見られたらどうなる。経緯を知らねば、私は寝起きの婦女子をだまくらかし体を堪能する変態男である。というか真実はそれにほぼ近い。

 ここは一刻も早く、そして極力静かに天城を引き離さねばならぬ。

 まず、私は彼女の手を払いのけようと試みた。あっさりと無理だということがわかる。私のような貧弱な男の力では、このおたく女の力には勝てる気がしない。待てよ、おたくって力の強さと関係あるのだろうか。謎である。

 こうなれば最終手段である。私は彼女の脇腹に手をやった。ぷにりと腹を突けば、天城はフニャアとなまめかしい声を上げる。そういうのはやめて頂きたい。妙な反応をしてしまうではあるまいか。しかし好機、これで脱力した隙に……と思えば、勢い余って我々の足が絡まる。私は背中を強か打ちつけた。まるきり押し倒された形になり、目の前に天城の蕩けた表情が迫る。

「……おい待て貴様何をしている? ちょっと待て?」

「ほなちゃん……今度こそ、逃がしゃない……」

 コヤツ昨晩何やってたんだ!

「観念して……!」

「ちょ、ちょっと待て馬鹿者起きろコラふざけるのも大概に……ぬわ――――――――っ!」

 

     ◆ ◆ ◆

 

「おはよ……って牧野くん、どうしたんだい?」

 時は午前九時三分、場所は岩戸駅前ロータリー。私の姿を認め走ってきた滝沢は、ぎょっとした顔をしている。それはそうだろう。私の頬は真っ赤になっていたし、それ以外にも引っかき傷を初めとした細かい傷がたくさんできている。

「……どうしたもこうしたもない。早朝から大切なものを奪われた上に、全ての罪を着せられ殴る蹴るの暴行を受けたのだ。本当に冗談では済まん。泣きたいのはこっちの方だ……。私だって初めてだったのだぞ」

「悪いけど、キミが何を言っているのか、ボクには全然わからないよ」

「いいんだ。気にするな」

 私はベンチを立ち、わざとらしく肩をすくめて見せる。「行こう。穂波もお待ちかねだ」

 

 てくてくと林道を抜け、我々は森の中の一軒家の前に立ち止まった。私が子供の頃から立ったままの「牧野表具店」という看板がカタカタと揺れている。

「わあ、結構いいところだね。そう言えばボク、牧野くんの家に来たのは初めてだよ」

「そう言えばそうだったな。もはや付き合いは一年になろうと言うのに、これまで一度も呼んだことが無かった。外に出かけたことは何度もあるが……。ふむ、つまり我らは、友達以上恋人未満だったというわけか」

 まあ親友は友達以上恋人未満であろう。

「何を言っているんだい」

「気にするな。少々誤解を招きかねんことを口走った。それよりも滝沢、先に言っておこう。なぜ私が君を今まで招かなかったかと言えば、理由があるのだ」

「理由?」

「左様。我が家にはもののけの類がとりついているようでな。実は様々な怪奇現象が日常的に起きるバケモノ屋敷なのである」

 ほんとかい、と目をむく滝沢。すまぬ、嘘だ。そんな家ならば私は早々に出て行って一人暮らしを始めるであろう。これは後々、助平なアクシデントを成立させるための伏線なのである。

 私は心中で友に詫びながら、彼を家に招き入れる。扉を開けた瞬間、そこには一メーターはあろう藁人形がぷかぷかと浮いていた。

 

 エ ナニコレ キイテナイ。

 

「うぎゃああああああああ怪奇現象だああああああああああ」

 私は飛びずさって滝沢の後ろに隠れた。ああ滝沢、君の背がこんなにたくましく思えるとは。何がいったいどうしてこうなった。私がぶるぶると震えていると、藁人形は重力を思い出したようにどさっと床に落ちる。

