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第二章 『福追道中記』

 

 翌日、昼過ぎ。私は第二書庫のソファで一人、ムウと唸っておった。穂波は講義に出ておる。

「尾行……か」

 私は小さく呟き、頭を抱えた。諸君に一つ注意をしておくが、私は忍者でもスパイでも無い。ごくごく普通の文学部生である。男女をストーキングするスキルなど持ってはおらんのだ。それなのに穂波の奴、ひどく簡単なことかのように言いおって。

「全く、どうしてそんなことができると思うんだ、アヤツは……」

 私が一人ごちていたときである。

「まあ待つんだ、牧野君」

 部屋の奥より、鼻がかった渋い声が響いた。私がハッとしてそちらを見れば、窓際の安楽椅子でパイプをふかせ、中年のオジサマがにこりと笑っている。

「これは、ミステリだよ」

 大林康介教授、いらっしゃったんですね!

「いやいや、何がミステリなのですか?」

 私の質問に答えず、大林康介教授はフフフと笑い、手元でちょこちょこと携帯電話をいじっていた。ものの十五秒もしないうちに、ドカンドカンと足音が走ってくる。第二書庫の窓にずんぐりとした影が映り、登場したるは稲本師匠であった。

「呼ばれて飛び出てアラビアーン!」

「そのネタは如何なものかと思うぞ、師匠」

 確かにあの大魔王はアラビアーンな出で立ちをしておるが。

「冷たいなぁ、マキノ」

 師匠は脂汗を弾け飛ばしながら第二書庫に入ってくる。ここまで全力疾走をしてきたのであろう、美少女のプリントされしTシャツにじっとりと汗がへばりつき、見えても全く得した気分になれぬ乳首が透けている。流石は師匠、外見になど気を取られること無く我が道を行く姿は見事である。私にはとてもできない。

 汗を拭き拭き、師匠は私の対面のソファにどっかりと座った。二人掛けのソファであることを忘れる均整なフィット感である。

「マキノ、話は教授から聞いたよぉ。ホナミちゃんをストーキングするんだってぇ?」

「ぬな」

 そこまでの事情をあの短期間で伝えたと言うのか。大林康介教授、さすがは日頃文章を打っている現役小説家、メールを打つ速さも神がかっているということか。いや、いくらなんでもそれは世の小説家に怒られる気がする。

「ステータスの足りない状況で高難度のクエストをやるのは大変だよねぇ。でも、僕が協力するからにはぁ、失敗はしないはずだよぉ。アラビアーン!」

 気に入ったのであろうか、その掛け声。まあ、掛け声などどうでもよろしい。師匠が鞄より取り出したるは、私の肘から指先までの長さほどある、大型サイズのノートパソコン、そして……なんだこれは? 小指ほどの、小さな機械……?

「どうだぁい? これは僕の発明、ビックリギョーテンメカの最新機なんだよぉ」

「すまないが、用途を教えてくれ」

「俗に言う小型カメラだよぉ」

「うむ、何でそんなものを君は常備しているのだ。腑に落ちぬ」

「大魔王だからねぇ」

 なるほど納得である。

 稲本大魔王はノートパソコンをカショカショといじり、私にぐるりと向けた。ディスプレーに写っているのは……おお、この第二書庫である。

「今モニタリングしてるのは、マキノが持っているカメラ、『オウノメちゃん』だよぉ」

 私は手のひらの豆粒じみたそれをくるくると動かしてみた。なるほど、ディスプレー内の映像も合わせて動く。しかし『王の目』とは懐かしいフレーズだ。ペルシャにて、ダレイオス一世が使った監視役であったろうか。

「これで遠くから彼女を見守ることができるという寸法だな。時に師匠、このカメラはどの程度の通信が可能なのかね?」

「だいたい半径十キロくらいは大丈夫だよぉ。連続稼働も四十時間くらいは大丈夫ぅ。設定をすれば、リアルタイム視聴だけじゃなくて、録画もできるよぉ。音声は拾えないけどねぇ」

