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第一章 『恋と仲間とミステリと』

 

 翌朝。私はハンドベルを手に、穂波の部屋に乗り込んだ。部屋の主はすこぶる幸せそうにくうくうと寝息を立てておる。ああ、布団を蹴り落としてしまったようだな。全く、だから風呂上りの直後に寝るなというのだ。ええいヘソなど出しおって。

 昨晩、私が風呂を出ると、既に穂波は就寝してしまっていたのである。まだ十一時過ぎであったというのに、何をあんなに早く寝る必要があったのであろう。まあ、謎である。

 ふと、私は彼女の腹をぷにっとつまんでみた。ふわりとはなはだ柔らかい。一方己の腹を掴もうとすると、筋張った肉が指からつるりと逃げて行く。なるほど、穂波はふくよかだな。

 しかし女性とは、とかく柔らかなイキモノであると聞き及んでおる。いや、穂波以外の女性の腹などまさぐった経験が無いため相対評価はできぬのであるが、私見の絶対評価で言えば、この程度の柔らかさは十分に魅力の範疇に収まると思われる。減量など必要であろうか。否。狂おしく否。この甘美なる柔らかさを失うなど言語道断である。

 ……いやいや待て、私は何をやっているんだ。早朝から従妹の腹をまさぐり「この甘美なる柔らかさ」などと感慨にふけっているとは。変態だ。今の私は変態だ。ええい破廉恥な。

 しかしまあ、全く反応が無いものだな。ぺちぺちと頬を叩いてみるも、何やらウフフと微笑んでいるようにも見える。ええい夢の中ということか。仕方があるまい。早速最終手段である。

「起きろ穂波! のんびりしている暇は無いぞ!」

 ガランガランとベルを鳴らしつつ、カーテンを一気に引く。初夏の日差しが部屋を包み、我が従妹はむずむずとベッドの上で身をよじらせた。

「あーさーでーあーるーぞー」

 私はベルを鳴らしたまま、ベッド脇に戻った。穂波はようやく目を覚ましたようであり、寝ぼけまなこで起き上がったところである。彼女は掛け時計を見て、ぎゅっと目を細めた。

「……何なの。まだ六時半じゃない……」

「左様。しかし八時間も寝ておいて何の文句がある。若者よ、布団を出よ!」

「そういう問題じゃないわ……。どうしてわたしは起こされたのかしら? 今日の朝食は貴方が当番のはずでしょう?」

「うむ、私である」

「それにわたし、水曜日は出るの三時限目からなんだけど」

「それも先刻ご承知の上だ」

「……ねえ、だからどうしてわたしは起こされたの?」

 私はハンドベルをガランと一振りし、にやりと笑った。

「決まっておろう。作戦は本日より始まっているのだよ」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 静岡県が西部、福追市。緩やかな起伏が市内全域を支配する、丘と河の町である。静岡県の例にもれず、東西に一本パパラパーと国鉄が走っている他は公共交通手段に乏しい。新幹線もここには停まらず、アクセスの悪いこと限りなし。私たちが住む岩戸市からは在来線で一駅掛る。

 我々の通う大学、その名もずばり福追大学は、この国鉄の駅から徒歩十五分といった距離にあるのだ。我々を含むアパート暮らしをしていない大抵の福追大学生は、この駅から大学までの距離を毎日歩いているわけだ。

 

 七時に起こしたのは正解だったようだな、と私は息を切らしながら思った。女性の身支度は時間がかかるからいけない。作務衣の袖より懐中時計を取り出せば、八時半。ぎりぎり間に合ったか、場合によっては間に合わなかったか。

「……隼、そろそろ何をするつもりなのか教えてもらおうかしら」

 福追大学に向かう坂道、路地裏に隠れ、私と従妹は表通りをうかがっていた。

「穂波。表を行くは何者だ、答えよ」

「大学生、たぶん福大生じゃないかしら。一限がある人だと思う」

「ご名答。ここで私の素敵情報を授けよう。滝沢は水曜一時限目、『古文書入門』の講義を受講しておるのだ。さて、どういうことかおわかりかね」

 穂波はフンと鼻を鳴らし、勝ち誇ったような顔をする。

「それくらいわたしにもわかるわよ。滝沢は古典に興味があるってことでしょう」

「違うわバカタレーイ」

 ……いや、彼の趣味嗜好は確かに古典寄りであることは否めん。そこらへんが、近世エンターテインメント文学を愛する私とは若干話が噛み合わぬ部分である。然れども、

「問題はそこではない。つまり、じき滝沢がここを通過するということだ」

「……それで、何なのよ。要点を先に話しなさい」

 ううむ、枕詞は要らないと。わかった。結論から言おうじゃないか。

「ぶつかるのだ!」

 私はぐっと親指を立てた。……だが我が親愛なる従妹は、怪訝な顔でこちらを見ているばかりだ。

「……ごめんなさい、わたしが悪かったわ。順序立てて説明してもらわないと意味がわからない」

 一からか。一から説明せねばならんのか。仕方あるまい。

「この路地から飛び出し、さも偶然ぶつかってしまったかのように装うのだ。『出会いは印象的に』。これは基本である。古典的なものを望むのならば食パンをくわえながら走るのがベストであるのだが、私の信条としては食べ物を粗末に扱わせるわけにはいかん。よって、ぶつかるだけでいいとしよう」

 ……おや? 何だ穂波、その呆れ切ったような顔は。

「そんなことしても嫌われるだけじゃない。もっとラブレターとか、まともな方法を取った方がいいんじゃないのかしら」

「くくく。馬鹿者め、君はラヴコメというものを全く理解しておらぬようだな」

 いや、私も実はさほど理解しておらぬのだが……先ほどから語っている内容は全て、私の師匠が仰っていたことの受け売りである。

「いいか、穂波。悪印象であろうが、良い印象であろうが、出会いに必要なのは『印象の大きさ』なのだよ。まあ、無論初めから凄まじく大きな良い印象を得られればそれに越したことは無い。その最たる例は一目惚れであろう」

