第三章 『ハッピー・ナイトメア』
読者諸君は、垣之原台地をご存じであろうか。全国的にはさほど有名ではなかろうが、地元では知らぬ者は無い地である。
静岡県中西部、四つの市にまたがる広大な台地。垣之原台地は、大規模な茶園が多く形成され、静岡県内でも随一の茶産地となっている。それはつまり、全国でも最大の生産地ということである。
我々を乗せた車は今、この垣之原台地をのんびりと走っていた。車窓からは茶の香りが吹き入ってくる。
「何度来ても、良いところだなぁ」
私がしみじみと呟くと、隣に座る穂波はキッと睨みつけてくる。
「確かに綺麗なところだけど、住むには大変なのよ。住人も少ないし、バス停も駅も遠いし、凄く不便」
「多少の苦労が何だと言うのだね。風情があっていいではないか」
「風情だけあっても仕方ないのよ。貴方もここで暮らしてみればわかるわ」
そんなものだろうか。私は再び車外に目をやった。なだらかな斜面が遥か先まで広がり、見渡す限りの茶畑が初夏の日差しにきらめいている。実に風雅だ。わけも無く心が躍る。
だが、斯様な気持ちでこの道を楽しめるようになったのは、本当にごくごく最近のことだ。
幼少の私は、この道は長く、単調で、どこまでも同じような景色だとばかり思っていた。それゆえこの道は嫌いであり、もっと橋やトンネルや森を抜けるようなダイナミックな道を走って欲しいなどと思っていた。今思えば浅はかである。
まあ、しかし道中で退屈な想いをしただけ、祖母の家に着いたときの嬉しさが増していたような気がしないでもない。車を飛び出すと、ハンドベルの音と共に、穂波の両親が迎えてくれたのであった。
……そうか。あの頃、まだ穂波の両親は生きていたのだな。彼らが命を落としたのは、今から十二年前の今日であった。
◆ ◆ ◆
呑気なドライブを続け一時間ほど。トンネル状になった森の中を抜け、我々はようやく垣之原の中心街に辿り着いた。台地の麓にあるこの町は、かつては台地越えの宿場町として利用していたようだが、今ではすっかり寂れてしまっている。
我々を乗せた軽トラックは、その寂れた町のはずれ、こじんまりとした平屋の前に静かに停車した。
「隼、穂波ちゃん。お前らは先に降りてろ」運転席の父上は、小さく指示する。「オレは車を置いてくるから」
「御意」
小さな木戸に下げられた表札には、勢いのよい筆文字で『雪村』と書かれておる。ここが、私の祖母の家、そして穂波が幼少の期を過ごした家である。
「隼、ぼさっとして無いで早く行くわよ」
私が表札を見てぽややんとしておると、既に穂波は木戸を開け玄関の戸を開きかけておる。君はもう少し感慨は無いのかね。とも思うが、まああまり過去のことは思い出したくなかろう。私は適当にその場を繕い、彼女を追った。
鍵は掛っていなかったようで、玄関はガラリと簡単に開くことができた。
「こんにちは、お婆様! 牧野親子、ならびに雪村穂波、只今到着いたした!」
私が声を張ると、奥の方から襖を引く音が聞こえてきた。そして、猛然と足音がこちらに走ってくる。廊下の角から飛び出してきたのは、紫色に長髪を染めた中年女性。
「よく来たね、アンタら! おお、また見ないうちに大きくなって!」
彼女こそ、我らの祖母である。彼女はつかつかとこちらに寄って来たかと思えば、私をじろりと睨みつける。
「隼、アタシは言ったはずでしょうが。アタシをお婆さんなんて呼ぶんじゃないってんだよ。ほら穂波、お手本」
我が従妹は溜息を吐き、呆れたような顔を見せる。
「わかったわよ、『ぐらんま』」
そう言えばそうであった。私は如何せん物覚えが悪い。
祖母、改めぐらんま。本名雪村千代の年齢は、今年でちょうど六十である。成人した孫がいる人間としては、かなり若いのではなかろうか。
「……ぐらんま。お爺様は御在宅ではないのかね?」
「鷹夫なら、今買い物に入ってるとこだよ。じきに帰ってくるはずだよ。まあ、こんなところで立ち話もなんだし、さっさと入りない」
我々は居間に通され、茶を頂いた。流石は垣之原の茶、全国区のメーカー品とは比べ物にならぬほど香り高い。
「今年でアンタらは幾つになったんだっけか?」
「わたしは来月に二十歳になるわ。隼は誕生日過ぎてるけど」
どうでもいいが、私は五月生まれである。どうでもいいか。
「そーかそーか、ほんとに大きくなったねえ」