 ……私は機械に詳しくないが、それってなかなかとんでもない性能なのではないだろうか。

「師匠、君。まさかそれで盗撮などしてはおらぬだろうな……」

 このサイズ、この性能。その気になれば女子更衣室なり、便所なり、好きなところに仕掛け放題であろう。しかし、大魔王は神々しき顔で首を振った。

「そんなことしないよぉ。興味が無いからねぇ。これは激しい動きの撮影に使うために作ったんだぁ」

 そうであった。こやつは我が師匠、稲本竜平。隠し撮りなど彼の信条にそぐわぬ。大真面目にカメラを構え、正々堂々と変態的撮影に臨む、由緒正しくあっぱれな変態である。

「襟にピンバッジ形式でくっつけるんだよぉ」

「なるほど、では後で穂波に言って……」

 しかしそのとき、師匠は立ち上がった。私の肩をガッと掴み、ゆっくりと首を横に振る。手がじっとりと汗ばんでおるのがわかり、その真剣味をうかがわせる。

「駄目だよぉ。これは僕の秘密の技術だからねぇ。あまり口外したくないんだぁ」

 ……信じて良いのだよな、師匠。

「わかった、彼女にはこの『オウノメちゃん』のことは話さぬ。しかし、それではどうやって彼女にこれを持たせるのだ」

「そこは僕に任せなよぉ。アラビアーン!」

 すこぶる不安である。私が不安にさいなまれておると、師匠は不意にコンピュータを閉じ、異常な速度で荷物を仕舞う。何だ何だ?

 と、思っておると入り口の戸が開いた。入って来たるは穂波である。おや? 私は懐中時計を取り出した。

「どうしたんだね、穂波。まだ講義時間のはずだが。講義終了まで四十分はあるぞ?」

 まさかサボったのか? いやいや、この生真面目で誠実な大和撫子が、左様なちゃらんぽらんな真似をするとは思い難い。

「講義が早く終わってしまったの。ほら、話したことあるでしょう。江崎先生の講義よ」

 ――――ああ、映画評論の講師の方か。講義中に突如『飽きた』などと言い出し帰ってしまう変な先生だという話は聞いている。そういえばこの時間だったのだな。

 私が得心している間に、穂波は師匠に挨拶をして私の隣に掛ける。ええと、滝沢はこの時間が本日最後の講義であるはず。四十分後、二人で手芸屋にしゃれこむというわけだ。しかし江崎教授のエスケープにより手持無沙汰になってしまったため、時間を潰しに来たと言うことだろうな。

 と、私はぎょっとした。穂波はここに来る途中に買ってきたのであろう缶ジュースをこくこくと飲んでいたのだが、

「……何だそれは」

 そのラベルには『炭酸抹茶』と書かれている。穂波はこくんと喉を鳴らし、首を傾げる。

「のどかわいてたの。そしたら購買で売ってたから」

「買ってしまったのか」

「ええ」

「うまいのか」

「超まずいわ」

 だろうなあ。なぜこいつはいつもいつも珍妙な新商品を買ってはことごとくしかめつらをしているのだ。少しは学習せんか。数撃てば当たると思ったら大間違いだぞ。

「どれ、私も頂こう。そんなにまずいのかね」

「とてもね」

「そこまで言われると逆に興味が出てくるな」

 穂波から缶を受け取る。意を決し飲めば、――――――――

「ぎゃああああああああああああ」

 言葉にならぬまずさが私の舌を! 喉を! 食道を汚してゆく!

 ただ抹茶がシュワシュワとしているなどと予想していた読者よ、君は甘い! 汁粉にカスタードクリームと板チョコをトッピングした並みに甘すぎる! 問題は味なのだ。えもいわれぬその味なのだ。言葉で表現するのは難しいが、甘味と辛みが恐ろしく強く、その上何やら味噌じみた味も確認できる。

「ちょ、ちょっと隼、大丈夫?」

「大丈夫なものかぁあぁあぁ」

 こんなものを飲んで平気な顔をしているとは、さすがは雪村穂波、我が自慢の従妹である。

「これはひどい! 飲料としては完成形の一つとも言える抹茶を、ここまでケィオスなものにしてしまうとは。茶に対する冒涜であるぞ! 静岡県人として許せん成敗してくれるわぁあぁどこかになおれぇえぇ」

「隼、カオスの発音がいいのはわかったから落ち着きなさい。ほら零してるわよ」

「知らぬ、存ぜぬ、顧みぬ! ええい何だこのまずさは舌に残るううう! しかし成分表を見る勇気など私にはなぁぁぁい! 何なんだこのまずさはああぁぁ!」

「それは、ミステリだよ」

「大林康介教授、いらっしゃいましたねええええ!」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 閑話休題。

 私が『炭酸抹茶』のまずさから落ち着き、しばらくして。穂波はぱっと立ち上がった。

「じゃあ、わたしは行くわ。隼、ちゃんと付いてくるのよ」

「合点承知である。任せておきたまえ」

 彼女ががらりと出て行った後、私の背をちょんちょんと突く者あり。師匠である。師匠は恵比寿神のような神々しき微笑を浮かべ、パソコンのディスプレーを開いた。見れば、文学部棟の廊下の映像が流れている。

「『オウノメちゃん』付着は成功だよぉ」

「でかした、師匠。しかしいつ付けたんだね?」

「うふふふふ」

 何だかあまり問い詰めたくない。実に嫌な情報を得かねない。私はそこで詰問を諦め、ディスプレーに視線を戻すことにした。歩き慣れた校舎だが、こうしてモニタ越しに見るとなかなか新鮮である。

 しかし、彼女が印刷室の前を通り過ぎたときだ。

 うおう、画面がぐらりと揺れ、地面が一気に目の前に!

