第二章 宿屋ドリアデス
宿と聞いていたはずですが、扉を開いた先は料亭のようでした。二階へ吹き抜ける構造の下、食欲をそそる匂いが満ちています。宿泊用の部屋は奥にあるのでしょうか。しかし、
――――なんだこの状況は? 盗賊にでも入られたのか?
いくつもの丸テーブル、椅子、棚、家具の配置はおよそでたらめです。中にはひっくり返っているものすらありました。しかしそんな状況下でも、ホールの隅に座った男たちは平然と食事をとっています。
「びっくりした? 気にしなくていいよ、いつものことだから」
――――いったい、どういう宿なんだ……。
呟いたあなたは、壁に貼ってある一枚の紙を見つけます。
『椅子・机はご自分で拾い集めること』
ほんとうに、どういう宿なんでしょうね。
あなたがあきれている間に、クラリスはカウンターへ向かっていました。白髪少女の足取りは慣れたものですが、あなたはそうはいきません。なにしろ店内は無茶苦茶な状況なので、まっすぐ歩くのも四苦八苦なのでした。途中、床に転がった空瓶に足を取られましたが、どうにかこうにか彼女に追いつきます。
カウンターの向こう側、厨房の中ではいくつかの人影があわただしく駆け回っています。クラリスはその中をじっと見ていましたが、やがて目的の人影を見つけたらしく、カウンターの向こうへ手を振り始めます。
「エメさん、ただいまー」
「んん? おー、クラちゃんだ~」
厨房からふらりと顔を出したのは、一人の女性でした。
年齢は三十歳前後といったところでしょうか。背が高く、まっすぐ伸びた長い銀髪。しっとりと色気を持っているような大人の女性です。子供っぽいクラリスとは対照的……などと比べてはお互いに失礼ですね。
「あーっ! またお酒飲みながら料理してる! ダメだよ、エメさん。火事になったらどうするの?」
「いいじゃん、これくらい~」
「よくないよ。あーっ、もうほら蝋が垂れてる! ほんと勘弁してよ、ぼくの拠点を燃やすつもりっ?」
「あたしの店なのに……うぅ」
慌ててとびつくクラリスは、蝋を一拭きしてあなたに向き直りました。すっかり苦笑交じりになっています。
「ええっと。この宿『ドリアデス』の主人、エメリア・ドリアデスさんだよ」
「えへへ~あたらしいおきゃくさんだ~」
なにやらだめそうな人ですが、酔っているのが原因なのかもしれません。
「それで? あなたのおなまえ、なんてゆ~の~かな~?」
エメリアは酒臭い息を吐きます。しかしその質問で、あなたの思考は固まりました。
――――そうだ、名前も思い出せないんだった。
あなたが黙っていると、クラリスが助け船を出してくれました。
「エメさん、この人、記憶喪失なんだって」
「ありゃ~」
「武器も持たずに森の中にいてね」
「たいへ~ん」
「名前も覚えてないし、手がかりになりそうものもなくて」
「ごくごく、ぷはー、いきかえる~」
「真面目に聞いてよっ! ていうかお酒のラッパ飲みもダメっ! メッ!」
「これはねんりょうだも~ん」
なるほど、彼女の持つボトルには、「燃料」と木札が掛けられております。そう言えばさっきも蝋燭に少々かけていました。
「エメさんはお酒で火を燃やす人でしょ、知ってるんだからねっ!」
「いいじゃん」
「よくないよ!」
怒鳴ってすぐにクラリスは気づいたようです。このままでは百年経っても話が進展しません。
「……まあ、確かにこの人の名前は必要だね。何か名前を考えようよ」
――――それは同感だ。
「じゃあ何か案を出さないとね。名は体を表すとも言うし、よく考えてつけようね」
「んー、そうだね」
酔っ払いはあなたの顔をまじまじと見つめ、そこでぽんと手を打ちました。
「あれ、この子……魔族じゃなーい?」
――――魔族?