かんらかんらと笑うぐらんま。私たちはにこにことお茶を頂く。が、
「それでアンタら、どっちでもいいけど、そろそろ結婚はまだなのかい?」
我らは同時に茶を噴き出した。
「何をいきなり言い出すのよ、ぐらんま」
「いきなりでもないさね。アタシが二十のときなんか、もう泉がお腹の中にいたんだよ」
「なるほど、そう考えれば我らが結婚を考えるのも至極自然。……ふむ、これは由々しき事態だな。穂波、我らは既に出遅れているのやもしれぬぞ! ますます策を急ぐのだ!」
私が大層納得していると、穂波に脇腹を小突かれた。
「ぐらんまも隼も、時代を考えて頂戴。今はもう、ぐらんまの時代とは違うのよ?」
フムゥ、言われてみればそうである。三十代になっても一向に結婚せぬ女性というのも、現代日本では珍しいことではあるまい。ぐらんまは不満そうに鼻を鳴らす。
だが、結婚か。確かに少々気が早いものの、いつかは迎えるものである。
穂波はきっと、滝沢とよろしくやるのだろう。しかし、そうなったとき、私は果たしてどうなるのであろうか。私は恋する相手などいるはずもない。
私はこのまま、穂波を助け続けているだけで良いのか? 先日、西園寺に言われた言葉が頭の中に反響する。
『牧野さん自身の幸せのために生きればいいんですよ』
私自身の――――幸せか。
「……隼、どうかしたの?」
気づくと、穂波が首を傾げている。どうも、考えすぎて意識が飛んでいたらしい。
「いやいや、どうもしていないとも」
と、そこで玄関が開く音が聞こえた。ぐらんまはドドドドドと駆けて行き、ほどなく父と共に戻ってくる。
「泉は先月から入院だってねえ」ぐらんまは立ったまま茶をがばりと飲み干す。
「はい。ですから今は、僕とこの子たちの三人生活です」
「そうかい、そうかい。全く、あの子はいくつになっても身体が弱くていけないよ。京介君にも迷惑を掛けるねえ」
牧野京介……つまり父上は、愛想よく微笑みながら私の横であぐらをかいておる。
「今ではもう、この子たちが家のことをやってくれますからね」
「へえ、そいつは驚きだね。穂波、アンタ玉ねぎ切れるようになったのかい?」
「ええ。料理も上手くできるようになったわ。泉さんにも褒められた」
「そうかい。それじゃ、その腕前は夕飯でたっぷり見せてもらおうかねぇ」
ぐらんまがかんらかんらと笑ったところで、父上はすっと立ち上がった。
「それではお義母さん、そろそろ僕らはお墓に行ってきます」
私と穂波も倣って立ち上がる。
「はいはい、行ってらっしゃいな。でも京介君、アンタみたいないい歳のおじさんにオカーサンなんて呼ばれたくないもんだね」
確かに、牧野京介は五十二歳。妻、泉とは十一歳離れている、歳の差結婚だったらしい。そのため父上は、母上よりもぐらんまに歳が近いという異様な立場にあるのだ。
「では、僕もぐらんまと呼びましょうか」
冗談っぽく父上が言うと、ぐらんまはキッと目を光らせた。
「やめんかい」
ぐらんまの家の裏、車では侵入できぬ荒れた山道の先。ご老人の住職が一人で管理する古寺がある。雪村夫妻も、ここの墓に入っている。
父上の先導に続き、我らは墓場を横切っていく。時期が時期であるため、我ら以外の人間は見当たらない。
「改めて見れば、墓とは綺麗なところだな」
私がふと呟くと、隣を歩く穂波が呆れたような顔をする。
「隼、いきなり意味のわからないことを言わないで頂戴」
「フムゥ、君は思わんかね?」
白い石畳、溢れんばかりの緑、墓に供えられた色とりどりの花。ここを一言で言い表すならば、美しいの一言しかあるまい。斯様に素敵な場所を、過剰に気味悪がる行為は如何なものかと思う。
「なあ穂波、我らはどうして墓場を恐れていたのだろう」
「死んだ人が入っているから、かしら。ほら、悪い幽霊に呪われそうじゃない?」
「馬鹿め。幽霊が仮にいたとする。そして悪い幽霊が君を襲うとする。……しかし、そうしたら君のご両親とてやってくるであろう」
そう、なのだ。
何ゆえ、人は幽霊を悪しきものだとばかり思っているのだろう。それが人である以上、悪きものばかりだと考える方が不自然だ。良きものと悪きもの、それが混在していると考えるのが自然であろう。
「わけのわからぬバケモノと自分を一緒に扱われては、死者が悲しむぞ」
「まあ、そうかもしれないわね」