「ありゃ、ホナミちゃん転んだみたいだねぇ」

「何も無いところだぞ……」

 画面は凄まじい勢いでぐらぐらと揺れ、ようやく大人しくなった。おや、画面がきゅうと下を向く。ああ、膝から血が! あたふた絆創膏を探しているようで、襟がぐらぐらと揺れている。

「嗚呼、駆け寄ってやりたい」

「何を言ってるのさ、マキノぉ。ここから印刷室まで結構あるよぉ」

 なるほど、それもそうである。目の前に映像が広がっているとつい勘違いしてしまっていけない。と、そこで私は問題に気づく。

「師匠。私は馬鹿である。私は別段あの愛しき従妹を監視したいわけではないのだ」

「どういうことぉ?」

「私が彼女に頼まれたのは、彼女を見守り、必要とあれば助けに入ること。しかしだ、この状況ではいざというとき現場までが遠すぎる」

 そうなのである。この部屋でのんべんだらりと彼女の恥ずかしいオデカケを監視することはできる。しかし、いざ何かあったとき、私の対処は激しく遅れることであろう。ここから正門までだって、走って五分は掛るのであるぞ。やはり、実際に自分が追う方が良い。

「師匠、私は行く。このディスプレーを貸したまえ」

「えぇ? どうするつもりなんだぁい?」

「決まっておろう。このディスプレーさえあれば、普通に尾行するよりもかなり遠くから様子をうかがうことができる。数十メートル離れた所から追えば、流石の滝沢とあろうども私に気づくことはあるまい」

 師匠は鼻の頭の脂汗をちょんちょんと拭いた。

「路上でノーパソ開くつもりなのかぁい?」

「当然だとも」

「……マキノぉ、僕が言うのもなんだけど、それ凄く不審だよぉ」

「私は一向に構わん! それが穂波の幸せにつながるならば、仮令世間から白い目を向けられようとも何の問題があろうか?」

「結構問題だと思うけどなぁ。そもそも、これ持って走るのはなかなか大変だと思うよぉ。ちょっと持ち上げてごらんよぉ」

 師匠に促され、私はディスプレーを持ち上げてみた。

 ……むう。

 思いのほか重量がありおる。さらに、このサイズを持ち歩くのはしんどい。稲本師匠のような豪壮活力の持ち主ならいざしらず、私のようなごくごく平凡な文系男子には斯様な重労働は非常に困難を極める。

「おのれ、やはりここはジェームズ・ボンドさながらの追跡を行うしかないと言うのか……」

 私がムウと唸っていると、心の師匠はノートパソコンをカショカショといじり出した。ほどなく、私の尻から振動が響く。携帯電話を取り出せば、知らぬアドレスからのメールであった。

「マキノぉ、届いたかい?」

 師匠はたくましい首をぐるりと回す。

「はぁ、たった今。これ、師匠からのメールかね?」

「アラビアーン! 中のアプリ開けてねぇ。携帯用『オウノメちゃん』モニタだから」

 ……この男、本当に何者なのであろう。確か文学部所属のはずなのだが。私の手中のケータイには、第三渡り廊下が綺麗に映っておる。

「返す返す問うが、師匠。これ本当に悪用していないだろうな?」

「そんなことしないってばぁ。ほら、早く行きなよぉ。僕はお菓子でも食べてるからぁ」

「……そうだな。恩に着る、それでは!」

 私は第二書庫を飛び出し、携帯電話片手に穂波の場所に駆けた。ちらりとモニタを確認すれば、『オウノメちゃん』は滝沢の顔を映しておる。しまった急がねば!

 

 ……と、急ぎ過ぎたのがまずかった。

 図書室前の角を曲がったとき、そこで現れた者に勢いよくぶつかってしまったのである。私の手から携帯電話は離れ、ころころと飛んで行った。私はと言えば頭をすこぶる強打し悶絶しているところである。

「あいたたた……。って、牧野さんじゃないですか」

 衝突相手は西園寺であった。

「どうしたんですー? お急ぎですか?」

「実は友と約束をしていてな。遅れそうなのだ」

 私の特技は息をするように嘘を吐くことである。

 私は手から飛翔した携帯電話を探し、きょろきょろとあたりを見回した。おかしい、そんなに遠くに行ったはずは無いのだが……って、む?