「そう、黒い髪に黒い瞳。一昔前に大きく数が減って、今では人間とほとんど混じっちゃってる種族よ。でも、キミは髪も瞳も、両方黒い……純血の魔族だわ。めっずらしい~」
髪か瞳のどちらかが黒い混血魔族は今でも多いけどね、と付け足し、エメリアは唸りました。
「そうね、くろちゃんはどう?」
――――いや、さすがに安易だろう。
そもそも、その愛称だと本名はどうなるのでしょう。「くろ」なのでしょうか? それともクロから始まる名前の略称なのでしょうか? よくわかりません。よくわからないままに妙な愛称をつけられるのは不本意です。
「適当すぎだよ、エメさん。そんなペット感覚でつけちゃ可哀そうだよ」
クラリスが呆れ顔で反論してくれました。やはり頼りになる人です。森では少しだけ残念な姿を見てしまいましたが、根はまともなのだとあなたは安堵しました。しかし、
「アザルフォード七世、なんてどうかな!」
顎に片手を添えながら、自信満々の笑みでクラリスは言い放ちました。
――――却下。
「ええーっ! 何でっ? カッコいいじゃん! 何が不満なの!」
――――ごめん、かっこ良さが理解できなかった。
「七世っていうのがポイントだよ? それを踏まえた上で考え直してみて」
――――そこが一番理解できない。
「この分からず屋!」
あなたはたいそう怒られました。何がそこまで彼女を憤らせるのか、あなたにはついぞ理解できません。
――――もう少しふつうの人名は無いのかな。
「ふつう、ねえ。ふつう、ふつう」
ウンウン唸っている少女を前に、銀髪の酔っ払いは息を吐きました。
「ねえクラちゃん、せっかく魔族の子なんだし、魔族の偉人から名前をもらったらいいんじゃないかしら~」
「というと……救国の英雄ベルハガウトとか?」
――――いいな。
ようやくまともな感じの名前が出てきたので、あなたはその案に賛成しておきます。
「あ、気に入ったの? じゃあこれから、きみの名前はべるはぎゃっ……!」
……。
噛みました、ね。顔を赤くするクラリスの横で、酔っ払いがにやにやしています。
「じゃあ魔族さん~、ベルちゃんでどうかしら?」
――――そうしよう。短くて呼びやすそうだ。
あなたはその名を……『ベル』を採用することにしたのでした。
◆ ◆ ◆
気を取り直して。
「さっき見たと思うけど、人里は霧の魔法……『ロー』に守られてるの」
今日は疲れたので、あなたたちは早めの食事を取ることにしました。クラリスと二人、丸テーブルに向かい合っております。夕食はロールパンの山と野菜の盛り合わせでした。
「あの外側は、いわゆる“外界”。ベルもいくつか見たと思うけど、巨大な獣たち……『巨獣』が生息してるのは、この外界。もちろん、全部が人間に敵意を持ってるわけじゃないけど、やろうと思えば人なんか目じゃないから、『敵』って考えてもらっていいよ」
たいした知性を持たない危険生物。敵と考えておいて、まず間違いは無いでしょう。
「古くから、この大陸、レムリアは巨獣の住む土地だったの。レムリアの歴史は、巨獣との戦いの歴史と言ってもいいぐらい。誰もが武器を取り、町に巨獣が現れれば共に戦った時代が、五十年前までは当たり前だったんだ。でも、その時代も、一つの魔法が発見されることで終わりを告げたの」
――――それが、『ロー』か。
クラリスは小さく頷くと、ロールパンの切れ目に野菜をはさみました。あなたもそれに倣います。
「霧を畏れるように、巨獣は決してローを越えない。そうわかってしまえば、町は次々に霧に守られるようになった。その結果、人々の安全は守られるようになったの。誰もが武器を持つ時代は、終わったって言っていいね。でも、外界と町が切断されても、外界でしか手に入らないものはたくさんあったわけ。外界のものの採取は、いつしかとても難しいことになっちゃったんだ」
――――しかし、それまでは町人がやっていたことだ。ローができたからと言って、人間は通過できるのだし、問題は無いのでは?