 私はそんなものがあるとは未だに信じておらぬが。愛情とは、友情を育み、その延長線上にあるもんであろう。……と、そんなことは至極どうでもよろしい。

「しかしな、初めから良い印象を抱かせるのは非常に難しい。そこで、敢えて初めは悪印象を抱かせ、後々その印象を塗り替えて行けば良いのだよ。ともかく、まずは強い印象を与えることが先決だ」

「馬鹿馬鹿しいわ。わざわざ嫌われるなんて頭おかしいんじゃないの?」

「私と師匠を信じるんだ! それに第一印象が最悪ならば、後は上がる一方であろう!」

 私は胸をどんと打った。

「おおう、ここでタイミングよろしく王子様の登場であるぞ」

 見れば、精悍な若者が一人。ショルダーバッグを肩に掛け、ふわあと欠伸なぞしておる。我が親友にして穂波の想い人、滝沢裕貴だ。本日も宝塚の美男子を思わせる整った面構えをしておる。私には若干及ばぬものの、百七十センチを越える身はすらりと細く、長い脚にジーンズが良く似合っている。

「……彼が滝沢、だったかしら」

 想い人の顔を確認するとは、穂波は妙なところが抜けておる。

「今からでも遅くないわ。こんなことやめましょうよ」

「恐れをなしたか、穂波よ。案ずるな、アヤツは気弱で心優しい人物であるのだぞ」

 彼はいたって紳士である。出会った頃には一人称が「わたし」であったな。そら、ワイシャツのボタンを一番上までしめておるぞ。あれはいかがなものかと思うのだが。

「穂波、君は学ばねばならぬことがいくつかあるな。行動せずに何かを掴めると思うのはよろしくないことであるぞ」

 私のありがたき訓示も聞かず、穂波はこの期に及んでまごついておる。ええいこのバカ者が。早く飛び出さねばここで待ち伏せた意味が無い。よし、ここは私が彼女の背を押してやるべきであろう。

 私は穂波の背に回り、

「南無三っ」

 その小さな背を勢いよく突き飛ばした。物理的に。

 我が愛すべき従妹はウワァなどと声を上げ、路地裏を飛び出し、バランスを崩したまま駆けて行き……ぽすっ、と滝沢の胸に飛び込んだ。でかした穂波!

 滝沢の反応はと言えば……うむ、大いにうろたえておる。それはそうだ。欠伸しながらボケラッタと通学していたら、見知らぬ美少女が千鳥足で胸に飛び込んできたのだから。浪漫である。男の夢である。実に羨ましい。

「おおっと、大丈夫かい?」

 すかさず穂波の肩を取り、自分の身体から離す滝沢。「気をつけなよ。そんなにぽやーっとしてると車に轢かれるよ」

 後ろから見ていてもよくわかる。穂波の耳は既に真っ赤である。これはもう長くはもたぬかな。

「……悪かったわね、ぽやーっとしていて! どうせわたしはうっかり者のぽやんぽやんの馬鹿なのよ! ほっといて頂戴!」

 やはりな。怒鳴りつけるように自虐を言い捨て、穂波は坂道を駆け上って行ってしまった。取り残された滝沢はポカンとしておったが、やがてとぼとぼと登校に戻ってゆく。よし、感触を問うてみることにしよう。私はさもここまで走ってきたかのように路地裏から飛び出し、「おお滝沢、奇遇だな」などと白々しく言い放つと、彼の横に並んだ。

「おはよう、牧野くん。あれ? キミは水曜日の一限あったのかい?」

 初対面の美少女にぶつかられ怒鳴られた後だと言うのに、滝沢はいつも通りである。

「いいや、本日はゼミの集まりがあってな」

「ふーん、そっか」

「そう言えば、従妹が先行していたはずなのだがいないな。ご存じないかね?」

 穂波が私と同じゼミであることは真実である。今日集まりがあるのは嘘だが。

「従妹?」

「うむ。デニム地のシャツジャケットを羽織った、黒髪ストレートのたいへん可愛らしき少女である」

「デニムのジャケット……あー、あの子が話に聞いている牧野の従妹だったんだね。雪村さんだったか、小学生の時に両親亡くなって、牧野くんのお父さんに引き取られているっていう」

「ああ、その穂波である」

「その子だったら、さっきボクと衝突事故を起こしたよ。何だかとっても急いでたみたいだけれど、どうしたんだろう」

「うむ、実は昨晩彼女の時計を十五分進めておいたのだ」

 私の特技は息をするように嘘を吐くことである。滝沢は呆れたような顔で嘆息した。

「そういうことをしたら駄目じゃないか。事故でも起こしたらどうするんだい?」

「それもそうだな。現に君と事故を起こしている」

 いかん、穂波の印象を聞けぬ流れになってしまった。まあ、いいか。ここではまず彼女を認識してもらうことが重要であり、さらなる印象は後々深めていくことにしよう。

「彼女を一人にするのは危険だな。よし、それでは私は穂波を追うことにする。では午後、文学論の講義で会おう」

 私は早急に滝沢と別れ、暴走していった穂波を追った。

 