「ま・き・の・さーん?」

 西園寺はにこにこと微笑みながら、私の携帯電話を持っていた。諸君、笑顔とは本来攻撃的なものであることはご存じであろうか? 獲物を見つけたときの攻撃予備動作こそ、笑顔と言うソレなのである。

「これ、『オウノメちゃん』ですよね?」

「……左様」

「ふふん、ここで西園寺の推理が炸裂しますよ。カメラが移動中、同じ方向を走る牧野さん。これは尾行中に間違いないのです」

「……それもまた、左様」

 どうして西園寺は『オウノメちゃん』を存じてやがるのであろうか。そしてなぜこんなにも察しが良いのだろうか。もしや誰かの尾行経験があるのだろうか。……否。むしろ師匠に『オウノメちゃん』をつけられ、妙な鋭さで監視に気づき、笑顔で問い詰めたとかそんな経緯であろう。

「先に断っておくぞ、この尾行は既に穂波に了承を取っておる。ああ、『オウノメちゃん』を使用しておることは、師匠の要望により穂波には内緒だ。しかしその上でも、彼女を追っていることは了承済みなのである」

 私は迂闊であった。手短に話すつもりだったのが、話し過ぎたのだ。

「へえー……雪村さんを追っていたんですね。西園寺、興味がありますよ」

 しまった。語るに落ちるという奴である。私としたことが、何と間抜けな。これ以上詳しく語っていたら手遅れになるやもしれぬというのに。ええいここからどうやってこの邪魔者から携帯電話を奪還し、逃げ切ったものだろう。西園寺の手の中で、滝沢が見たことも無いような笑顔を見せておる。

 だが、私が灰色の脳細胞を駆使し詭弁を弄しようとしていたときである。驚くことに西園寺は素直に携帯電話を差し出すではないか。

「牧野さん牧野さん、そんなに泣きそうな顔しないでくださいよ。ほら、返しますから」

 誰が泣きそうか。ちょっと狼狽しただけである。

 だがまあ、情けを掛けてくれるというならばありがたい。さっさと受け取り、追走に戻るとしよう。心を持ち直し、手を伸ばすと……西園寺はひょいと手をひっこめた。

「……どういうつもりだね」

「返してもいいですけど、一つ条件があるのです」

 この童顔巨乳は、一体何を言い出しやがったのだろう。

「まさか、脅迫かね? 待て待て、今手持ちの金は千五百円足らずであるぞ」

「牧野さんの中で西園寺は、この場面でお金を要求するようなイメージなのですか! しょ、ショックです!」

「そういうのは後にしろ。条件を早く教えてくれ。面倒事ならば明日以降に頼む」

「いえ、牧野さんの尾行にご一緒させてもらいたいのです!」

 ……何だと?

 

     ◆ ◆ ◆

 

 それから十数分後、我々は何故か学生食堂でパフェをほおばっておった。……ええい、どうしてこうなった。

「雪村さんたち、動きませんねー」

 対面に掛ける西園寺は、パフェを小口に切り崩しながら肩をすくめる。私たちの間、机の上には『オウノメちゃん』が滝沢の顔を映し続けている。あちらも向き合っている状況だということだ。

 彼らは未だ大学構内を出てすらいなかった。さっさとまっすぐ手芸店に行ってしまえばいいようなものを、講義終了後の教室で駄弁り始めてしまったのである。一向に動き出す気配が無いため、私たち尾行組は、その教室に近く時間の潰せる場所、この食堂に来たと言うわけである。

「全く、いったい何を話しているのやら……」

 滝沢の柔和な表情を見ると、随分会話は盛り上がっているようだ。しかし、『オウノメちゃん』には音声を拾う機能が備わっていないため、どうにも状況は掴みがたい。ええい師匠、君はなぜ『オウノミミちゃん』でも一緒に開発しなかったのだ。いや、それではまるきり盗聴器だな。