「それまでとは、戦闘に対する意識が違うからねー。『いつ町が襲撃されるかわからない状態』から、『町にさえいれば絶対安全!』になったんだよ。不謹慎かもだけど、不定期な襲撃があったことで、皆の戦闘技術は保たれてたって言えると思う。……ローができてから、一年の間に出た外界死者は、千人を上回るって言われてる」
――――ローができる前は、どのくらいだったんだ。
「あまり変わらないよ、数字上は、ね。ただし、今までは非戦闘員も巻き込まれていたけど、ロー以降の死者は九割以上が『己の力を過信したバカ』っていう違いはあるかな。それでも、ともかく皆は焦ったよ。狭い霧の中、もう外界には出られないのかー、って。今更霧を取りやめて、昔に戻ることはできないしね。そこで現れたのが」
クラリスは一旦言葉を切ると、持っていたロールパンでびしっとあなたに向けて差し向けて言葉を続けました。
「一般人じゃない、ぼくたちのような『戦闘の専門家』ってわけだよ!」
――――なるほど、生活の片手間に武器を持つことが無くなった以上、戦闘の専門家を擁立し、彼らに用事を任せた方が無難だろう。
「もの分かりがよくて助かるよ、ベルは」
クラリスはそーっとロールパンを手元に戻すと、両手で下側を持ち、小動物のように俯きながら咀嚼を始めました。何か反論されるかと思ったあなたは、じっと様子を窺っていたのですが、よく見れば俯く彼女の頬が紅潮しているように見えました。何故でしょう。あなたにはそれが分からず、とりあえず同じようにしてロールパンを頬張りました。
小動物的に一つ食べ終えたところで、何事もなかったかのように説明が再開されました。
「そもそもは、野外に本拠地を構えていた盗賊団とかが始めたみたいだけど、その仕事の需要がわかると、多くの戦闘職の人達が立ち上がった、っていう流れだったみたい。民衆の代わりに外界へ……ローの外に向かう者たちは、いつしか『アウトロー』と呼ばれるようになったの」
クラリスはグラスを取り、水をごくごくと飲みました。
「ぼくもまた、そのアウトローなんだよ」
腰の剣を、軽く叩きます。先ほどの戦いぶりを見れば、疑いの余地もありません。しかしクラリスは、驚くべき言葉を続けたのです。
「ベルも、外界にいた以上、アウトローなのかもね」
――――え?
確かに今の話では、そうなります。一般人がわざわざ外界に行くことなど、いまの時代には考えられないでしょうから。
「普通の人だったら、あんな森の奥まで進めるはずないよ。ここから一番近い町まで、歩いて半日はかかるんだから」
――――つまり、自分は半日歩いて、あの場に倒れていた?
「その町から来たのなら、ね。それでさ、あの巨獣だらけの森を丸腰で半日歩けると思う? 普通だったら確実に死んじゃうよ」
それはあなたも同感でした。先ほどの地獄のような時間は、感覚の上では非常に長く感じたものの、実際はほとんど時間が経っていなかったのです。全ては、夕暮れの短い時間での出来事でした。
とてもじゃありません。半日も歩けるものですか。
「君はアウトローだったけど、盗賊にでも襲われて、武器を奪われた、ってとこかな。そう考えれば、辻褄が合うね。最近この辺りで本を狙う窃盗団が出るって聞くし」
――――本?
武器の話をしていたのではないのでしょうか?
「武器だよ?」
どうにも話が噛み合っていません。
クラリスは困ったような顔をしていましたが、やがてぽんと手を打ちました。
「確かに剣とか槍を武器と呼ぶ場合もあるか……。でも、この場合は戦闘に用いて敵を退けられるもの、っていうのを総合的に『武器』と呼ぶの。だから、本だって立派な武器になるんだよ」
――――また、本。どうして本が戦闘に関係あるの?
