第三章 初仕事は苺摘み
その日は快晴でした。
支給されたリュックを背負い、あなたは宿を出ます。何の気なく振り返れば、木目の目立つ壁にふんわりとした緑色の屋根。昨日飛び込んだときには気づけませんでしたが、なかなかおしゃれな建物でした。
「ベル、待ってー」
パンの籠を返していたクラリスが、ぱたぱたと追ってきます。先ほどの格好に、同系色のトレンチコートを羽織っている姿でした。
――――どうせ一人で外になんて行けないよ。
あなたの装備は、軽傷用の応急処置と、小ぶりなジャックナイフ一本だけなのです。まともに巨獣とやりあえるわけがありません。一方、白髪少女は昨日と同じ細剣を腰に下げています。これが、自分たち二人の命を握っているといっても過言ではないでしょう。
と、そこでクラリスは首をかしげます。
「ん? 昨日、よく眠れなかった?」
――――どうして?
「いや、なんか疲れてるように見えたから」
命を賭けるように森を駆けた昨日。たしかに疲れていないことはありません。しかしそれだけではなく、
――――へんな夢を見たんだ。
あなたは昨日見た夢をクラリスに話しました。
「ベルの記憶、かな……。でも、この辺りで大きな火事があったとは聞いてないけど……」
しばらく逡巡しますが、やはり何も分からなかったらしく、苦笑を見せました。
「ま、考えてても仕方ないか。また夢を見たら教えてね。記憶を取り戻す手がかりになるだろうから」
――――うん。
あなたは一つ頷きます。
「それじゃ、出発しよっか。戦闘はぼくが担当するから、ベルは荷物をお願いね」
――――言われなくても、そのつもりだ。
「苺摘みって聞いて拍子抜けしたかもしれないけど、これはなかなか大変なんだからね。舐めてかかっちゃ、ダメだよ。一か所に留まるのは、何に襲われるかわかんないし。注意してね」
あなたはリュックを握り、前に向き直りました。
ロー……薄い霧が壁のように立ち上っています。向こう側の様子が十分見えるほどでした。日の光さえ遮らぬこの霧が、恐ろしい危険を防いでいるのです。
――――この先は、外界だ。
あなたはごくりと唾を呑みました。
「よーし、じゃあ苺摘みに出発だ」
◆ ◆ ◆
「モリイチゴは、開けたところに生えるんだよ。広場のようになっているところを探そっか」
その言葉に従い、数時間が過ぎました。モリイチゴは一向に見つかりません。あなたは一つ、気になっていたことを問うてみることにしました。
――――クラリス、聞きたいことがある。
「なーにー?」
――――クラリスは、どうしてアウトローをやっているんだ?
先ほど宿屋で見た限りでは、アウトローは大人ばかりでした。クラリスはどう見ても十代の半ば、あまりにも若すぎます。
――――まあ、言いにくいことならいいんだが。
「別にそんなことも無いよ?」
にこっと微笑み、クラリスは首元に手をやりました。彼女が首に下げていたのは……小さな、ガラスポットです。透明なポットの中には、さらさらと流れる砂のようなものが見えますね。
――――綺麗だな。これは?
「ぼくの母さんの遺骨」
少女はさらりと言ってのけました。
「劣筋病って知ってる? 体中の筋肉が弱って、全身が動かなくなっていく奇病なんだって。最初は足が、次に腕が、一年くらい経つと、心臓まで止まってしまう病気なの」
――――お母さんは、その病気で?
「うん。でも最悪なのはそのときのラルフゲルド……父さんの行動。ラルフゲルドは新しい遺跡が発見されたのを聞いて、母さんが死にかけているっていうのにコルウスの町にあるっていう遺跡に発掘しに飛び出して行ったの。しかも、その遺跡で死んじゃったんだよ、ありえないひとでしょ?」
サイドポニーを一振りし、クラリスは苦笑します。軽い口調でしたが、あなたには少女が無理をしているようにしか思えませんでした。耐えきれないほどの憤りが、彼女の背に見えるようでした。
「余命半年ほどの母さんは、自分が死ぬ前に夫を亡くしてしまったの。それなのに、母さんは最期までラルフゲルドのことを呼んでた。『クラリス、父さんを怨んじゃだめだよ。父さんは自分の信念を貫いたんだから。あなたも父さんのように、自分の正義を持ちなさい』……そう言って、母さんは死んだ。自分の骨を、ラルフゲルドの死んだ遺跡に散骨するよう言い残して」
――――その遺言を果たすために、遺跡を探しているのか。
「うん。……まあ正直なところ、母さんをラルフゲルドのとこになんか、行かせたくないけど……、母さんの、最期のお願いだから」
クラリスの笑みがとうとう消えました。あなたは次に何を言えばよいのか逡巡していると、先にクラリスが言葉を繋げました。
「あー、あとね。遺跡の場所を探してアウトローをやってるわけではないの。場所は分かってるんだ。ただね、簡単には入れないの。遺跡には魔法に関わる貴重なものがたくさん置いてあるから、一般人の立ち入りは禁じられてる」
――――何かの認可を得なければいけない、と?