「……しかし滝沢、こんな顔ができたのだなぁ」

 いつもはきりりと引き締まった顔をしているはずなのだが、今は堪らなく表情が柔らかいのである。

「こんな顔って? いつもは違うんですか?」

「ああ、そうとも。いつもは真面目でクールな美男子である。斯様に呆けた女のような顔をする奴ではない」

「はー、なるほど」西園寺はまた一口パフェを口に運ぶ。「とんだ女好きだったんですね!」

「考えにくいが、そうかもしれぬな。……いや、違うな。恐らくこれは、相手が穂波であるからこそなのだ。あの天使の微笑みを向けられれば、態度の軟化せぬ男などいまい」

 私がそう言うと、西園寺は呆れたように眉をひそめる。

「牧野さん牧野さん。前から思ってましたけど、牧野さんはちょっと雪村さんを持ち上げ過ぎじゃないですか?」

 声にどうにも怒気を感じる。私はこれを誤魔化してはいけないだろうなと感じ、誠心誠意その問いに答えることにする。

「否定したいものの、そうだな。身内の贔屓目という可能性は打ち消せぬ」

「身内、ですか……」

「左様。私と穂波は、もはや共に暮らし始め八年になるのだぞ。この情を否定できるほど、私は鬼ではない」

「ああ、シスコンなんですね!」

 私はぎくりとした。まさか、と思って西園寺を見るも、いつも通り犬耳ヘアをぴょこぴょこ動かしているだけである。冗談の一環ということであろう。穂波は私の従妹なのだし、当然か。

「不名誉な呼び方はやめてくれたまえ」

「えっへへー。このシスコンめ!」

くすくす笑いながら、西園寺はまたパフェをやっつけ始める。私は改めて携帯電話に目をやった。相も変わらず、滝沢の顔が映っているばかりである。おや、滝沢はこんなにまつげ長かったのか。

 ――――どうしよう。会話が滞ったぞ。

 そもそも私と西園寺は、たしかにゼミは同じくしておる。そのため会話をすることも少なくない仲であるのだが、逆を返せばその程度の関係なのである。大抵私がゼミ室に行くのは、穂波と一緒だ。そうでないときも、ほとんどは稲本師匠がゼミ室には待機しておる。西園寺の方も、多くの場合は天城と同行しているため、滅多に単独で第二書庫に来ることは少ない。すなわち、このように西園寺と二人でいると言う状況は、よくよく考えれば初めてなのである。

 ムゥ、今は我が従妹に集中せねばならぬはずなのに、どうして心配事が増えておるのだ。何か雑談でも振った方がいいのかしらん。しかしいったい何を話せと? 改めて考えれば、私はこの女のことをさっぱり知らぬのである。必要最低限の会話や、師匠の奇行に対する突っ込み、ゼミの課題についてなどしか会話もしたことがない。

 沈黙を破ったのは、西園寺であった。

「あ、牧野さん。その怪我どうしたんですか?」

「怪我?」

 彼女の視線を辿る。ああ、この額の傷か。

「これは先日、ベランダの梯子から滑り落ちてしまってな。そのときしたたか打ったのである」

 晩夏の月を穂波と眺めたときの話では無い。一週間ほど前か、夕涼みのために屋根に登りかけていたところ、足を踏み外し屋根の端に思い切り額を打ってしまったのである。出血こそしたものの傷は浅く、残ることはなさそうである。

「また屋根に上ったんですか? 全く、危ないからやめた方がいいと思うんですけどね」

「ははは、そうかもしれぬな。しかし屋根の上というのも存外快適でな。周囲に人家が無い中、見えるのは空ばかり。粋であるぞ」

「気持ちはわかるような気がしますけど」

「そうだろう、そうだろう。君も月の綺麗な晩は、屋根の上と言わずとも外に出ることをお薦めするよ」

 なんとか話を続けられた、と私は胸をなでおろす。しかし待て、牧野隼。貴様は本題を見失ってはおらぬだろうか? 西園寺と親交を深める必要など無いのである。貴様が今見なければいけないのは、眼前の小柄少女では無い。モニタの向こうの我が友である……って、

「しまった!」

 見れば、既に映像は廊下を歩く視点になっておる。彼らはいつの間にやら、動き出していたのだ!

「西園寺、行くぞ!『オウノメちゃん』があれば見失うことはあるまいが、それでも距離を離すわけにはいかん」

 彼女は、残りわずかなパフェをちょこちょこと急いで食べる。

「オッス! 西園寺美月、出撃します!」

 パフェの入っていた器を手に、西園寺は立ち上がった。いや、なんで君はそんなに力が入っているんだ。こちらが恥ずかしい。

 

 構内をしばらく走り、正門にまでやってきたところで我々は重大な問題に気づいた。それを理解して頂くためには、まず学生食堂を出発した後の我々の行動を伝えなければならない。