「うーん、そこから説明しないとダメか……」
クラリスはベルトのポーチから一冊の本を取り出しました。黒一色のそっけない表紙をしている、手のひら大の薄い本です。
「これが武器になる本」
あなたはその本を受け取り、ぺらりとページをめくってみました。一ページ目にはこんなことが書かれています。
『シールド:常動型
体表の魔力を硬質に変える。薄い衣服ならば覆いきることが可能。二尺(訳注:約六十センチメートル)以内にこの本を身につけていることで自動的に発動する。……』
二ページ目以降には、先だってとはまるで異なる文字が延々と書き綴られていました。
「あ、それから先は読めないでしょ」
クラリスは微笑みます。
「そっちはレムリア文字だね。それを一字一句正確に書き写せば、『魔法の本』になるの」
――――魔法の本、か。
「そう。こういう本があれば、いろんな魔法が使えるんだ」
――――こんな本で? なんだか信じ難いな。
あなたがそう答えたときです。ダダッ、と調理場から駆けてくる影が一つ。
「あはァ!」
奇声をあげながら駆けてくるのはエメリア。あなたはぎょっとして反応する間もなく、エメリアの飛び蹴りを横っ腹に喰らい、椅子から吹き飛び、思い切り壁に叩きつけられていました。
「何しちゃってんの、エメさん! 酔っ払いだからってやっていことと悪いことが!」
「あっはっは。だって~、聞くより実際に体験したほうが早いでしょ~?」
あなたは壁の前で尻もちをついていました。しかし、何かおかしいです。
――――痛くない。
蹴られた腹も、壁に打ち付けられた背中も、何一つ痛くありません。衝撃は感じました。浮遊感もあったのです。しかし、痛くはありません。
「それがシールド。防御の魔法だよ。どう?」
――――ああ、信じる。魔法とはこういうものなのか。
「エメさん、あんまり無茶しないでよ……」
「ごめ~んね、くろちゃん」
「アザルフォード七世だってば」
――――いやベルだ。
クラリスは小さく溜息を吐き、続けます。
「ま、それさえあれば多少の戦闘では傷一つつかないでしょ。ぼく、予備持ってるからそのシールドはあげるよ。簡単でしょ? 人間の持っている『魔力』という力を、本に刻まれた式で変化させ、実体化させる。それが、魔法という技術。……本が、広義の意味で『武器』になるわけが、わかった?」
――――納得だ。
「まあ、この本は黒表紙だから誰でも使えるけどね。火球を発射したり、空間を爆発させるような攻撃魔法は、魔力の消費がすごいから、黄表紙や赤表紙になって区別されてるの。凡才ではまともに扱えないってこと。……ぼくみたいな人間じゃ、一発撃ったら魔力が切れちゃうんだ。でも、そんな魔法を連発できるような魔力を持つ人も、世にはいるんだよ。俗に言う、魔法使いだね。そんな人にとっては、本は武器になると言っていいの」
ロールパンを取る少女。残りは一個なので、あなたも取って、籠を空にしました。
「もちろん本だけじゃなくて、武器に刻もうが、石板に彫ろうが、レムリア文字は効き目を持つの。ローも、石板で保ってるんだよ」
――――なるほど、すごい技術だな。
あなたは深く頷きました。
――――さて、当面どうしたらいいだろう。当ても無ければ、金も無い。
「確かに困ったね。アウトローじゃ、身元はっきりしないことも多いし……」
あなたたちは顔を見合わせました。
「うちに泊まったら?」
顔を上げると、エメリアでした。酔いは冷めたのか、呂律は回っています。デザートに果物を持ってきたようですね。