 穂波を見つけたのは、大学の正門、人の少ない構内であった。一時限目というと、やはり学生はほとんどいない。

 とぼとぼと歩いていた彼女の肩を後ろから叩くと、穂波の耳は未だ若干赤みを残している。

「そんなに恥ずかしかったか」

「……恥ずかしかったか、じゃないでしょう」

 振り返った穂波の顔は、酒をがぶ飲みした直後のように赤い。少々の色気を感じてしまった私は不埒な従兄である。許せ神よ。

「貴方は知らない人にいきなり抱きついたりしたことがあるのかしら? もう、絶対変な女だと思われたじゃない! どうしてくれるのよ!」

「だからそれも含めての出会いであってな?」

「……隼も一回、同じことをしてみればいいんじゃないかしら」

 随分怒っていらっしゃるようだ。私はその場に足を止める。

 ううむ、効果はさておき、確かに穂波が恥ずかしい思いをしたのは事実だな。私もお詫びがしたい。そうしろと言うなら甘んじて受け入れよう。

「何してるの? そんなところに突っ立っていたら邪魔でしょう」

 私が立ち止まっているのに気付き、先行していた穂波が振り返る。私は小走りに彼女を追いかけ、エイヤとその身に飛びついた。

「ふぁ」

 もちろん、胸や尻やあれこれに触れぬように注意は欠かさない。腹部を軽く抱きしめる。……ううむ、やわらかい。朝も感じた少女の柔らかさが、私の腕を撫でるように包み込む。見れば穂波の耳は真っ赤になっている。そろそろ、事態を把握した頃だろうか。

 ぼかっ、と私は腹部に強い衝撃を喰らい、地べたを転がっていた。殴られたらしい。

 その加害者はと言えば、耳を真っ赤にして凄い形相になっている。

「ば、ば、ば、馬鹿! いきなり何をするのよ!」

「いや、親愛なる女性に抱きついてみた。同じことをしてみたのである」

「知っている人でしょ! 条件が違うじゃない!」

「しかしそれを差し引いても、大いに理解できた。これはたいへん恥ずかしい」

 人が少ないとはいえ、道行く学生からひしひしと視線を感じる。それはそうだろう。傍から見れば、道端で美少女に抱きついた男が殴り飛ばされた図である。どこに出しても恥ずかしい、立派な痴漢の姿である。

 だが、今の私はこの視線に晒されて然るべきなのだ。穂波が恥ずかしい思いをしたというならば、その恥をも共有するのが良き従兄の務めではあるまいか。

「なんでわざわざ実行しちゃうのかしら……。それに、結局わたしも恥ずかしいんだけど」

 むむ、それは盲点だった。

 しまったと思ったが、穂波はくるりと背を向けた。

「……全く。もう怒ってないから、早く立ち上がって頂戴」

 怒りが呆れに昇華したのであろうか。まあ、怒りを解くことができたなら良いとしよう。我々は再び大学構内を歩きだした。ほどなく、穏やかなトーンで穂波が言葉を続ける。

「さて、これからどうするのかしら」

「作戦ならば次は『印象付け』のステップに……」

「そうじゃなくて、今から。わたしたち、まだ講義ないでしょう」

 ああ、そうか。

 気づくと何となくキャンパス内に歩き入ってしまっていたものの、確かにやることは無いのである。今から電車に乗って帰宅するかね? そんな愚挙に出れるはずはない。そもそも午後には講義もあるのだぞ。

 それでは大学構内のどこかで時間を潰す必要がある。

「よし、穂波。ゼミ室に行かまいか」

 滝沢に言ったように用事があるわけではないのだが、ゆったりと時間を潰すならばあそこであろう。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 賢明なる読者諸君であれば、推理小説家、大林康介の名を知らぬ者は少ないのではなかろうか。代表作『アルディオン館の目張り』で高校生時代にミステリのなんちゃらという賞をかっさらい、以後『同人即売会殺人事件』で作家として始動。以降、こんにちまで第一線で活躍する日本でも指折りのミステリ作家となっておる。代表作のタイトルからわかるように、その嗜好はいわゆるおたく文化にも向き、近年ではライトノベルの評論文やアニメの脚本などで本職以上に有名になってしまっているきらいがある。

 その愉快な小説家は、福追大学の専任教授である。何を隠そう、私と穂波が所属しているのはこの大林ゼミなのだ。本職の小説家という視点から、そして業界人という視点から我らに創作のイロハをご教授してくださるというわけである。

 

 福追大学の文学部棟、その東端にある大学図書館。そこの第二書庫こそ大林ゼミのゼミ室である。普段ならば鍵が掛かっているところだが、本日は誰か来ているのだろう、鍵が開いていた。そこでがらりと戸を引くと、

「おかえりなさいませー、ごしゅじんさまーっ! あなたのメイドです!」

 メイド服の中学生が満面の笑みで挨拶してきた。すかさず戸を閉める。

 私に女中はいない。部屋を間違えたのだろうか。しかし間違いなくここは第二書庫である。

 再び戸を引けば、先ほどのメイドが頬をプクウと膨らませていた。

「牧野さん牧野さん、ひどいじゃないですかー。顔見るなり閉めるなんて」

 仁王立ちしているメイドは、よくよく見れば大林ゼミの同級生、西園寺美月である。

 相対すれば、今日もちんまりとした体躯が可愛らしい。両側で縛った髪は、犬の耳を喚起させるな。大きな瞳は今日もぱっちりと開き、くりくりと良く動く。眉間に皺を寄せてばかりの穂波には見習ってもらいたいものだ。

 見習うと言えば、その胸元にも言及せねばなるまい。体躯は小さな癖に、彼女の乳は穂波のそれを遥かに上回るサイズをしているのだ。物理法則に喧嘩を売っているのだろうか、この女は。

 私が悶々としていると、その横から穂波がずんずん入ってくる。

「おはよう、西園寺さん……って、何て恰好してるのよ!」

「どうです、可愛いでしょう? おかえりなさいませ、お嬢様!」

「ここはウチじゃないわよ! おかえりなんて言われる筋合いは無いわ!」

 穂波、突っ込むべきはそこでは無いぞ。

「だいたい、大学で何してるのよ。最高学府に来てまで馬鹿な事してるんじゃないわよ!」

「むう、お嬢様役は嫌でしたか? 何なら、雪村さんのぶんもありますよ、メイド服」

「わ、わたしはそんなフリフリした服は着ないわよ! ど、どうせ似合わないし……」

 確かに、フリルを大量にあしらったエプロンドレスは、清楚な穂波には似合わぬかもしれぬ。それでいいのだ、我が親愛なる従妹よ。斯様に短いスカートや、胸元の露出した服に似合わぬ女であることは、誇りこそすれ恥じることではない。品位のある証拠だ。