 我々は穂波たちを見失わぬためにも、そして状況の変化に敏感に反応するためにも、出来る限り『オウノメちゃん』から目を離すわけにはいかなかった。

 そして西園寺は驚くほどに歩幅が狭く、私は全力どころか、小走りすら出来なかった。脚の長さを考えれば、当たり前のことではあるのだが。

 さらには現在午後三時半、大学構内、そして駅までの道には帰宅する学生が大勢いらっしゃりやがる。

 賢明なる読者諸君ならば、我々がどのような状態にあったか想像がついたのではあるまいか。衆人環視の中、一つの携帯電話を手に小走りで駆けて行く男女の姿を。……ああそうとも、不審である。我らは駅への道、注目の的となっていた。

 隣を駆ける相棒は、「西園寺は見られることに慣れているのです。アイドルですから」などと言っていたが、残念ながら私はアイドルでは無いのだ。人並みに恥も知っている。どこか人目につかぬ道を取りたいところだが、残念ながら私にはこの辺りの土地勘が無い。隣の市とは言え、大学に入るまでは滅多に来なかった町なのだ。

「西園寺、道を変えまいか。先回りをするのだ」

「おおっ、追跡っぽい台詞ですね! それじゃ、こっちから行きましょう」

 彼女が手で示したるは、坂道の住宅街、その合間に走る路地である。確かこの女、福追生まれの人間だったと思ったが正解だったようだ。でかした西園寺、この道ならいかにも人目は少ないぞ。私は迷わず彼女の提案を飲み、路地を利用することにした。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「ごめんなさい、牧野さん……。西園寺は、力不足でした。ここは西園寺に任せて、先を急いでください」

 ……諸君に一つ、断っておこう。

『オウノメちゃん』は単なる小型カメラである。相手の現在地を特定するような、いわゆるGPSの機能は搭載されておらぬ。

 懐中時計は午後四時を回ろうとしている。穂波たちは無事手芸屋についたと見え、モニタの中には色とりどりの糸や布が見えている。それは良い。それは良いのだが、

「先を急げればとっくに急いでいる。しかし、先がどちらか皆目わからぬ」

 我々は、迷子になっておった。

 私の目の前には、巨大な河が静かに流れている。対岸で犬を連れる人がいるが、私の手のひらほどにしか見えぬ。河と言っても一本だけでは無く、その中央部には一筋の中堤防が走っており、実質二本の川があると言っても間違いでは無かろう。堤防の上、私は頭を抱えていた。

 振り返れば、福追によくある小規模な山。視界全てを支配するほどの竹林が、夕方の風にざわめいている。我々も、あの竹林を抜けてここに辿り着いたのだ。

「西園寺としたことが、山中で方向感覚を失うとは……。ごめんなさい、牧野さん」

 初めは、確かに福追大学沿いの住宅街を通っていたのだ。路地を抜け、坂が終わり、平地の住宅街を抜けていた。恐らくあの時点では、西園寺は道を完璧に把握していたに違いない。しかし数分後、我々は大学のあるものとは別の山にぶつかった。その裾野には 藪が密集し、向こうにはスケールの大きな森が広がっている。

 ここはひとつの山というよりも、なだらかな坂と頂上がいくつも混在する、いわゆる丘陵である。もちろん、この丘陵の存在は私も知っている。普段はここにつきあたり、山のふもとを縫うように迂回して駅に向かうのだ。

 然れど、西園寺は藪に踏み込み、この丘をまっすぐ越えると言い始めたのである。彼女は獣道を把握しているようであったし、何しろ地元民である。迷うことなど予想もしなかったとも。私とて、岩戸市の森は大抵踏破しておるし、特に自宅周りの森ならば庭のようなものだ。

 西園寺の名誉のために慌てて付け加えれば、彼女は道がわかっていなかったのに無闇に飛び込んだと言うわけではない。あのアクシデントさえなければ、恐らく我らは素早く駅前に辿りつけていたはずである。

 さて、そのアクシデントとは何か。西園寺が普段利用している橋が、落ちていたのだ。

 丘陵の半ば、ぱっくりと口を開けた谷。向こう岸までは数メートル、上手くすれば飛び越えられる可能性はあるが、そんなことをする気には到底なれなんだ。というのも、谷は深く、石を落とせば底に落ちるまで数秒かかるという始末だったからである。岸壁は特に足がかりがあるでも無し、ここを這い降り対岸をよじ登ると言うのも現実的では無かった。

 畢竟、我々はこの谷を越えられる地点を探し、谷沿いにうろうろとしていたのである。その結果、この谷底を通っていた渓流がぶつかる川に辿り着いた。……すなはち、只今我らの前に広がる大河である。