「そう。アウトローといっても、きちんと組合があってね。そこに登録するのが第一だし、ただ登録しただけじゃなくて一定の成果を上げて『上位』って資格を取らなきゃ、遺跡調査になんか行かせてもらえないの」
そこで少女は肩をすくめます。
「ただ、アウトロー組合は個人単位じゃ登録できなくてね。最低三人以上でチームを作らないといけない。道はまだまだ長いんだ」
――――そういうことだったのか。
あなたは一つ息を吐き、クラリスに向き合いました。
――――自分も、協力しよう。記憶は無いが、少しは力になれるかもしれない。
「ありがと、ベル。そう言ってくれると、嬉しいよ」
クラリスは照れくさそうに微笑みます。
「さあ、じゃあモリイチゴ探し、がんばろっか!」
◆ ◆ ◆
通算十五か所目の広場の一角で、ついに赤い茂みは見つかりました。
「あ、これだよ、モリイチゴ!」
親指ほどの小さな実が、膝の高さに群生しています。籠がいっぱいになるほどの数はありそうですね。
「ああよかったー。これで仕事は終わりだよ」
拍子抜けするくらいにあっさりとした終わりでした。危険な職と聞かされていましたが、全部が全部危険ということではないようです。
安堵してクラリスに笑みを返していたあなたですが、安心するには早すぎました。
あなたがモリイチゴを摘もうとしたとき、モリイチゴが生っているさらに奥を見やると、何か違和感を覚えるものが目に映りました。最初は何か解りませんでしたが、それは徐々にあなたの記憶のあるものと合致しました。
……死体です!
既に絶命しているであろう者の体が、うつ伏せになって倒されていたのです。背格好からして男性のようですが、それ以外、その人物の特徴を指し示すものは見つけることができませんでした。見るに堪えない惨状から、背けることさえ忘れ、あなたは目まいに襲われるまでの間、凝視してしまいました。
男の傍には男の荷物であろう鞄が引き裂かれ、中から本が数冊地面に投げ出されておりました。そして肉体そのものも散乱しています。この人物を殺したのは誰か。いや、何か、でしょうか。その正体を考える意味は無いでしょう。
あなたは急いでクラリスに伝えようとしましたが、その必要は一瞬で無くなりました。
広場の中心の地面が、大きく盛り上がります。その隆起は一瞬で破裂し、あなたの上背の倍はあろう、巨大なモグラが姿を現したのです!