「エメさん、ぼくデザート頼んでないよ?」
「誰があげるって言ったの? これは、あたしが食べるの」
籠をテーブルに置くと、近くから椅子を引っ張る主人。素面でもへんな人のようです。
「話は聞いたけど、ベルちゃんがどうするか、でしょ?」
「そうだけど」
「なら簡単よ~。うちに泊まればいいじゃない。クラちゃん、仲間が欲しいって言ってたでしょ? ちょうどいいわ、引っ張りこんじゃいなさい」
「人聞き悪いよ!」
「いいじゃん、荷物持ちくらいはできるでしょうし」
クラリスは先ほども見たとおり、双剣を扱い、近接格闘戦を主軸に置く戦法を得意としています。つまり、物理的に多くの荷物を持てないのです。採集を行うときは、荷物が邪魔で仕方が無いでしょう。場合によっては放り出さなければならないかもしれません。
「うーん、確かに、そうなん、だけど……」
少女はあなたに向き直ります。
「なんか唐突だけど、ベル。ぼくと、アウトローやらない? 危険な仕事ではあるけど、君の記憶を取り戻す手助けに、なるかも、だし……あー、これは不謹慎だよね。ごめん。こういうとき、どう言えばいいかわかんなくってさ……」
眉尻を下げ、頬を指で掻きながら彼女は言います。彼女の中では、無理を言ってしまっている気分なのでしょうか。しかしあなたとしては、
――――記憶を失い、右も左もわからない状態で、仕事を得られるのはありがたい。
仲間ができるのは有難いことです。おそらく、自分はひとりでいたところを窃盗団に襲われたのでしょう。いくら腹が立てども、もう一度一人で挑むんでは馬鹿です。
いつか、共闘してもらえないでしょうか。
自分の記憶の手がかりが、あるかもしれないのです。
――――仲間に、なろう。
迷わず、答えました。
「わあ、ありがとっ!」
クラリスはにっこり笑うとあなたの手を取り、ぎゅっと握りました。
「これからよろしくね、ベル」
その手を握り返し、あなたは頷きました。
あなたたちは二階への階段を上がり、客室へと向かいました。この宿屋の客室は八室、申し訳程度の調度が整えられているだけの簡単なところです。
流浪のアウトローが多い現代、定住せずに宿に住み着く者も少なくありません。まともなサービスが無くとも、寝られればそれで良しという安宿は需要があるのでした。クラリスもまた、一月ほど前からこの宿で暮らしているそうです。
あなたはひとまずクラリスの部屋に通してもらいました。
「散らかってるから、足元気をつけてね」
――――凄い。
ほとんど正方形の一部屋です。安物の寝台と、身長ほどのタンス、あとは中央に置いてあるローテーブルだけしか家具はありません。しかし、あなたが感心したのはそこではなく、それ以外の光景でした。
ひどく、散らかっているのです。
床には見覚えの無いものが積み上がり、山ができていました。銀色の円盤……何なんでしょう。足の踏み場も無いとは、このことです。あなたの胸の高さほどの山がほとんどではないですか。部屋の狭さも、この事態を生みだした要因の一つではあるのでしょうが、それ以上に原因となっているのは、やはりこの円盤の多さに他なりません。
しかし、散らかっているという表現はあまり適切ではないでしょう。初めて見たあなたがわかるほど、それは整然と積み上げられておりました。おそらく、部屋の主人はある程度の法則を立てた上で積んであるんだろう、ということを想像させるような部屋でした。
「とりあえず、寝台にでも座ってよ」
クラリスの進むのに合わせ、あなたも円盤の間を縫って進みます。その途中、円盤の表面に書かれた文字が目に入ってきました。