 ただまあ、品性の全てを棚に上げ、このメイド服を着た穂波が見たいと思ってしまった私がいるのも事実である。我ながら不埒千万。目の前できらきら笑っているメイドがいて何が不満なのか。

「……しかし、なぜそんな恰好をしているのだ」

 答えは大方わかっていたが、私は確認の意味で問うた。ちびっこメイドは満面の笑みで返答する。

「天城さんが新作衣装を作ってくれたので、その試着です! 牧野さんにも見てもらいたくて、ここで待っていたんですよ!」

 やはり、奴か……。

 そこで初めて、私は西園寺の後ろに立つ女に気づいた。季節は夏になろうとしているというのに、彼女は真っ黒なポンチョを身にまとい、にたにたと不気味に笑っている。長髪は手入れ知らずのぼさぼさ、長すぎる前髪で目は伺い知れぬ。全く、この姿は年頃の女性として如何なものなのだろう。少しは我が姫を見習ってほしいところだ。

「天城さん、また貴女ですか! 趣味は自由ですけど、それを大学に持ちこまないでください!」

「……カワイイ美少女を着飾るのはあたしの使命……」

 ひとり言のような返事が戻って来て、穂波は途方に暮れたような顔をしている。

 この黒ポンチョ、名は天城奈緒。非常に不本意ながら、妖怪じみているこの女もまた、大林ゼミのゼミ生なのである。

「貴女が恥ずかしい趣味を持っているのは構わないわ。でも、公共の場でやるのはやめて頂戴。見ているこっちも恥ずかしいわ」

「……ほなちゃんもやってみればわかるわ……。カワイイのにもったいない」

 トーンが怖いぞ。

「我が従妹を褒める目は認めるが、天城。少しは日本語で会話したまえ。話が噛み合っていない」

「……汚物は黙っていて」

 コヤツ、口数が少ないくせに口が悪いから困る。

「何が汚物か! 妖怪じみた貴様にだけは言われたくないわ!」

「男なんて汚物。カワイくないもの」

「妙齢の婦女子が現実から目を逸らすとは情けない!」

「…………牧野は、みっちゃんやほなちゃんが非現実だとでも?」

「自分に目を向けろと言っているんだ! ええい、その服や髪は何だね!」

「あたしはカワイイ美少女のためにカワイイ服を作るの。あたしが着たら、服が台無し」

 そんなこともあるまい。何事も、恰好から入ることは重要だ。美しい恰好をしていれば、本人も見合った美しさを得て行くのではないだろうか。

 天城はそのポンチョと前髪をどうにかすれば、十分に見れる女だろうになぁ。

 私は西園寺のメイド服に目をやる。細部を見ても、縫合はきちんとしておるし粗も見えぬ。コスプレなどという文化には疎い私だが、この服のクオリティが平均以上の上質なものであることくらいはわかるぞ。コヤツはその情熱があるなら、なぜそれを自分を磨くことに使わぬのであろうか。

 私が溜息を吐いたとき、第二書庫の戸ががらりと開き、その瞬間パッとフラッシュが光る。振り返れば、大がかりなカメラを片手に、ひたすらストロボを光らせている男。

 読者諸君、紹介しよう。我が敬愛なる心の師匠、稲本竜平氏である。本日も貫禄のある体型に、眼鏡が良く似合っている。

「今日もいい仕事しているねぇアマギ!」

 先ほどから熱心に撮っているのは、メイド姿の西園寺であろう。「この特徴的な色合い、肩の処理、これは『俺のメイドは可愛くない』のヒロイン秋原由美モデルだねぇ?」

「……やめて、豚」

 連写する師匠のカメラを、天城はぱっと取り上げる。

「コスと美少女が汚れる。消えて。汚物。カワイくない」

「汚くて何が悪いんだよぉ。カワイイ男なんて、気持ち悪いじゃないかぁ。昔から、『かっこよさ』ステータスは男の方が百くらい低いんだよぉ」

「……男って、なんで存在しているのかしら」

「女の子を愛でるために決まってるじゃないかぁ」

 コヤツ言い切りおった!

「私は不覚にも感動してしまったぞ! がんばれ師匠。変態に負けるな!」

 天城と師匠が険悪な雰囲気で対峙していると、後ろから深いため息が聞こえてきた。見れば愛しき従妹が肩を震わせている。

「……隼、わたしにはどちらも変な人に見えるわ」

「あんな崇高な紳士を捕まえて何を言う。たとえ変態だとしても、気高く高貴な精神を持ち、純粋なココロで女性を愛する、倫理に溢れる変態だ。二次元と三次元を混同し、女性でありながら女性に目を向けているド変態と一緒にされては困る」

「女性に無許可でカメラを構えて興奮しているのは、変態よ」

「ぬな」

 私は罵詈雑言を吐き散らし合っている師匠と天城に目をやる。うむ、脂汗をまき散らす師匠と、黒ポンチョの天城。どうにも暑苦しい姿である。私は穂波を連れ、部屋奥のソファに掛けた。介入は無駄だろう。