苺摘みを行なっていたクラリスの方へ体を向けるや否や、籠があなたの胸元に押し付けられました。
「ベルっ、苺はお願い!」
クラリスは双剣を抜くと、両の剣を体の右側で平行になるように構えてとびかかります。低い姿勢から二閃の斬撃を、通り過ぎざまにモグラの胴体目がけて放ちました。相手はまだ臨戦態勢が取れていなかったのか、攻撃は何の妨害も受けることなく、穴から出てきたばかりの胴体に傷を与えることができました。
しかし、傷は決して深くありません。あなたは昨日の猛牛との交戦を思い出し、わずかながら絶望しました。が、
「ふっ!」
クラリスは動じることなく次の行動に出ていました。
振り抜いたことで己の左側に揃えられた剣を、右、左、の順でモグラの背に向けて放ち、その剣を振るった勢いのままに回転し、同じ個所に斬撃を浴びせました。
初撃こそ一切の反応を見せなかったモグラ。しかし連撃には耐えきれず、鈍重で腹に響くような声をあげました。悲鳴でしょうか、それとも怒りを現したものなのでしょうか。何にせよ、あの巨体相手にダメージが見られたのです。
しかし、吼えた獣が本格的に襲いかかってくると、どうなるかはわかりません。
モグラの両手は鋭利な鉤爪で出来ています。あれで地中を泳ぐように移動するのでしょう。そして、それは時には強大な武器ともなるのです。
背後にいたクラリスへと鉤爪が横薙ぎに放たれました。見た目に反してその速度は高く、風を生むほどの攻撃でしたが、双剣士には及びませんでした。真っ白なサイドポニーは鉤爪の届く射程範囲から紙一重で飛び退き、間髪いれず距離を詰めます。そして、横に薙いだことで向けられた胴体の正面、先程クラリスが初撃を与えた個所に双剣を猛牛の突進のようにして突き刺し、両腕を開く形で一気に斬り広げました。
またもやモグラから声があがります。
そして今度は叩きつけるように上段から両の鉤爪が襲ってきます。しかし、クラリスはこれもまたは飛び退くことで回避しておりました。モグラが攻撃の動作に入る時点で、既に膝を曲げてバネとしておりましたから、さほどギリギリということもありません。
敵に隙が出来るのは想定していたのでしょう、クラリスは追撃に走ります。しかし、次なる相手の行動は彼女の予想を裏切るものでした。
モグラは地中へ引き返してしまったのです。
――――追い払うことができたのか?
あなたの考えは、間違いでした。
クラリスの両側の足場が盛り上がり、鉤爪が天を目指して突き出してきたのです。行く手を阻まれたクラリスは、がっちりと足を掴まれてしまいました。『シールド』の防御は効いているでしょうが、これでは身動きができません。そして、次に姿を見せたのはモグラの鼻先でした。クラリスの真下から飛び出したそれは、勢いをつけ、彼女に襲いかかります!
「ぅわっ!」
双剣を十字に構えて防御をしたものの、クラリスの小柄な体は宙へと放り出されてしまいました。空中で身動きの取れないクラリス。その好機を逃すモグラではありません。
モグラは一度鉤爪を地面の高さまで下げ、身を捻りながらクラリスの体を横から弾き飛ばしたのです!
あなたは思わず彼女の名を叫びました。
クラリスは切り裂かれはしなかったものの、もろに打撃をその身に受けてしまい、まるでおもちゃのように飛ばされ、木に身体を打ちつけられました。どこから突っ込んだのかさえ分からない衝撃でした。
とっさに駆け寄ろうとしたあなたに、一つの声が投げかけられます。
「大丈夫!」
クラリスは何事も無かったように立ち上がり、再びモグラに向かっていきます。あなたは一瞬、目を疑いましたが、彼女のポケットから覗くものを見て、状況を理解しました。
――――そうか、『シールド』か!
ポケットから覗いていたのは、黒表紙の魔法書です。防御の魔法は何の問題も無く、彼女の身体を守ってくれているようでした。なんだ、心配する必要もありません。その性能をあなたは昨日身を持って実感しているのですから。
モグラは鉤爪をぶんぶんと振り回していますが、クラリスはまるで舞踏でも行なっているのように華麗にかわし、着実にモグラを突き刺し、斬り裂いていきます。その後ろで、あなたはモリイチゴを摘むことに意識を集中させることにしました。
クラリスは善戦していますが、現実、モグラの傷はかなり浅いようです。このまま倒す前に、おそらく相棒の体力は切れてしまうでしょう。それを防ぐには、早く摘み切り、ここから逃げるしかありません。あなたは焦って苺を摘みますが、小さな苺はなかなか籠を満たしてくれません。
「ベル、まだまだ……なんとかなるよ! 急ぐことないから、落ち着いて!」
クラリスが叫びました。焦らせないように、気を遣ってくれているのです。
――――この状況で、よくそんな余裕があるものだ。しかし体力がもつなら、この一方的な状況だ。当たらなければ大丈夫だし、当たっても大丈夫だ。
そう考えたあなたはまだまだ甘いのでした。
シールドは魔力の防壁を作り出す魔法です。その防護力は魔力に根ざしている以上、無限に存在し続けることはできません。すなわり……いずれは、割れるのです。
「きゃっ!」
短い悲鳴と破砕音に顔を上げたあなたが見たのは、血をまき散らしながら吹き飛んでいくクラリスの姿でした。木に叩きつけられ、ようやく立ち上がったクラリスの腹と脚には、大きく爪の痕がついています。打ち身の痛みもありましょう。もはや飛び回る高速戦闘は到底不可能に思われました。
――――クラリス!