今日は怒声も無く、穂波は穏やかな顔つきだ。
「そう言えば昔、ここで肝試しをやったんだったかしら」
「覚えておるぞ。そのときだったろうか、君が私にぎゅうと泣きついてきたのだったな」
今でも、確かに思い出せる。涙をいっぱいにして、私の腰をぎゅうと掴み離さなかった、幼き穂波の姿を。物覚えの悪い私であるが、これだけはくっきりと覚えているのだ。
しかし、そのときである。黙々と歩を進めていた父上が、足も止めずに口を挟んできた。
「隼、嘘を吐くなよ。お前は泣きついていた方だろ?」
「……えっ?」
言われてみれば、確かにそうなのだ。私は大のホラー嫌いであり、超自然的な怖いものが苦手でたまらない。今でも、ホラー映画などをうっかり見てしまった日には、恥ずかしながら穂波と一緒に寝かせてもらっているほどである。そんな私が肝試しで平気なはずが無い。
「それも、そうか……」
「隼、物忘れが多いとは思っていたけれど……」
「いやいや、その目をやめてもらおうか! そんなボケ老人を見るような目で私を見るな!」
ジト目をしている従妹。その目は破壊力が高いから勘弁して頂きたい。ちょっと興奮する。
しかし、それではあの記憶は何なのだろう。私は記憶が欠落することはあるが、間違った記憶を持つようなことは無いはずだ。と、その疑問は、我らが足を止めた時点で解消されることになる。
雪村家之墓、と刻印された墓石。その裏には、穂波の両親……燕と美波の名が刻まれているはずだ。
恐らくぐらんまが度々通っているのだろう、花はまだしおれもせずに綺麗に咲いておる。そうか、あの記憶はこの場所であった。なぜ肝試しと混ざってしまったのか……恐らく、覚えているのが辛いほどに穂波が悲しそうだったから。
◆ ◆ ◆
雪村夫妻の葬儀中、穂波は一筋たりとも涙を流していなかった。
夫妻は旅行中、酒飲み運転のトラックに追突されたことで命を落とした。即死、だったそうだ。穂波はと言えば、その最中小学校の林間学校に行っていて難を逃れたのである。
彼女が林間学校からどう戻ったのか、そこから葬式までにどのような動きがあったのか。私は知らないし、彼女も覚えていないと言う。ともかく、私が最初に見たのは、ただただ茫然とし続ける従妹の姿であった。そこには、夏のたびに遊んでいた快活な少女はいなかったのだ。
私は八歳、穂波はわずか七歳のときである。当然、私は掛ける言葉を持っていなかった。彼女の悲しみを想像することすらできなかったし、慰めることなど出来るはずも無かった。何を言うことも出来ず、淡々と式は進んでいった。
お坊様のありがたい言葉を聞いても、穂波は声すら上げなかった。ただ、我慢していれば両親が帰って来るかと言わんばかりの態度であった。
現実はそんなはずもない。彼女はこれにて天涯孤独の身となってしまった形であるし、その後ますますその思いを募らせる事態が起きる。
葬儀の終わった後、ぐらんまの家にて。
親戚一同が一堂に会し、何やら難しい顔をして話し合いをしておった。私と穂波は、他に子供もいないため、二人で別の部屋に入れられていた。他の従兄妹たちは、みな私より年下であり、当時はまだ赤ん坊ばかりだったのだ。しかし、彼らの議論があまりに激しかったため、私たちのところにもその激論は聞こえてきたのだった。
難しい言葉は、当時の私にはわからなかった。しかし、彼らが何を言い合っているのかは流石にわかる。
議題は、穂波の引き取り手。そして、誰もそれを引き受ける者はいなかったのである。そこにいた十数名が、一様に穂波の存在を押し付け合っていた。ぐらんまも、例外ではない。
今なら、わかる。突然、大した財産も無い七歳の娘を引き取るというのは、現実的にかなり無理があるのだ。人が一人増えると言うのは大変なことである。食費もかさむ、家も狭くなる、教育費も掛かる。おまけに穂波は当時から気難しく、大人から見れば可愛げのない子供であった。
雪村燕の亡くなった今、ぐらんまとお爺様の年金で穂波を育てるのは無理があるだろう。自分の実の子供がいるときには、その二人をどういう目で見れば良いのかも難しい問題になってくる。
しかし、当時の私にそんな事情がわかるはずもない。私はただ、嫌な人たちが穂波を不幸にしようとしているとしか思えてならなかった。恐らく、穂波も似たような認識だったのではないだろうか。