「二人とも、喧嘩はやめてくださいよ。ほらほらー、ここはみんなのアイドル、美月ちゃんに免じて刀を納めておくんなせえ!」

 おどけた調子でポンチョと脂汗の間に入るメイド。シュールな図である。

「くっ、ミヅキちゃん、そういうわけにもいかないんだぁ」

「……下がって、みっちゃん」

「わかりましたーっ! それでは!」

 西園寺はテコテコとソファに駆けて来た。

「君は少々諦めが早過ぎではなかろうか?」

「一応仲裁しようとした気概を認めてください。その上で、西園寺は戦況の悪化をいち早く見抜くのです。西園寺、賢将ですので」

「ああ、賢い賢い」

 私がメイドの頭をぽこぽこ撫でてやっている向こう側で、天城と師匠はぎりぎりと睨み合っている。

「だいたいキミは軽率なんだよぉ。こんなところでミヅキちゃんを着替えさせるなんて配慮が足りないとは思わないのかぁい?」

「そんなこと考えてある。鍵掛けたし、カーテンも閉めた」

「ふぅん、そぉ。キミはいつもコスプレを作ってるけど甘いんだよぉ。服は確かにいいものだと思うけどぉ、それを着せる子を選ばなきゃ駄目だろぉ? 服飾スキルばっかり高くても、コーディネートスキルが足りないんだよぉ」

「いちいちゲームっぽく言うのやめて?」

「だからねぇ、秋原モデルのメイド服をミヅキちゃんに着せるなんて大間違いなんだよぉ。秋原が貧乳キャラなのにぃ、ミヅキちゃんのおっぱいじゃデカ過ぎて全然別人じゃないかぁ」

「ロリキャラなんだから、みっちゃんが秋原モデルなのは順当よ」

「いいやこれは譲れないねぇ。むしろホナミちゃんにでも着せれば良かったんだよぉ。そうすればおっぱい的な意味でかんぺアペァー」

 飛び出していた穂波の正拳突きがみぞおちに決まり、師匠は脂汗をまき散らしながら飛んで行った。嗚呼、師匠。あなたの勇姿は、この牧野隼がしかと見届けましたぞ。

「誰が貧乳よ! どーせわたしは西園寺さんとは比べ物にならないような胸よ!」

 穂波、断じて君は貧乳では無いと思うぞ。BだかCだかと言っていただろうが。今回は、単に比較対象が悪かっただけだ。それに何を言っても、今の師匠には聞こえていなかろう。頭を冷蔵庫で打ったらしく、彼はぴくりとも動かない。

「……汚物の言うことなんて気にしちゃ駄目。さあ、邪魔も無くなったことだし、ほなちゃんもメイド服着よう?」

「結構です!」

 ポンチョが従妹に迫っているが、私は止められる気がしない。がんばれ、穂波。君ならばこの窮地を切り抜けられるはずだ。

 心中でほんのり祈っていると、ソファの隣に西園寺が腰を下ろした。やわらかな素材のソファは、彼女の小さな尻をもふっと呑みこんでしまう。

「そう言えば牧野さん、まだ感想を聞いていませんよ? どうですか、西園寺のメイド服は?」

「黒と白だな。パンダやペンギンに通じる色合いだ。実に可愛らしい」

 適当な事を言ってやると、彼女はわざとらしく頬を膨らませる。

「すまない、そう膨れるな。素直に評せば、本職と言われても通じると思うぞ。金を取れるレベルやもしれぬな。うむ、実によく似合っている」

「えへへ、褒めても愛しか出ませんよ?」

「はいはい、それは有り難き幸せだ」

 軽口を叩きながら、私は立ち上がった。

 この部屋は、両側に本棚が並び、入口の対面に大窓があるという環境である。その中央部には長いデスクがあり、ゼミ生はここで空き時間を潰すことが多い。と、そこで私は目当てのものに目を留めた。鞄である。ディスイズマイカバン。

「ああ、やはりここに忘れていたらしいな」

 昨晩、私はこの鞄を忘れて帰ってしまったのである。しかしそう呟くと、西園寺が妙な顔をした。

「え? 牧野さん、今日いちばんで来てたんじゃないんですか?」

「は?」

 何を言っておるのだ、コヤツは。私と穂波は顔を見合わせ、同時に首を傾げた。

「私は今日初めてここに来たのだぞ」

「あれ? 今朝西園寺が着たときには、既に鍵が開いてたんです。中に入ったら牧野さんの鞄があったから、鍵を開けたのも牧野さんだろうなーと思ってたんですけど」

「フムゥ? 天城が開けたのではないかね」

「天城さんは西園寺よりも後から来ましたが」

 なんだか話がおかしいぞ。

「やっぱり天城が先に来ていたのではないか?」

「……あたしが来たときには、もうみっちゃんがいた」

 ウワッと思えば、先ほどまで騒いでいた天城が話に混ざっていた。この妖怪変化め、人のことを汚物扱いする癖に、都合のよいときだけ寄ってくるから困る。その後ろで、穂波も神妙な顔をしていた。

「もちろんわたしは、寝起きからずっと隼と一緒だったから違うわよ?」

「左様。しかし、それではいったい誰が鍵を開けたのだ」

 我々はううむと首を傾げた。そのときである。

「まあ待つんだ、諸君」

 部屋の奥より、鼻がかった渋い声が響いた。我々がハッとしてそちらを見れば、窓際の安楽椅子に掛け腕を組み、中年のオジサマがにこりと笑っている。

「これは、ミステリだよ」

 大林康介教授、いらっしゃったんですね!

「……教授、ミステリーではなく、あなたが最初に来ただけではありませんか」

 すかさず穂波が指摘すると、大林康介教授は窓の外に目をやり、フフフと含み笑いをした。まあ状況から見て、それが真相であろう。大林康介教授は鍵を開け第二書庫に初めからいたのである。それに気付かなかった西園寺が、私の忘れた鞄を見つけ、鍵を開けたのが私であると勘違いしたということだ。さすがは日頃失踪やら消失やらを扱うミステリ作家、気配の消し方が神がかっているということなのだろうか。いや、いくらなんでもそれは世のミステリ作家に失礼な気がする。ともかく、これで問題は解決か。

 ……いや、少々待てよ?