「西園寺、ここがどこだかはおわかりなのかね?」

「はい、西園寺の通ってた中学の近くのはずです。ここから南にちょっと行けば、橋があるはずですよ」

 それを聞いて一安心である。いくらなんでも、大学から三十分のところで遭難するのは恥である。いやまあ、わからなければ先ほどの渓流を逆行すれば良い話なのだが。我々は溜息を吐きあい、河沿いに橋を目指すことにした。

「ときに西園寺、ここから駅まではどれくらいかかるのだね」

「確か、三十分くらいですね……」

 駄目だ。我々が追いついた頃には穂波たちのオデカケは終了してしまうであろう。

 まあ、無論何事もなければ良いのである。平穏無事に我が従妹が帰れば、私の尾行も杞憂に過ぎなかったことになる。『はっはっは、結局何も起きなかったな』などと笑い、彼女とつつがなく合流すれば良いだけの話である。

 ……だが牧野隼、貴様はそれで良いのか。情けないとは思わぬか、申し訳無いとは思わぬか。貴様を信じたお姫様を裏切って良いものか。否。断じて否である。私はぎゅうと携帯電話を握った。恥を知れ牧野隼。彼女を騙し誤魔化そうとした恥を知れ。せめてこんなところでとぼとぼと歩くでは無く、全力で駆けるほどの気概を見せよ。

 しかし、私が走り出そうとしたその瞬間である。

「わあっ! 牧野さん牧野さん、ケータイ見てください!」

 西園寺が驚いたような声を上げる。何ぞと思へば、彼女は私の手を凝視しているではないか。一体何事かと思い携帯電話に目をやれば、そこにはとんでもないものが映っておった。

 場面は見覚えの無い林道。周囲に人の姿は無い。何ゆえ穂波はこんなところに? しかし、そんな疑問はさしたる問題では無かった。本題は、そこに映っていた人物である。

 やはり滝沢が映っているところを見るに、彼らは向かい合っている。それどころか、滝沢の腕はこちらに伸び、画面外に消えている。考えるまでも無く、滝沢は我が愛する従妹の肩を掴んでいるのだ。

 問題はそれに留まらなかった。頬を染めた滝沢の顔が、ゆっくりと画面上方に上がっていくのだ。無論彼が浮遊を始めたわけではない。彼が『オウノメちゃん』に近づいてきているということだ。

 やがて、『オウノメちゃん』に迫った滝沢の胸板は、モニタをいっぱいにしてしまった。こうなってしまえば、いくら愚鈍な私でも何が起きたのか十分に掴むことができた。我が親友は今、私の愛する従妹を抱きしめたのである。いいや、場合によっては口づけを交わしている可能性すら否めない。ともかく、見過ごすことのできないナニゴトカが、はっきりと起こっていたのである。

「……ええっと、牧野さん?」

 茫然としている私の顔を、西園寺は覗きこむ。「大丈夫ですか?」

「大丈夫に見えるかね……?」

「駄目そうです! き、気を確かに!」

 私は己がぷるぷると震えていることに気がついた。

 いったい、何ゆえ?

 私はこうなることを望んでおったはず。滝沢は良い男である。穂波を任せるに足る者である。しかし彼らが仲睦まじい様子を見せているところをこうも目の当たりにしてしまうと、えも言われぬ感情が生まれてくる。

 モニタでは、既に滝沢の姿は無い。どうやら抱擁はほんの一瞬で、既に移動を始めているところらしい。

 私がぼんやりと立ちつくしていると、西園寺がちょんちょんと袖を引いてくる。

「牧野さん、あんまり気落ちしないでください。雪村さんは、先輩のおかげで立派に恋の成就を果たしたんです。喜んであげればいいじゃないですか」

「……それは、そうやもしれぬ。だが 何と表現したものか、釈然とせぬ気持ちが私の中を駆け巡っておるのだ」

 この気持ちは何だろう。

 穂波が取られてしまうことへの嫌悪か? それとも、友人が私の先を行ってしまった苛立ちか? はたまた、己が斯様に間抜けな状況に陥っていることへの後悔か? どれも、一概に否定することはできまい。恐らくその全てが、今の私を支配していた。

 慰めるように、西園寺は私の頭をふにふにと撫でる。下を見れば、物理的に背伸びをしているようである。いつもの犬耳ヘアはすっかりしょぼくれ、垂れ耳のような状態になっていた。

「釈然としなくても、ですよ。牧野さんも、いつまでも雪村さんの恋に縛られていることは無いじゃないですか。これからは、牧野さん自身の幸せのために生きればいいんですよ」

「私自身の幸せ、だと?」

 何を言われているのか、よくわからなかった。私は、今まで『縛られて』いたのだろうか。否。穂波の恋を応援していたのは、純粋に私の幸福のためだ。誰に言われてやったわけでも無い、私自身の選択である。彼女の幸福こそ、私の幸せだ。それでは、西園寺の言う『私自身の幸せ』とは何なのだろう。