穂波は何も言わず、不意に立ち上がった。そして、驚く私を尻目に、障子を開くとそのまま外に飛び出していったのである。私はただただ唖然として、すぐさま事態に反応することができなかった。目の前の状況を把握したのは、たっぷり一分は経ってからのことである。
私はまず、大人を呼びに行こうと考えた。しかし部屋を飛び出した後、議論の声が聞こえて私は足を止めた。彼らは穂波を押し付け合ってる悪者たちである。そんな奴に頼ることはできぬ。私は台所に駆け入った。思った通り、母上と叔母の一人が洗い上げをしている。この人ならば、信頼できる。
「おかあさん。ほなちゃんが……飛び出して行っちゃったんだ!」
「はぁ?」母上は何を言っているのかわからなかったのだろう、目じりにしわを寄せておる。「飛び出してって、どこによ」
「外、外にだよ。おじさんたちが、ほなちゃんを嫌がっていたのを聞いて、外に飛び出して行っちゃったんだ!」
「……ああ、そういうことか」
叔母はアラマァなどと言って台所を飛び出そうとしたが、母上はその襟首をすかさず掴んだ。
「馬鹿。あの男どもに知らせる気かい!」
ぐらんまに似た鋭い怒声に、叔母は戸惑っていたように思う。
「……でも、泉義姉さん。どうするつもりなんですか」
「任せておきな」
母上はにっこりと笑い、こちらに向き直った。
「隼。あんた、ほなちゃんのことは好き?」
「……当然だよ。ほなちゃんは、僕の妹なんだから」
「そう、よく言った。じゃあ今からやらなきゃいけないことは、わかるな?」
「ほなちゃんを、追いかける」
母上は私の頭をガシガシと撫で、そしてその手を離す。
「イザユケおにいちゃん! バカ男どもからほなちゃんを救ってやんな!」
私はこくりと頷き、玄関から駆け出した!
穂波の行き先に、当てなど無い。私は闇雲に夜の垣之原を駆け回った。
駅。高校。寂れたホテル。まさか台地を上るとは考えにくい。どれくらい町を走り回ったのだろう。体感では一時間ほど経っていたような気がするものの、子供の時間感覚だ。恐らくもっと短かったのだろう。
私は、穂波の行き先を必死に考えた。自分が彼女の状況だったら、いったいどこに行くだろう? 金は無い。乗り物も無い。いや、『どこに行けるか』が問題では無い。『どこに行きたいか』である。幼き私は必死で考えを巡らせた。だが、私はこの町に来るのは年に数回である。彼女にゆかりのある場所など、心当たりがあるはずが――――
――――いいや、一か所は知っているではないか。
私が荒れた山道を上っていくと、その途中に子供のハンカチが落ちていた。間違いない、穂波のものである。やはり考えは間違っていなかった。穂波は、雪村夫妻の入っている墓を目指しているのだ。
……無論、葬式の直後だ。骨壷は未だぐらんまの家のはずである。だが、そんなことを理解している我々では無かった。私が死んだ人はすぐにお墓に入ると思い込んでいたように、穂波もまた、そう思い込んでいたのである。
だが、山道を上り切り、古寺が見えてきた辺りで私は冷静になって来ていた。
つまり、『夜中の墓場に入ろうとしている』という現状に気づいたのである。前述の通り、私は昔からホラーの類に弱い。こんなに雰囲気のある場面に、自ら足を踏み入れることができるはずもないのである。
私は一瞬、踵を返して引き返してしまおうかと思った。穂波の居場所はわかったのだ。あとは大人に任せれば良い。……だが、そうしたら穂波はどうなってしまうのだろう。
いいや、それ以前に私は思った。彼らは、穂波をいなくしてしまうのではないだろうか? おじさんたちは、穂波が邪魔なのである。それならば、穂波を消してしまうのが一番ではないか。
「だめだ。おじさんたちに言っちゃだめだ」
私は震える声で呟いた。
「僕が、ほなちゃんを助けなきゃいけない」
そして私は、夜の墓場に踏み込んだのである。
月の綺麗な夜だった、ということなのだろう。
私は半ベソをかきながら、それでも一心に穂波を探した。石畳を蹴り、墓石を抜ける。雪村家の墓の場所はわからなかったので、ほとんど墓場を一周するような形になっていた……はずだ。その辺りはどうにも記憶が曖昧なのである。とは言え、月など見ている余裕は無かったはずだ。墓場で灯りが無くとも、何にぶつかりも転びもしなかったところから、まあ月明かりが綺麗だったのだろうという推測である。