 私がその事実に思い至る前に、既に天城が飛び出していた。彼女は恐れ多くも、日本を代表する推理作家の後頭部を蹴り飛ばし、その直後「逃げろみっちゃん」と西園寺を連れて部室を飛び出していった。あっけにとられている私の袖を、穂波がちょんちょんと引く。

「……事態についていけないんだけど、何があったのかしら?」

「わからぬのか、君は。西園寺があの扮装に着替えたのはいつだ? その間、大林康介教授はどこにいらっしゃった?」

 親愛なる妹はしばらく考え込み、やがてぱっと怒りの形相に変わった。。

「西園寺さんは教授の目の前で着替えてた……ってことじゃないの!」

「左様。気づかない連中も連中だが、もちろん罪があるのは黙っていた大林康介教授である」

「隼、そこをどきなさい! わたしも一発殴ってやる!」

「気絶するレヴェルの蹴りを喰らっていればもういいだろう! これ以上鞭打ってやるな!」

 飛び出そうとする穂波の肩を掴み、必死に押さえる。

「しかし……。何だね、この状況は」

 あちらを見れば冷蔵庫に頭をぶつけ昏倒している気高き変態。こちらを見れば窓辺でうつぶせに倒れている推理小説家。死屍累々とはこのことである。天城、扮装や髪はもういい。それを除いても、君はもう少し女の子らしくすべきだと思う。

「穂波、ちょっといいかね。天城の蹴りを見て思うところは無かったか? 女の子があんまり暴力振るっちゃ駄目なのである。そんなことでは男性に見捨てらるるぞ」

 我がお姫様は不満そうな顔をしていたが、やがておもむろにソファに掛けた。

「どうせわたしは暴力女なのよ……」

「自棄になるのはまだ早いぞ。今からでも遅くない、しとやかな淑女を目指すのだ」

 そんなことを話していると、どたどたどた、凄まじい足音が戻ってきた。ぴしゃんと開かれた戸から、西園寺が再び転がり込んでくる。

「どうした西園寺。鞄でも忘れたかね」

「違いますよっ! 見てわかりませんか?」

 見てわかることなのか? フムゥ。私は彼女をじっと見て、すぐに気づいた。

「ああ、服か」

「そうですよー。さすがの西園寺も、メイド服で大学を歩く勇気はありません」

「可愛いのだから恥じることもあるまいに。我らがアイドルなのであろう?」

「アイドルはステージ衣装で外を歩かないですよね。そういうものなのです」

 犬耳ヘアをぴょこぴょこと動かし抗弁する西園寺。見るたびに思うが、その髪はいったいどういう理屈で動いているのだろう。考えても無駄な気はするが。

「隼、西園寺さんが着替えるんだから出なさい」

 変態と推理作家もろとも、私は第二書庫を叩き出された。だから穂波、暴力はよろしくないと言っておろうが。私は気絶した紳士どもの前で、懐中時計を取り出した。

「穂波!」

 書庫の戸は薄い。私の声も十分届くはずだ。

「それが終わったら出てきたまえ。次の作戦の準備に入る」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 その二時間後、私と穂波の姿は学生食堂にあった。我らは昼食の注文をするでもなく、ただ無為に席を占拠しておる形だ。昼時にはごった返し席を取るのが難しくなるほどの戦場だそうだが、今はまだ十一時半、講義中である。そのため、食堂では勉強をする者、駄弁る者やゲームをする者など、実に様々な利用が為されている。かといって、我々の目的は食事であった。ただ現時点では頼んでいないだけに過ぎん。メインゲストが来ぬうちに食事を始めているわけにはいかんであろう。

「いいかね、穂波」

 私は身を乗り出し、対面の従妹に声を掛ける。「今回の作戦を再確認するぞ。今回の目的は『ファーストコンタクト』。それ以上でもなければ、以下でも無い」

 穂波はこくんと頷いた。さすがに緊張しているのだろう、既に耳は真っ赤である。

「これより十数分後、二時限目が終われば滝沢がここにおいでなする。先ほど私がメールで呼び出しておいたからな。先方の承諾は受諾済みだ。そこで私は君を紹介する。君は今朝の衝突事故を謝罪し、そこから君たちは会話を続ければ良いと言う寸法だ」

 雰囲気の如何によっては私は途中で離席することも企んでおる。後は若い二人で、という奴だ。しかしまあ、初対面でそこまで打ち解けるのは難しいだろう。特に、この二人の場合は。

 穂波はこれで案外人見知りなところがある。見知らぬ人と話すときなど、いつも私の後ろに隠れてしまうのが常であった。今では流石にそんなことはしないものの、精神的には似たような状態であろう。

 また滝沢も、私と初めて話したときには非常に緊張して愉快なことになっておった。大学のガイダンスで隣り合い、私が声を掛けたのがきっかけで縁ができたのだが、初めはともかくどもり、一人称が安定せず、挙動不審であったのだ。出会って二月経ち、ようやく安定してきたところである。

 つまり、だ。この二人が初対面で打ち解ける可能性など、万に一つもありはしない。ではどうするかと言えば、ここで私の手腕が問われるわけだ。

「いいか、穂波。滝沢はいわゆるマニアである。古書の蒐集に身をやつし、百人一首や和歌を丸暗記、古文書をすらすらと読み解く変態である」

「稲本や大林教授に比べれば、マシなんじゃないかしら」

 ふ、恋は盲目と言う奴か。おっぱい好きの変態も、古文書好きの変態も、大差は無いであろう。好きという気持ちに貴賎は無い。

「まあ良い。とどのつまり、君に求めることはただ一つ。『問うこと』。それだけだ」

 突然だが諸君、定義しよう。おたくとは得てして露出魔である。

 彼らは自分の世界に留まっていられない、否、留まっていられるような者は真のおたくとは言えぬナニモノカである。本物の勇者は、自らが周知さるることを望む。自らの嗜好を、趣味を、変態性を前面に出したいと願う。そしてあわよくば、己を理解してくれる者を求めている。興味を示す同胞を求めている。