「大丈夫だよ、シールドが割れただけだから!」
はいそうですか、と安心できるような状況ではありません。爪はどうやらかすっただけらしく、見た目ほど傷は深くないようです。しかし、もう彼女にシールドの加護はありません。つまり、これから彼女がその身に受けるダメージは、全てが彼女に傷を負わせるものとなるのです。
――――そんなの、ダメだ。
気づけば、あなたは駆け出していました。己に何が出来るのか、それは分かりません。ただ、駆け出さずにいられませんでした。あなたはとっさに手に持っていた籠をモグラへと投げつけます。もったいないという思いは僅かながらありましたが、命あっての物種です。
籠に反応したモグラが、あなたへと向き直りました。
――――クラリス、そこを離れて!
自分が注意をひきつけ、逃げる。それしか方法はありません。
クラリスが声を荒げて何事か叫んでおりましたが、その声はモグラが地を這い出る際の重低音に遮られてあなたには届きませんでした。
あなたはモグラに背を向けて駆け出します。
木々が薙ぎ倒される嫌な音が背中にぶつけられてきますが、あなたは振り向くことなく足を動かし続けます。いいえ、実際、振り向く余裕などないのです。距離など音だけで判断出来ます。振り向けば、きっと、逃げる気力など失せることでしょう。
――――?
ふと、空気が変わる気配がしました。断続的に背から受け続けていた圧が、消えたのです。あなたはその正体を確認するため、首を捻って後ろを見やります。あなたが思い描いていた光景は、巨獣が鉤爪を振り下ろす絶望的なものでしたが、それは外れでした。
何も、いませんでした。
そこには何もありませんでした。かわしてきた木々や蹴ってきた草地にも巨獣が通ることで生じる抉れた痕跡も見受けられません。ただ、遥か後方には巨大な岩でも引きずったかのような大地の傷が見えました。どういうことでしょう。戸惑いを覚えたあなたでしたが、思考はある点へと到達しました。
――――クラリスのところか!
引き返した。そう考えれば、途中で巨獣の通った跡が消えていたことも説明がつきます。最初からあのモグラはあなたを追い払うために追いかけまわしていただけなのでしょうか。そんなことを考えている余裕はありません。あなたは来た道を引き返します。
その背後で、モグラの咆哮が轟きました。
驚いたあなたは反射的に振り返ります。それを見た瞬間、あなたはぞっとしました。
大地が大きく捲れ上がり、破砕された草地がばらばらになって宙を舞っています。そして、その中心にいるのは、あのモグラです!
モグラは戻ったりしていなかったのです。考えてみればそう難しいことではありませんでした。あの巨獣は地中より現れました。つまりは地中での活動が基盤なのです。地を這う方がよっぽど移動に慣れていることでしょう。だから、そうしてあなたを追い詰めたのです。
そこまでのことを考える余裕はありませんでしたが、とにかくあなたは逃げることだけを考えました。地面が隆起したことで、足下が不安定となり、転びそうになりますが、何とか転ぶようなことはありませんでした。再三背を向け走り出します。先よりも近い距離で破砕音を感じました。
――――長くは、逃げられない。
そう思った時、あなたの脳裏に、先ほどの男性の死体が浮かびました。背筋が凍る思いです。あの男性も同じ思いをしたのか、そのようなことまで考えてしまうほど、あなたは追い詰められておりました。
しかし、記憶が連鎖し、ある一つのことを思い出しました。あなたは参っていた気持ちを無理矢理高め駆け出します。少し走れば目的の物が目に留まりました。
本です。
事切れた男の傍らに散乱していたのは、ただの本ではありませんでした。思い出したのです。あれは魔法書であると。ならば、武器となる可能性は十二分にあります。能力は未知数ですが、贅沢は言っていられません。