『月刊遺跡』
『図録 古代の暮らし』
『龍戦争考察』
『あなたの歴史観は間違っている』
『二十一国戦乱時代を駆ける!』
――――歴史が好きなのか。
「うん、両親が、考古学者でね」
……そのときです。それは気のせいか、とも思うほどでした。一瞬だけ、クラリスの表情に陰りが見えたような……。
しかし、それは本当に一瞬の出来事で、山の間をよっ、ほっ、とステップでも踏みながら抜けていく姿を見たあなたは、その陰りを気に留めるようなことはしませんでした。
あなたを寝台に残し、クラリスはタンスを探り始めました。
「ぼくは遺跡の話とか、軍記物語とかを聞いて育ったの。それで、影響受けまくって、すっかりこの道にはまっちゃったんだよ」
クラリスは取り出した飴を口に放り、寝台に戻ってきて、あなたの隣に座ります。
――――だから、あんなにすらすらと説明をできたんだな。
「そうだね。趣味の範疇だし」
――――確かに、面白そうだ。
手近な円盤を一枚手に取り、しげしげと眺めます。
しかし、この反応はよくありませんでした。趣味人は、己の趣味に興味を抱かれると嬉しくなってしまうものなのですよ。クラリスもまた、例外ではありませんでした。
「もしかして、ベルも歴史に興味が? 二十一国ならどこが好き? ぼくは特にペリクレスの常備軍リクディム派なんだけど、幻帝ネルヴァもなかなか魅力的だと思うし。それとも遺跡? ナルディカスタの石室は一度見る価値があると思うの! そもそもあそこで見つかった本が……」
――――待て。
記憶を失っている身で無くても、たぶん話が通じなかった気がします。
――――趣味の話になると、目の色が変わるな……。
「うぁー、ご、ごめん……」
目に見えてしゅんとするクラリスに、あなたも罪悪感を覚えます。仮にも命の恩人です。
――――気にしなくてもいい。
「そう? ホント? 続けてオッケー? じゃあ続けよう! そもそも魔法を使っていた古代帝国はね……」
――――やっぱり少しは気にしてくれ。
「気にしなくていいって言ったくせに……」
頬を膨らませて抗議の目をあなたに向けてきます。
――――加減してくれるなら、聞くけど。
「わかんないよ、そんなの。じゃあ、あれだ。せめてアザルフォード六世の話を!」
――――やっぱり自分が好きな偉人だったのか、あれは!
「君は七世だから別人だよ」
――――いや、もういい。今日は勘弁して。
あなたは嘆息しました。
――――それより、アウトローになったはいいが、具体的に何をするんだ? どこで仕事を手に入れるのか、わからない。
「それもそっか。ええと、ふつうは個人の依頼を受けるんじゃないかな。ぼく、というかこの宿の場合、エメさんからの依頼の報酬がそのまま宿代代わりになったりしてるけど」
――――つまり、エメリアの依頼を受けて暮らしているんだな。
「そういうこと。お酒一つとっても、エメさんが自分で外に出るのは危ないしね。だからアウトローが代わりにお買い物に行くことも多いの」
一番近い町まで、半日だったでしょうか。確かに危険です。
「外界に出ないで暮らす、っていうのは簡単なことじゃないからね。多くの食材を必要とする料亭なんかじゃ、特にそうだし。だからアウトローの仕事がある、とも言えるわけだけどね」
白髪の少女はゆっくり立ち上がり、一つの山から手帳を引っ張りだしました。
「次の仕事は、もう入っているね。明日にでも行こう。ベルも、よろしくね」
――――わかった。いったい、どんな仕事だ?