「うわっ、早速だね。これは大変だ」

 滝沢は実に興味深そうに藁人形を掴みあげている。全然大変そうに見えないぞ。

「な、ななな、なぜ君は平気な顔をしておるのだ! そそ、そんなものが、うううう浮いていたんだぞ!」

「まあ気味は悪いけど、これくらいなら大丈夫だよ。実はボク、霊感があるから、これくらいの心霊現象は平気なんだよ」

「ほ、本当か?」

「嘘だけどね」

 こいつ案外性格悪いな。いや、それは私が言えた筋合いではないか。私が眉をひそめていると、かつかつと穂波が階段を降りてくる。本日は薄手のシャツワンピースに膝丈のスカートという出で立ちであった。やはりこんな日とあらば普段以上に気合いの入った服装なのだろう。既に顔が少々赤く見える。

「いらっしゃい、滝沢。……ねえ、隼はどうして倒れているの?」

「怪奇現象にあったので、びっくりしてしまったそうだよ」

 ちっ、飄々としておる。

「……隼、わたしは麦茶持ってくるから」

「待て馬鹿者、私に任せろ。君は滝沢を部屋に」

「でも隼、なんかぷるぷるしてるじゃない」

「大丈夫だ! 早く行けーぃ!」

 二人を追いやり、私は台所に向かった。そこの食卓では、西園寺と師匠がコンピュータをカショカショといじっている。例の如く、私につけられた『ダレイオスちゃん』をモニタリングしているというわけだ。師匠はこちらも向かず、にかりと笑う。

「マキノぉ、あんなに驚いちゃ駄目じゃないかぁ。まあ、タキザワくんの耐性は把握できたからいいんだけどぉ。ホナミちゃんの前で間抜けな声を出されたりしたら、作戦は台無しだからねぇ」

「……師匠、やはりあの藁人形は君かね。あんなもの出すなんて聞いていないぞ」

 私が呆れていると、西園寺が平らな胸をぽんと叩く。

「牧野さん牧野さん、あの藁人形は西園寺が作ったのです! おじさまに言ったら、藁をたくさんくれたんですよ」

「君も父上も、後で覚えておきたまえ」

 父上、何やってんだ貴方は。

「それにしても、あの藁人形は浮いていたぞ。一体どういう仕組みだったのだ」

「あぁ、それはねぇ」

 師匠は腕を上げ、何も無いところをぎゅっと掴み、そのまま引くような仕草をした。そのときだ。私の後ろで、台所の扉ががちゃんと閉まる。

「ほんぎゃあああああああああああ」

「あはははは、牧野さん、落ち着いてくださいよ。糸じゃないですか」

 ――――糸?

 おそるおそる扉に近づいてみれば、なるほど、ドアノブに細い糸が結びつけられ、そのまま天井に伸びている。

「天井を介して、ここに糸が来ているのさぁ」と師匠は手元を示す。

「これぞ僕の新発明ビックリギョーテンメカ、『カイライちゃん』!」

 果たしてどのへんがメカなのだろう。確かに、髪の毛ほどの細い糸で、ものを動かす技術は凄いと思う。しかしどのへんがメカなのだろう。まあその辺りには、私の浅慮ではわからぬものがあるのだろう。師匠がメカと言うならメカなのだ。

「……というかマキノぉ、君昨日『カイライちゃん』の設置手伝ってたよねぇ」

「わかっておるとも。そのために昨晩は深夜まで作業をしていたのだからな。しかし『カイライちゃん』を設置したのは私の部屋だけでは無かったのかね?」

「うふふふふ」

 師匠よ、我が家をどうするつもりなんだ。

 

 麦茶を持って我が部屋に戻り扉を開けると、我が愛する妹が下着を丸出しにした瞬間であった。

 どうにも『カイライちゃん』でスカートをめくられたらしい。穂波は慌ててスカートを直し、座布団に飛び込むように座った。

「見たかい、牧野くん? 何もないところで、いきなりスカートがフワッと。ずいぶんピンポイントな怪奇現象だね」

 滝沢、君はどうしてそんなに冷静なんだ。というかショーツを見たことに対してコメントは無いのか。

いや待てよ、話題を逸らそうとしているのかもしれぬな。流石は我が友、紳士である。

「隼も滝沢も、そんなことはさっさと忘れなさい。今日の本題を忘れたのかしら。勉強よ」

「雪村さんは慣れているんだね。それじゃ、あまりボクが騒いでも良くないかな」

 先ほどから君はろくに騒いでいない気がするのだが。まあ良い。私は麦茶の御盆を持ったまま、部屋の中心にあるローテーブルに向かった。そしてそのとき、バターンと音を上げ扉が閉まる。