 その様はまさに露出魔にふさわしい生態と言えよう。

 そんな彼らから好意を引き出すにはどうすれば良いであろうか? 愚問である。彼らに興味を示せば良いのだ。その表明として、手っ取り早いのは質疑を掛けることである。彼らは妙に勘が鋭く、単なる同調ではあっという間に見抜かれてしまうこと請け合いだ。「そうなんだ」「すごいねえ」などと称賛を受け喜ぶ露出魔などいない。「それってどういうことなの?」「教えてほしい」という言葉こそ、露出魔にとって至極の言なのである。

「君はともかく彼の話を聞き、適度に質問をするのだ。近頃は源氏物語が再びマイブームだそうな。そこで君の中途半端な知識を元に、彼から話を聞きだすこと、これがベストなのだ」

「本当に、そんなので上手くいくのかしら?」

 穂波は鼻の頭をちょこちょこと掻いている。

「もちろん、二時間缶詰めで読み通しだったけど、もううろ覚えよ。ええと、化けて出たのが紫の上だったかしら?」

「否、生霊と化した未亡人は六条御息所だ。紫の上は幼女である」

 この二時間、我々はただ無駄に過ごしていたわけではない。図書室で源氏物語を探し、司書に問い貸し出し中であることがわかり、第一書庫にある古い訳の書を借りると、穂波に一気に読ませたのである。

「案ずるな。そういった俄か知識を出せば、滝沢は必ず懇切丁寧な解説をくれるはずだ」

 そんなことを言っている間に、学生食堂にはひたひたと学生が集まりつつあった。二時限目が終わったのであろう。人混みの中、滝沢もやおら姿を現した。私が手をぷらぷらと振れば、彼もこちらに気づいたようである。滝沢はこちらに駆けてきた。……こうやって改めて向きあうと、こやつ案外肩幅が狭い。まあそんなことはどうでも良いな。

「お待たせ、牧野くん。それと」彼は穂波ににっこりと微笑みかける。「雪村さん、だったね」

 こりゃあ穂波が惚れるわけである。笑顔が美しい男なぞ、コヤツの他に見たことが無い。

「本日は弁当を作り忘れてしまったのである。雪村も同席してよろしいかね?」

「構わないよ」

 ちらりと目を向ければ、我が親愛なる従妹は緊張に身体をこわばらせておる。しかし、耳は赤くなくなっておるな……フムゥ、流石に覚悟は決めたということだろうか。

「あ、あの」

 穂波は消え入りそうな声である。

「……今朝は悪かったわ」

 滝沢はきらりと笑った。ああ、後ろに白い花が咲き乱れているような錯覚が。

「いいんだよ。わた……じゃなくって、ボクも不注意だったんだし。お互い、気をつけていこうね、ということでこの件は納めようよ?」

 これが王子様というやつであろうか。穂波もこくこくと頷いているが……むう。何だろう、何か違和感がある。何かがおかしい。それが何だかわからぬまま、我々は食事を注文しに行った。そして席に戻り、私はさりげなく席をずらす。すると、滝沢は穂波の正面に掛けることになるわけだ。

 食前の挨拶を済ませ、私はカツ丼をほおばり出した。ほれ、私は食うことに集中しておるぞ。自然に相手に話を振るなら今である。イザユケ穂波よ!「隼から聞いたけど、源氏物語に興味があるそうね」などと話題を振るのだ!

 嗚呼しかし、またも、この根性無しが! 何をびびっておる。口をぱくぱくとさせ、何か話し始めようとはしているものの、声になっていない。全くこの愚か者めが。やはりここは頼れる従兄たる私が素晴らしきサポートを見せてくれる必要がありそうだな。しばし待たれよ、我が姫。まずはこのカツを飲みこまねば。

 だが、私がむぐむぐと租借をしていたときである。話を始めたのは、滝沢であった。

「雪村さんは、牧野くんと同居してるんだったよね」

 相変わらず、咲き乱れる花を背負いながら滝沢は微笑む。「牧野くんから聞いてるよ。確か、裁縫が得意なんだってね?」

「得意、という程でも無いわ。生活の中で出来るようになっただけよ」

「羨ましいなあ。牧野くんに見せてもらったよ、キーホルダーのカエルのマスコット。わ……ボクも裁縫好きなんだけど、あんな風にうまく出来ないよ」

「別に、大したことじゃないわ」

「いやいや、もっと自信を持ってもいいと思うよ。牧野くん、キミが作ってくれたマスコットをことあることに自慢して来るんだから。『我が素晴らしき従妹の作品だ。どうだ可愛いだろう美しいだろう愛を感じるだろう』とか言ってね」

 私はブホォと茶を噴き出した。友の肩をごつんと小突く。

「突然何を言う馬鹿者。末恐ろしい奴め、恥ずかしいであろう」

「いいじゃあないか」

 飄々と言ってのける滝沢。おお、穂波の耳は既に真っ赤である。

 というか、先ほどからの違和感の正体がわかった。滝沢が妙に饒舌なのである。いつの間に人見知りが治ったんだコヤツは。私と初対面のときに比べ、随分な対応の差ではないか。何だ、婦女子相手となれば途端に舌がよく回るようになるわけかね? 意外である。コヤツそういう浮ついた人物だったろうか。

 彼が想定外に饒舌だったのに加え、もう一つ計算違いがあった。

 私と滝沢が初め出会ったときには、共通の話題を見つけるまでに随分苦労した。それぞれの趣味を小出しに披露しあい、その最中私が軽く質問をしてしまったばかりに古文書の話を延々と講釈されたのである。