夜風が森を薙ぎ、周囲からは梟や虫の声が響く。
私は周囲の物音にいちいちビクビクしながら歩いていたのだが、その恐怖は、穂波を見つけた瞬間に吹き飛んだ。
私の思った通り、彼女は一つの墓の前で、声を上げ泣いていた。泣きじゃくっている声は解読が難しかったが、ところどころ「おとうさん」や「おかあさん」という言葉は聞き取れる。
私は意を決し、彼女に駆け寄った。穂波はグシャグシャの顔でこちらに向き直る。
「……じゅんくん」
「ほなちゃん、帰ろう」
穂波はぷるぷると首を横に振る。
「……あたしの帰るところなんて、ない。もう、あたしが帰ってこない方がみんなうれしいんだもん。みんな、あたしがいらないんだもん」
私は、何も返すことができなかった。
「もう、あたしには家族がいないんだよ。おかあさんも、おとうさんも、いないんだよ。あたしが帰ってこなくても、だれも困らない。あたしが帰ると、みんながけんかするんでしょ? だったらもう、あたしもいなくなっちゃえばよかったのに……」
「ばか!」
幼少の私は、もう限界であった。何を言えばいいのかわからず、穂波の悲しみが理解できず、これ以上どうしようもないと思ってしまったのである。
そこで、私は彼女をぎゅっと抱きしめた。
母上がしてくれるように、理屈抜きの愛情を込めて。
「家族がいないなんて言うな! だれも困らないとか言うな! 僕はほなちゃんがいなくなったら嫌だ!」
自分が何を言っているかもわからなくなりながら、私は必死に言葉を紡いだ。
「家族がいないなら僕がなってやる!」
――――それが、私にできる精一杯だったのだ。
「おじさんたちがほなちゃんをいらないって言っても、僕はほなちゃんが要るんだよ。だから……いなくなるとか言うな!」
「……隼、くん」
もう穂波は泣きやんでいるようだった。見れば、耳が真っ赤である。そう、それがはっきりと見えるほどに、綺麗な月夜であったのだろう。
「帰ろう、ほなちゃん」
このとき、私は決めたのだ。私の全てを賭けても、この妹を守っていこうと。
◆ ◆ ◆
「ちょっと、隼?」
ハッと気づくと、私は墓の前でぼんやりしていたらしい。穂波が妙な目でこちらを見ている。
「草むしり、ちゃんと手伝って頂戴。ぐらんまは最低限しかやってないみたいだから。たまにしか来ないわたしたちが心を込めるのは、当然の義務だわ」
「ああ、すまんすまん。今行く」
彼女と少し離れたところに身を屈め、雑草を摘み取る。その最中、そっと私は顔を上げた。穂波の顔を伺いたかったのだが、ぱっちりと目が合ってしまう。
「……何よ?」
「いいや。……君は変わらんな」
「どうせ私は子供のままよ」
目はきりりと釣り上がり、上背も上がった。身体はすっかり年頃の娘らしくなり、私と風呂に入らなくなった。だが、やはりあの日わあわあと泣いていた穂波のままだ。
一通り草むしりが終わった頃、父上が花を手に戻ってくる。
我らは花を供えると、墓前で手を合わせた。私と父上はほどなく立ち上がったが、穂波はまだ手を合わせたままだ。
「穂波ちゃん?」
「……わたしは、もう少し残っています」
そう言われては仕方ない。幸い、この墓はぐらんまの家から徒歩の距離だ。我ら親子は、むさくるしく山道を戻ることにした。
「ずいぶん熱心に拝んでいたけど、穂波ちゃんは何を報告していたんだろうな」
ごつごつとした土道を歩きながら、父上はのんびりと口を開いた。
「最近、穂波は恋をしておるのだ。その件であろう」
「へえ、恋か。その言い方じゃ、相手は隼じゃないのか?」
「どうしてそうなった。滝沢という、私の友人だ」
「いいのかよ、穂波ちゃんを取られちゃって」
何を勘違いしているのだ、この親父は。
「私は確かに穂波を愛しているとも。だが、それは父上や母上に対するものと同じだ」
「へーえ、そうかい。あははは」
な、何がおかしい。事情を知らぬはずはあるまいに、この親父は何を無責任に笑っておるのだ。
私とて、穂波が本当に従妹だったら恋に落ちること請け合いだ。この世に二人といないできた女が、同じ屋根の下暮らしているのだから。しかし、現実はそうではない。私は、決して彼女に恋をするわけにはいかんのだ。
「恋愛など、まだまだ私には遠い領分である」
そう思っていなくてはならないのだ。何しろ彼女は、私の実の妹なのだからな。