 仕掛けがわかっているとはいえども叫び出したくなるほどに驚いた私だが、

「あれ、風が吹いたかい?」

 滝沢はすこぶる冷静である。私の中で彼の株が急上昇しているぞ! むしろ私が惚れそうだ! コヤツにならば穂波を任せられる!

 

 その後も、『カイライちゃん』による怪奇現象の数々が我が部屋に巻き起こった。

 突如倒れる写真立て。消える電灯。不意に電源の入るラジオ。

そういった如何にもな現象にまじえて、穂波は転倒したり滝沢の下半身にダイブしたりスカートをめくられたりと助平なアクシデントに巻き込まれていた。……二人の変態が集まったにしては内容がイマイチだと思った読者諸君、その慧眼は正しい。彼らの発案した助平アクシデントはほとんどが口に出すのもはばかられるほどのものであり、私と穂波の強烈な反対によってことごとく不採用と相成ったのである。

 かくして穂波の身に降りかかったのは、まるで小学生の考えるえっちな出来事とでも言うべきものであった。ただし諸君、これだけは覚えておいてほしい。稚拙な助平とは、なかなかどうして我らの根幹に響くものがあるのだ。少なくとも私には響く。昨晩師匠の披露した通りの手順で、屋根裏の天城が『カイライちゃん』を引いているはずだ。

 さて、と私は時計をちらりと見る。十一時二十八分、そろそろである。私はノートをさりげなく自分のグラスから離した。

 ここで私は、グラスの麦茶を被って部屋を離れるのだ。つまり、シャワーを浴びる十数分間、確実に部屋に戻らぬという状況を作るのである。『いいかい、マキノぉ』と師匠は言った。『再三のハプニングで、タキザワくんの欲望はそれなりに溜まっているはずだよぉ。その状態で、君が絶対に戻ってこないという環境ができればどうなるかわかるだろぉ?』

 そう、ここで――――場合によっては滝沢は狼と化する。『エロマンガじゃないんだからそんな簡単にはいかないでしょうに……』と我が姫には評されていたが。

おや、穂波は成人向け漫画なぞ目にしたことがあるとでもいうのか?

 ……嫌な予感は忘れよう。今は目前のアクシデントに備えねば。ことり、とグラスが揺れた。よしよし、『カイライちゃん』が動き出したぞ。穂波は滝沢と会話をしているものの、グラスが動いたことに気づいているようだ。彼女も緊張し始めている。左様、この麦茶が私に掛った瞬間、彼女の人生は大きなターニングポイントを迎える……かもしれないのである。

 我々が固唾を飲む中、ついに掛け時計がボーンと一鳴りした! 十一時半である! イザユケ天城よ、『カイライちゃん』でグラスを弾け飛ばすのだ!

 注意して目を向けても見えぬほどの『カイライちゃん』が今ぴんと張られ、グラスがふわりと宙を舞う! 零れる! ひっくり返る!

 だが嗚呼、何と言うことだろう!