「苺摘みだよっ」
クラリスはにっこり笑いました。
◆ ◆ ◆
夢を、見ていました。
絶え間ない悲鳴が響く町、あなたは一心に走っていました。火の雨をはらわねばならない。砕けた煉瓦を蹴り、別の道を行く仲間を想いながら、あなたは町の中心を目指して走っています。
消さねばならない。
あやまちを消さねばならない。
その方法を、あなたは知っています。あなたがやらなければならないのです。
崩れてきた瓦礫から飛びのいた先は、足元の見えぬ火の海でした――――
◆ ◆ ◆
あなたはベッドから勢いよく跳ね起きました。
息が荒い。とにかく周囲の様子を確認しますが、そこには燃えている町などなどく、ただただ平和な朝が拡がっているばかりでした。窓から差し込む陽射しがあなたの目をくらませます。昨日とは違い、人の声が近くからくぐもって聞こえてきます。たぶん他の宿泊客のものでしょう。
カーテンを思い切り開ければ、一面の森が見えるばかりです。霧のせいで少々歪んで見えるものの、その緑色ははっきりとあなたの目に映ります。どうもローは、日光を遮ることは無いようですね。
エメリアに用意してもらった寝巻を着替えます。薄いシャツにジーンズという楽な格好でした。無論、昨日の服とは違う、宿のものです。あなたの着ていた服は、今ごろ洗濯されているはずでしょう。
ジャケットを羽織り、クラリスに譲ってもらった本をベルトのホルダーに収めます。あとは、ベルトの反対側に鞘を下げ、短刀を収めます。刃渡りは掌ほどで、巨獣相手に応戦するのは難しいものの、あると便利なのだとか。これもクラリスの持っていた予備です。
ただ、この鞘が邪魔でした。
前に下げても、横に下げても、どうしても脚に当たってしまうのです。快適に下げられるポイントを模索していると、扉がノックされました。
「おはよう、ベルっ」
開ければ、白髪の少女が元気よく笑っています。
昨日とは違い、長ズボンにカーディガンという出で立ちでした。枯草色のカーディガンは肩で膨らむ形状になっています。胸についた大きなリボンがアクセントになっており、これはこれでかわいらしいものです。
「準備はいい? そろそろ行かないと、食堂混むよ」
あなたはナイフの問題を放棄することにしました。
残念ながら、一階はごった返しておりました。すっかり混雑しており、空いている机は見当たりません。
「あちゃー、遅かったか。ま、仕方ないね。椅子だけ持って、壁際で食べよ」
客の多くは、腰や足元に大柄な武器を持っています。ときどき目立った武具の無い者もいましたが、その場合は背に大きな袋を背負っています。きっと本がたくさん詰まっているのではないでしょうか。どれも、アウトローたちなのでしょう。
「あ、ベル、スティックパンでいい?」
机も無しに食べるには、都合がいいそうです。
クラリスはカウンターに走り、注文をして戻ってきました。
「やっぱり混んでるね……昨日のうちに、話しておけばよかったよ」
困った様子でサイドポニーを揺らすクラリス。
「ここは町から離れているけど、王都と聖都をつなぐ最短距離にあるんだよ。だから、陸路で旅をするアウトローはよく立ち寄るんだ」
なるほど、だから人里離れた外界の奥で、経営が成り立つのですね。あなたはひとり頷きました。そこに、従業員の一人が歩いてきます。
「リートヴィッヒさん、スティックパン二人分です」
「ありがと」
「お支払いは宿代に含んでよろしいですか?」
「あ、そうしてー」
運ばれてきたのは、その名の通り棒状のパン。持ちやすい大きさです。そして、瓶入りのジャム。ふたを開けると、甘い匂いが漂いました。
「これをつけて食べるんだよ」
クラリスは一本パンを取り、瓶に突っ込みます。あなたも試すと、思いの外甘味が少なく、あっさりとした口当たりでした。
「今日の仕事にも関係する、これがモリイチゴなの」
もふもふと口を動かしながら、クラリスは言います。
「そのまま食べることもあるけど、ふつうはジャムにすることが多いかな。ぼくはもうちょっと甘い方が好みだけど、ヴァレア――――ああ、この国では最もポピュラーなジャムの一つと言っても過言じゃないだろうね。もちろん、料亭としてはこれを欠かすわけにはいかない。でも二日前の時点で備蓄が切れちゃったんだってさ」
もふもふ。
「まだジャムはたくさんあるみたいだけど、それが切れてからじゃ、遅いでしょ。だからぼくたちがそれを取りに行く、というわけ。わかった?」
もふもふ。
「……ベル? どうかした?」
クラリスは喋りながら、次々にパンを食べていました。あなたが一本食べて二本目に入ろうとしたとき、既にパンの籠は空になっていたのです。
双剣士も全く無意識だったらしく、あなたの視線を追って籠を見つめ、やっと事態を把握したようです。
「あ、あはは。ごめんね? 甘いものには目がなくてさー」
顔を真っ赤にするクラリスでした。