あなたは目についた黒塗りの冊子を転がるように拾いあげ、モグラの駆けるコースから外れるべく横へ転がるように跳びました。回る視界の中、男の死体が、散乱していた荷物と共に弾き飛ばされる様が目に映りました。あの様子だと、もう他の本は使えそうにありません。
あなたはモグラが体勢を整える前に急ぎ本を展開しました。
「エアー:起動型
対象を浮遊させる。対象を視界の中心に据え、表紙を打ち払うことで発動する。」
あなたはもう、躊躇いませんでした。
血で赤黒く染まったそれをぱたんと閉じ、何とか立ち上がります。モグラを睨みつけ、表紙に手をかけ、あなたは一つ息を吐きました。これで事態が打開できる保証はありません。しかし、やるしかないのです。
――――はらわねばならない。
あの夢で聞いた、自分自身のことば。
――――彼の者をはらわねばならない。
迫るモグラは、ちょうど視界の中心に。
あなたの右手は、魔法書の黒表紙を打ち払いました。
直後、モグラは、宙に舞い上がりました。まるで糸で引っ張られたかのように真っ直ぐとした浮上の仕方です。己の身に何が起きたのか把握できない巨獣は悲鳴を上げました。唖然とするあなたをよそに、巨獣は信じられない速度でぐんぐん高度を上げていきます。
「……まさか、これ、ベルが……?」
囁くように、相棒の声が背後から聞こえました。どうやらあなたのことを追いかけてきていたようです。あなたはろくに返事をすることもできず、ただ茫然としておりました。自分がやったと明言することができません。自信がないのです。これを自分がやったのだという、自信が。
やがて、重力を思い出したように、モグラは墜落しました。
大地を、木々をざわめかせる衝撃が、戦いの終わりを告げました。
◆ ◆ ◆
あなたがぺたんと座り込むとクラリスが駆け寄ってきました。
「大丈夫?」
――――ああ、何とか。
クラリスが差し出した手を取り、引っ張られると、いきなり視界が揺れます。心臓が飛び跳ねる思いをしたあなたが次に感じたのは両腕への痛みでした。何事かと驚くあなたの視界を支配していたのは少女の険しい表情です。痛みの発生源に目をやると、双剣士の細腕にがっしりと掴まれておりました。
「ねえ、さっきの魔法、君が使ったんだよね?」
とまどいながら、あなたはうなずきます。何か悪いことをしてしまったのでしょうか。
「魔法書は、どこで?」
――――あ、そうだ。
あなたはモリイチゴの群生地で見つけた死体のことをクラリスに話しました。
状況はあなたが発見した時よりも酷い有様となっておりました。当然でしょう。元より惨殺されていた死体が、モグラの突進に巻き込まれ、今では目も当てられない現状と成り果ててしまっているのです。あなたは赤く染められた森を見て、すっかり気分が悪くなっていました。あまりまじまじと見たいものではありません。
「たぶん巨獣に襲われたんだろうね」
しかしクラリスは平気そうです。慣れているのでしょうか。死体を一瞥すると、辺りに散乱している魔法書の方へ意識を向けてしまいました。本はどれもこれも傷みが酷く、まともに扱えそうなものは見当たりません。
「どうしてこんなに魔法書を持ち歩いてたんだろ……」
――――魔法使いだから、じゃないのか。いくら持っていてもおかしくはないと思うが。
「いや、おかしいよ。同時に複数の魔法書を発動させるのは、並みの魔法使いじゃ出来ないんだ。よっぽどの実力と才能がないと無理だよ」
彼が魔法に長けた人物であるだけではないかと、あなたは思いました。そう口に出して訊ねてみようかとも思いましたが、すんでのところで思いなおしました。
「気付いた? それだけの実力を持った魔法使いが、この辺りの巨獣に後れを取るとはとても思えない。もちろん、不意打ちされた、って言われたら、それまでなんだけどね」
――――でも、使い分けているという可能性は?