 

 麦茶を被って濡れ鼠になっているのは、あろうことか穂波だったのである……。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「……やれやれ、迷惑な怪奇現象もあったものだ」

 私は屋根裏の天城に聞こえるようにぼそっと呟いた。

 薄手のシャツワンピースを麦茶に透かし、下着をありありと我らの眼前に叩きつけると、穂波は猛然と部屋を飛び出していった。まあ、あれほどの女性らしさを滝沢に見せつけたという意味では、あながち失敗とも言い難い出来事であったやもしれぬ。

「全くだよ。ただ、零れたのが麦茶で良かった。醤油とかだったら落ちなかったんじゃないかな」

「そうだな……って、君はなぜそうも冷静なんだね」

「いや、確かに変なことは起きているけれど。ほら、被害は大したこと無いみたいだからね」

 被害は大したこと無い、だと? 客の前で下着を晒す羽目になった穂波を目の当たりにして、大したこと無いなどと申すか、この男は。というか先ほどから穂波のあられもない姿を見ていると言うのに、コヤツは何ゆえ全く反応を示さないのだ? 若い男として間違っているぞ。

 ……もしや滝沢、女に興味の無い男なのか? 男色か、男色なのか! 確かに君はボーイズ・ラヴ漫画に出てくるような精悍な男ではあるが、まさかそんな趣向があるとは思いもしなかったぞ!

 ええい、落ち着け。落ち着くんだ牧野隼。君が焦っては何にもならぬ。ここは冷静に、現状を確認すべく、彼の心を覗くのだ。

「滝沢、少々聞きたいことがある」

「どこか、ノートがわからなかったのかい?」

「いや、そうではなく」

 私の声色が変わったことに気づいたのだろう、滝沢が顔を上げる。

「滝沢、単刀直入に問おう。君は、雪村穂波のことをどう思うかね?」

 我が親友はきょとんとしている。端正な顔立ちは、きょとんとしても絵になるな。滝沢裕貴は、ゆっくりと、言葉を選ぶように口を開く。

「とても、いい人だと思うよ」

 ――――はて、読者諸君に問おう。これは果たして脈がありやなしや?

 女性が異性を評するときに『いい人』と言ったらば、これは間違いなく『そいつに魅力も興味も無い』という意志の証である。……と師匠は言っていた。しかし、異性が人を『いい人』と評した場合、これは果たしてどうなるのであろうか?

 ええい私は男でありながら男の気持ちもわからんのか。そんなことで良いのか。私があたふたと考えていると、滝沢はにこりと微笑んだ。

「雪村さんはとても女の子らしくて、かわいくて、でも芯が通ってて。家事も料理も裁縫もばっちり、わたしの理想の女の子って言ってもいいよ」

 ……うむ。一時はどうなることかと思ってが、コヤツはきちんと穂波を想ってくれているようだ。

「それを言うなら、牧野くん。キミこそ、雪村さんのことをどう思ってるんだい?」

「ぬな?」

 なぜそこで私の意向が問題になる?

 いや、そうか。そもそも、コヤツは私と穂波が兄妹であることを知らぬ。つまり、穂波を手にしようと思ったとき、まず立ちはだかるであろう障壁は同居している従兄たる私なのだ。それゆえ、私が穂波に抱いている感情を聞いておきたいというのはもっともなところであろう。

 私は小さく深呼吸をし、彼に向って微笑んだ。

「私は穂波のことが好きである。自分自身と大差無いほどに、彼女が大切だ。愛していると言っても過言ではない。――――大事な妹として、な」

「それは、家族に対する愛情、という意味でいいのかな」

「左様。君とて父への畏敬はあろう。母への愛情はあろう。私が穂波に向ける気持ちはそういうものであり、そういうものでしかない」だから君が穂波をもらっていくならば、私は決して止めはしない。

 言外に放った気持ちは伝わったであろうか。滝沢はぱちくりとまばたきし、微笑を絶やさぬまま問うた。

「牧野くん。それは、本当の気持ちなの? 嘘ではないかい?」

「何を言う。偽り無き気持ちだとも」

――――いいや、違う。昨晩から、ずっと思っていたはずだ。

 止めたい。穂波が誰かのものになるなんて嫌だ。たとえ滝沢のような出来た男が相手だとしても、譲れない。

 嫉妬? 所有欲? それとももっと汚いもの? 何かが私を突き動かそうとする。

 だが、私にそんなことを言う権利は無い。なぜなら私は兄だから。彼女は私の妹だから。みっともなく家族にべったりとくっついたままでは、彼女の幸せを阻害することにしかならぬ。だから私は彼女を縛ることはできぬ。