 しかし、穂波と滝沢の間であれば、そんな必要は無い。何しろ、日頃私が話しているために、滝沢は穂波のことをよく心得ているのである。

「裁縫が趣味と言うなら、滝沢は何を作るの?」

「最近はあみぐるみに挑戦しているんだけど、これがなかなかうまくいかないんだよね。写真、見るかい?」

 携帯電話を取り出し、穂波に差し出す友。穂波は「ああ」と小さく頷いた。

「目の数を間違えたのね。始めたばっかりなの?」

「うん、第二号だよ。第一号はこちら」

「これはひどいわね。それだけ、第二号ではかなり進歩したのがわかるわ。編み物は慣れだから、数を作ればどんどんうまくなっていくわよ」

 ……なあ、読者諸君。私はどうしたものなのだろうか。何だか全く話に入れないのだが。穂波も自分の趣味範囲に来たので表情が和らいできているし、滝沢はフォローする必要も無く会話を続けて行く。実に楽しげにあみぐるみやらマスコットの話、そこから進んで家事の話、料理の話などに話題が広がっている。ああ、わかっておるさ。ファーストコンタクトは上手くいったのである。少々予定と異なったものの、大成功と言っていいだろう。

 しかし何だか納得がいかぬ。私はさっぱり蚊帳の外ではないか。ええいもういい。私はカツ丼をたいらげ、席を立った。

「あ、牧野くん。もう行くのかい?」

 にこやかな笑顔のまま、滝沢がこちらを振り向く。うっ、眩しいぞ。

「少々野暮用があるのだ。まだ昼休みは長いのだし、君たちは話を続けて行くといいだろう」

 私はそう言って、食器を返却するとさっさと食堂を出た。むむむ、非常に納得がいかない。

 

 というか滝沢。君に裁縫の趣味があったなんて初耳なのだが、どういうことかね。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 その晩。

 私は穂波の部屋に入ろうとし、ノブを回してから注意を思い出した。寸でのところで、ノックをする。

「入っていいわよ」

 短く一言、しかし明るい声に招かれ、私は従妹の部屋に入る。我が愛しきお姫様は、ベッドの上でぬいぐるみを抱き、にこにこと実に上機嫌な様子である。あれからずっとこんな調子だ。確かにあれほど想い人と話がはずめば、機嫌もよくなって然るべきであろう。

「どうだったね、滝沢は。実に良い奴だと思わんかね」

「そうね。全然変じゃなくて、拍子抜けだったわ」

 私は彼女の隣、ベッドにとんと掛けた。

「それで、報告を聞かせてもらおうか。いったいどんな話をしたのだね」

「そうね、裁縫の話、料理の話。映画の話に小説の話。あと、貴方が行った後は貴方の話」

 む?

「……ちょっと待て」私は嫌な予感がした。「どういうことだ。詳しく説明したまえ」

「ふふっ」

「こら、笑って誤魔化せると思うなよ」

 よほど談話が楽しかったと見える。穂波は満開の笑みで話を続けた。

「隼、滝沢に結構家のこと話してるのね。おじさんの話とか、わたしの話とか」

「ぬな」

「色々と聞かせてもらったわ」

 やはりそういうことか!

「外食をするたびに言うこと。『穂波の飯に比べれば劣るな。否、ここの料理をけなしているわけではないのだ。彼女の料理が素晴らしすぎるだけである』」

「待て待て待て待て、冷静に話し合おう!」

「出かけるたびに言うこと。『この美しい景色、我が従妹にも見せてやりたい』」

「やめてくれ! 顔から火が出そうに恥ずかしい!」

「テレビでホラー映画を見たとき。必ず寝れなくなって、結局わたしと一緒に寝ていること」

「もう限界だ勘弁してくれえ!……いやちょっと待て、それは君の知っていることであろう」

「ええ。滝沢、大笑いしてたわよ?」

 ぎゃああああああああ! 天国の母よ、この悪魔どもから我を守りたまえ! ひとの恥ずかしい一面を暴露しあうとは何たる悪趣味! 何たる暴虐! 午後の講義中、滝沢が妙な半笑いでこちらを見ていたかと思ったらそういうことか!

「貴様、とんでもないことをしてくれたな……。明日から滝沢とどんな顔をして会えと言うのだ……!」

「ふふふっ」

「だから笑って誤魔化せると思うなよ!」

 怒る私に対し、にへらと相好を崩す穂波。……ええい、可愛いなぁ。私はどうにも感情がそがれ、大息を吐いた。従妹の両頬をぷにりと引っ張る。

「ふぁにふんの」

「君が恋路を爆進するのは構わないが、私のプライバシーを侵害するのはやめてくれたまえ」

「ふぁはっはわお」

 私はもう一度嘆息し、彼女の頬から手を離した。

「あ、そうだ隼。明日の帰り、滝沢と手芸店に寄っていくことにしたの」

「……何だと?」

 既に一緒に買い物に行くまでに関係を深めただと? あなどれん奴め、滝沢。何だその手の早さは。私がもやもやとした気持ちになっておる中、穂波はにこにこと話を続けて行く。

「福追駅前の手芸店。隼も一緒に行ったことあるでしょう? あそこに毛糸を探しに行くの。滝沢、あの店行ったこと無いらしいから」

「そ……そうか」

「でも、ええと」穂波は少々言葉に詰まり、やがて窓の向こうに目をやった。

「……いきなり二人で出掛けるのは、その……良くないわ。だから隼、一緒についてきてくれないかしら」

 なんだか不自然な発音だな。まるで原稿を棒読みする新人俳優かのようだぞ。オデカケが嬉しいのはわかったから少し落ち着きたまえ。

「一緒について行くって、三人で手芸店に行くということかね」

 それは穂波の頼みとは言え、少々厳しいものがあるなあ。本日の昼の如く、私は単なる蚊帳の外になってしまう可能性がある。お二人はさぞ楽しかろうが、私は話に混じることも出来ずにひどく寂しい思いをするのだぞ。

 しかし、我が従妹はそれを求めたわけではないらしい。ふるふると首を振る。

「……わたしたちを、尾行して欲しいの」

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