「西園寺」

 携帯電話を閉じれば、目の前にはちんまりとした少女が一人、目を潤ませて立っておった。

「私には、君の言う『幸せ』は理解できぬ。君は、君自身の幸せがあるのかね?」

 西園寺は手を引き、目を伏せた。

「西園寺の幸せは、手の届くほど近くにありますが、それは同時に、空の星より遠い所にあるのです」

「詩的すぎてさっぱりわからんぞ」

 芝居がかった様子だったから笑ってやると、彼女もえへへと微笑み返してきた。

 しかし、なんだかいつもとは違い、妙な実感がこもっていたような気もする。何となく、伝わってくるものは無いでも無い。

 手の届くほど近く、空の星よりも遠い幸せ。私も、いずれそんなものを追うようになるのだろうか。それとも、あるのに気付きながらも、自分で蓋をして避けているのだろうか。

 

 駅まで案内してもらった頃には、辺りは既に薄暗くなっていた。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「目のゴミを取ってもらっていたア?」

 私はへなへなと崩れ落ちた。ときは夕食前、ところは穂波の部屋である。私は彼女の恋愛成就を祝福しようとケーキを購入し、空元気を振り絞って帰宅したのであった。そして、部屋に突入するやいなやクラッカーを鳴らしてみたところ、我が姫は呆れた顔で真相を教えてくれたのである。

 すなわち、あのときの抱擁のように見えた行動は、穂波の目に入ったゴミを滝沢が取ってくれたと、ただそれだけのことだったらしい。恥ずかしい。私は自分が恥ずかしい。

「……私がどれほどの想いに包まれていたのかわかっておるのか! 滝沢も滝沢だ、そんな古典で私をだまくらかすとは許し難い! 古典は古典でも、貴様の好きなソレとは違うだろうが!」

「隼が勝手に勘違いしただけじゃない。それに、勘違いされないように、ちゃんと『ゴミを取ってもらった』ってはっきり言ったのよ」

 一応、追跡者の誤解を受ける自覚はあったのだな。しかしながら、

「そんなもん聞こえぬわ!」

「何よ! あれ以上大声で言ってたら変な人じゃない!」

 と、そこで穂波は思い出したように表情を緩める。

「そう言えば、全然気配を感じなかったわね。そんなに離れてたの?」

「ま、まあな」

 師匠との約束だ。『オウノメちゃん』のことを話すわけにはいかん。

「いやしかしそんなことはどうでもいい! おのれ滝沢め、我が純粋なる心を弄びおって……許せん! しかもこれでは、君の恋はまだ成就していないということではないか!」

「そういうことよ。勝手に終わらせないで頂戴」

 穂波は声を荒げているようだが、見間違いであろうか、何やら嬉しそうにも見える。

 ははあ、コヤツはそう言えば昔から、目的のものが簡単に手に入ると気に入らぬ奴であったな。苦労してこそ、入手したときの喜びがひとしおなのだと言う。とんだ被虐趣味であると私などは思うのだが。

「ときに穂波、これからまた彼と会う予定はあるのかね?」

「な、何でよ」

「次の約束を取りつけずしてどうするのだ!」

「そんなこと出来るわけ無いでしょ!」

 そうかなぁ。随分仲好くなっていたとは思うのだが。しかしまあ、コヤツは土壇場で突如根性無しになるからな。下手をすれば照れ過ぎて相手を殴り倒しても驚かぬ。話の流れというものもあることだし、無理はできまい。

 この様子では、告白など夢のまた夢ということか。滝沢が穂波に告白して来るという可能性も無きにしもあらずだが、そんな不確定なものに頼り待ち続けるなど愚の骨頂である。二人の時間にしても同じことだ。今回のオデカケこそ滝沢が誘ってくれたようだが、次も彼が誘いを掛けてくれる保証は無い。次々仕掛けていく必要がありそうである。彼女一人では荷が重かろうが、彼女には私がついている。

「君が怖気づいたなら、私が約束を取り付けてやろう。なあに、三人で会う約束をして、当日私がドタキャンすれば良い話である。善は急げだ。今週末は如何かな」

 しかし、携帯電話を開く私の手を、穂波がぎゅっと掴んだ。

「隼、忘れたの? 今週末は、もう予定があるでしょう」

 予定?

 カレンダーを見て、私はアッと声を上げた。意識の外側に置いたままにしていたようだ。

 

 六月二十八日は、穂波の両親……雪村夫妻の命日なのだ。

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