「そっか」

 滝沢は小さく息を吐く。

「雪村さんなら、牧野くんとお似合いだと思ったんだけどね」

「待てい滝沢、聞き捨てならないぞ! それは穂波に対する侮辱かね。彼女の魅力を私程度で例えるとは許し難い!」

「そうかな」

「そうだとも!」

「わかった、わかったからそんなに大声出さないでくれないかい」

 滝沢はおもむろに立ち上がる。

「牧野くん、キミはもう少し自分を見た方がいいんじゃないかな。あのさ、ボクにはキミが無理をしているように見えるんだよ」

 見下ろされる形になった私は、返す言葉も無かった。

 私は、無理をしているのだろうか。

――――いや、仮にそうだとしても、私が自分の本能に従うことは決して許されん。いくら熱意があったといえども、妹をそんな目で見ることは法が許さぬ。法が許しても倫理が許さぬ。

 私がなんとか言い返そうと思い頭を悩ませていた、そのときだった。

「全く! 迷惑な『怪奇現象』もあったものだわ! ひどい目にあったわよ!」

 すたすたと穂波が戻ってきたのである。ハッとして時計を見ればまだ麦茶を零してから五分も経っていない。滝沢との問答はほんの数分の出来事だったのか。

「って、二人ともどうしたのよ。顔が怖いわ」

「あはは、怖いとか言わないでくれよ」

 滝沢、目が笑っていないぞ。神妙な顔で「あはは」と口にする滝沢に、私はプッと吹き出してしまった。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 その晩のことである。

 滝沢が帰った後に、私は部屋で見覚えの無い財布を見つけた。恐らく滝沢のものであろう。あとで滝沢に連絡して、また大学で返すとしよう。そんなことを思いながらちらりと中を検分すると、学生証が出てきた。確かに滝沢のものである。

 ……が、しかしちょっと待て何だコレは?

「汚物、何をしているの」

 びくっとして振り返れば、天城である。朝のカワイイ姿はどこに消えてしまったか、やっぱりぼさぼさ前髪に黒ポンチョという姿だ。

 私は慌てて滝沢の財布をポケットに隠す。これはさすがに人には見せられん。

「いや、部屋を片付けていただけである。というか君たちも手伝いたまえ。何をしているんだ」

「居間で今後の予定を立ててる。海、花火、肝試し。予定はいくらでもある。さしあたり、予定日が決まっているのは花火大会だけだけど」

「試験も終わっていないのに夏休みの話かね……」

「……若者は前を見るべき」

「前向きなのはたいへんよろしい。だが君はもう少し後ろも見たまえ。本日も何ゆえ穂波に麦茶をぶちまけた。濡れ鼠になるのは私の予定だっただろうが」

 天城の口元には、でれっと笑みが浮かんだ。

「水も滴るいい女、と思ったら興奮しちゃって」

「貴様本当に危険人物だな! うちの穂波に近づくな! 今朝だって、穂波に何をするつもりだったのだ」

「……それはこっちの台詞。寝ぼけたあたしにキスするなんて信じられない。初めてだったのに」

「寝ぼけた貴様が私の唇を奪ったのだろうが! 初めてというなら私だって初めてだ!」

「汚物と女ではファーストキスの価値は違うわ」

「違うものか! この痴女め!」

 そこまで言うと、私の腹に回し蹴りが決まった。これはひどい。私は声も無く崩れ落ちた。天城はフンと鼻を鳴らし出て行く。

「まあ、良い」

 私はポケットから滝沢の財布を取り出す。もう一度学生証を見て、自分の見たものが間違いで無かったことを確かめたのだ。果たして、やはり先ほど見たものと同じであった。

「……滝沢、君も変態だったのだね……」

 しかしここまで来るともはや天晴である。師匠に匹敵する、ともすれば越えうるほどの域に踏み込んでいると言えよう。

階下からは穂波の大声が私を呼んでいる。私は感慨深く学生証を財布に戻し、いそいそと部屋を出ることにした。

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