「それもないよ」
クラリスは散らばった本の中から二冊の本を取り上げ、片手に一冊ずつ持つと、あなたへと振り返りました。傷が酷いせいか違いがよく見えず、同じ本に見えます。
「この二冊はまるっきり同じ魔法書。他にも三冊以上被ってる魔法書もあった。予備にしたってさすがに持ちすぎだよ。これじゃむしろ邪魔になっちゃう」
クラリスは苦笑を浮かべながら破れた本を手放しました。
「この魔法書は、たぶん盗難品。最近この辺りで魔法書の盗難事件が多発してるって聞くし、彼が盗賊だっていうなら、同じ魔法書が大量にあるのも納得がいく。ここで死んでいるわけも、ね」
――――盗んだまでは良かったものの、逃げる途中で巨獣に襲われた、と。
「うん。……やっぱりさ、悪いことはできないね」
しみじみと呟く少女に、あなたはうなずくことしかできませんでした。
◆ ◆ ◆
潰れたモグラの死体を背に、あなたたちは苺摘みを再開しました。新手の登場がないとも限りませんが、それはいつ来ても変わらないとのことでした。確かに言われてみればそその通りです。あなたはクラリスの怪我が心配でしたが、あなたが苺摘みを終える頃には、いつの間にやら、自分で手当てを済ませておりました。応急処置ではありますが、手慣れたものです。こういう経験は一度や二度ではないのでしょう。
それは、彼女が一人で戦い続けてきた証なのです。
苺摘みの帰り道、クラリスは受け取った本を眺めて唸っていました。
「やっぱり、『エアー』だよね、この本……。物体を浮遊させる魔法なんだけど……おっかしいなー……」
彼女は本を開き、近くの石を見て魔法を発動させました。モグラの時のように派手な魔法とはならず、小石が数十舞い上がり地に落ちるだけでした。
「本来、エアーは戦闘用の魔法じゃないんだよ。それなのにベルは、エアーで巨獣を吹き飛ばした……。もしかすると、ベルってすごい魔法使いなんじゃないかな」
相棒は難しい顔をしようとしてかわいいことになっていますが、あなたはただ満足でした。
――――自分も、戦力になれる。
クラリスの返してくれた本を、大事に受け取ります。手には、籠いっぱいのモリイチゴ。相棒はにこにこ笑っていましたが、ふと思い出したように頬を膨らませます。
「でもね、ベル、もうあんな危ないことしないでよ?」
――――指示を無視したのは悪かったが、ああするしかなかっただろう。
「違うの。シールドはぼくが割ったんだよ」
――――何だって?
驚くあなたに、クラリスは一冊の本を開いて見せます。
『シールド:常動型
体表の魔力を硬質に変える。薄い衣服ならば覆いきることが可能。二尺(訳注:約六十センチメートル)以内にこの本を身につけていることで自動的に発動する。……』
「その続き、続き」
あなたはもう一度読み直します。
『……二尺以内にこの本を身に着けていることで自動的に発動する。ただし、硬質に変化している魔力は別の魔法書には転用できない。魔力が不足する場合は内表紙を折り一時的に停止させること』
――――つまり、魔力が不足したから停止させたのか。……ということは、別の魔法書が?
「うん、それがこれ」
渡されたのは、新たな魔法書でした。あなたはぺらりとページをめくります。
『アチェル:起動型
自身を加速させる。裏表紙を打ち払うことで発動し、四半時間効果は継続する。』
「この魔法のために、魔力を確保しなきゃいけなかったの。速度が上がれば、剣の威力も上がるし、相手の動きもかわせる。でも、ぼくは魔力が少ないから、シールドとアチェルを同時に使い続けることはできない。だから、ある程度敵の動きを読めるようになったら、シールドを切ってアチェルに全部の魔力を注ぐって決めてるの」
クラリスは実に誇らしげに語ります。
しかし、クラリスの聞いたあなたは一つの疑問を抱き、彼女に訊ねました。
――――いつも使っている戦法のわりには、怪我をしていたが。
「……こんなの怪我のうちに入んないよ」
ふふん、と胸を張るクラリス。しかし、
――――悲鳴も聞こえたけど。
あなたがそう言うと、彼女はぷうと頬を膨らませ飛び跳ねます。
「……そ、そうだよ! ミスったよ! あんなに痛いとは思いもよらなかったよ! けどあそこからドーンと逆転してバーンとやっつけちゃう予定だったんだからね! ホントだかんね!」
あなたは激昂するクラリスを何とかなだめました。
落ち着いた頃、クラリスが小さく呻いているのをあなたは聞きました。まだ言いたいことがあるかと思っていたあなたにクラリスが躊躇いがちに声をかけてきました。
「ベルは、ぼくのことを心配してくれてたんだよね」
一瞬何のことか分かりませんでしたが、すぐに思い至り、肯定の意を示すために首を縦に振りました。
「そっか。……出発前に話しておけばよかったね。そうすれば、余計な心配かけずに済んだかもしれないのに……ごめんね?」
――――そんなことはない。常識が無い自分にも問題はある。
「そっか……そうかな……」
――――そうだよ。
クラリスはにこっと微笑み、後ろで組んだ手を軽く揺らしながら先を歩きます。
「うん、これからゆっくり慣れて行こ。お互いに、ね」
振り返り微笑むクラリスに、あなたも笑顔で頷いてついていくのでした。