第一章 舞い降りた天使
赤とだいだいが視界をふさぎ、天より舞う火が地を血に変える。
焔に包まれる町の中、あなたは一心に走っていました。火の雨をはらわねばならない。死者の脇を駆け、瓦礫を飛び越え、あなたは町の中心を目指して走っています。
消さねばならない。
咎を消さねばならない。
その方法を、あなたは知っています。あなたがやらなければならないのです。
しかし走り続ける中で、崩れてきた瓦礫が迫ってきて――――
◆ ◆ ◆
あなたが気がかりな夢から目を覚ますと、そこは森の中でした。
ゆっくりと体を起こせば、辺りは糸を張ったような静寂に包まれております。見上げると、鬱蒼と立ち並ぶ大木。視線を下げれば、敷き詰められた木の葉が、絨毯のごとき様相を呈しています。
ええ、どこをとっても、見覚えの無い景色でありました。
――――ここは、どこだ?
あなたは考えを巡らせます。ざわめく木の葉より差し込む陽は、既に真っ赤。時刻は夕方なのでしょうか。しかし、一向にこの場所の記憶は浮かびません。
――――いや、場所だけじゃない。自分は、何者だ?
記憶を辿ってみます。そんな馬鹿なことがあるものかと、必死で頭をひねってみます。
しかし何一つ思い出すことはできません。あなたは、自身について、全く記憶が残っていなかったのです。目覚める前のこともさっぱり。一応己の情報を求めジーンズや上着のポケットをひっくり返してみたものの、どれもこれも、まるきり空ではありませんか。もとよりカバンなど持っているはずもありません。
ふうと溜息を吐き、あなたはぐるりと辺りを見回します。……一面の森でした。どちらを向いても、目に映るは木ばかり。どこか遠くから、鳥の鳴き声が聞こえます。
ここで茫然としているばかりでは、事態は一向に進展しません。幸いあなたがいたのは、踏み固められた林道の上でした。この道を辿れば、人里へと続くかもしれません。
あなたは木の葉を除け、道を探りながら先へと進むことにしたのでありました。
ただ、ひたすらに歩き続けました。いったい、どれほど歩いたのでしょうか。
足に溜まってきた疲労から、かなりの時間が経った気もします。しかし、空は変わらず紅いまま。疑うべきは時間の感覚でしょう。右も左も分からぬ焦燥感から、感覚を狂わされているのかもしれません。
あなたは溜息を吐きながら歩きます。初めはおそるおそるだった足並みも、軽くなってきました。しかし、その慣れが良くなかったのかもしれません。
ぐにゃり、と。
足元に、妙な感触がありました。
――――何か、踏んだ。
ぞっとしました。見たいはずもありません。柔らかな何かを踏んだことは確かなのです。葉では無い、もっと大きく抵抗のあるもの。もちろん、このまま足元を見ずにさっさと進むのが賢いのでしょう。しかしそうできないのが人の定めなのかもしれません。
それと意識することも無く、気づけばあなたの目線は下がっていました。……えてして、嫌な予感というのは的中率が高いのです。
綱のようにも見えるそれは、何者かの尻尾でした。その先を辿れば、あなたの倍ほどある、見上げるほどに巨大な牛が唸っております。あなたの革靴は、その尻尾を思い切り踏みつけているのでありました。
牛が、一声大きく吠えます。
最早それだけで、十分だったでしょう。
あなたは、全力で逃げだしました。
この道をどれほど行けば人里に着くのやら、そんなことを知るあなたではありません。己のことも思い出せぬのですから当然でありましょう。この道の先が森の奥である可能性も無いことはありません。しかし、そんなことは冷静になってからでこそ思えることです。このときのあなたは、迷う余裕も無かったのでした。
木の葉を蹴散らし、砂煙を巻き上げ、でこぼこの道に足をとられながら、あなたはただただ走りました。振り返ると、怒り狂った猛牛がおぞましい表情で迫ってきます。
相手は野生の獣です。自分よりも先に体力が切れるとは思えません。必死で考え、あなたは細い脇道に飛び込みます。
――――狭い道を使えば、いいかもしれない。
幸いというべきか、追ってくる猛牛は巨体です。木々の細い隙間を選んで走れば、通ることはできないでしょう。必然的に遠回りをすることになります。その時間差で距離を開けようという寸法なのでした。
しかし、結論から言えば、あなたの考えはさっぱり通用しなかったのです。
猛牛は確かに木々の隙間を通れぬ巨体でした。しかしながら、遠回りをすることなど無かったのです。牛はただ、直進するだけでよかったのですから。
ばきめきぐしゃーん。
進路を阻む木々は、次々と薙ぎ倒されていきます。
別段木が細いわけではありません。幹の太さは、大人二人が手を回しても届かぬほど。
問題は牛の圧倒的な突撃力でした。丸々と太った体躯は相当な重量を持つに違いありません。それに速度がついた上、鋭い二本のツノが突き出ているのです。
――――あれでは、撥ねられただけで死ぬな。
いよいよあなたは命の危機を覚え始めました。
――――何だかわからぬままに、自分は死ぬのか。
それは、いかにも悔しいことです。
だが打つ手が無いのもまた事実なのでした。何しろあなたは丸腰なのです。
――――せめて、刃物でもあれば。
無論、多少の刃ではあの巨体に対抗できるとは思えません。それでも、多少の傷を負わせることはできるでしょう。一矢報いるのと、無抵抗に殺されるのとでは、気持ちの上で大きな違いがあるのです。このままでは無駄死にではありませんか。
しかし窮地は、ときに人を強くするものです。ふとあなたの頭に、打開策が閃きました。
可能性は高くありません。しかし、ゼロでは無いのもまた事実。
あなたは滑りながら足を止めました。
好機は、一瞬。
あなたは猛牛に向き直り、接近を待ちました。この時のあなたの行動に疑念を抱くほど、猛牛の知能は発達していなかったのでしょうか。それとも、何が待ち構えていようが関係のないことと割り切っていたのでしょうか。その是非は判然としませんが、ともかく、猛牛が速度を落とすようなことはありませんでした。
猛牛の姿が見る見る視界を支配していきます。その迫力に気圧されながらも、あなたは地を蹴りました。それは横でも後ろでもありません。
正面。
あなたは飛び込んだのです! 狙うは、攻撃でも防御でもなく、やはり回避。
飛び込んだ先にあるのは、猛牛の腹の下。
猛牛は巨体です。それに比例して、脚は長く、その幅も広いのは自明の理。即ち体の下には、大きな空間があるのです。
あなたは、敵の体の下を、なんとかくぐり抜けました。即座に気づいても、急激にあなたを踏みつける進路に変更できるはずもございません。牛は思い切り、通り過ぎていきました。あの加速です。半円の方向転換は、簡単にできるものではないでしょう。あなたは飛び跳ねるように立ち、駆けだしました。こちらを向かれる前に、隠れるしかありません。素早く大きな木を見つけると、その裏に身を投げました。
――――助かった。
太い幹に背を預け、荒れた息を整えます。
しかし、安心するにはまだ早かったのでした。
突然、あなたは転びます。寄りかかっていた幹が、不意に抵抗を失ったのでした。何事でしょう。あなたは慌て振り返ります。
そこでは、かつて見たことも無い事態が起きておりました。
大木が、歩いていたのです。
地面から抜いた根を、脚のように蠢かせている姿は、まるで蜘蛛。冷静になってよく見れば、少し普通の木とは違和感のある見た目と言えるでしょう。幹の表面にはぱちくりと瞬く目が確認できました。擬態、ということでしょうか。幸いこちらを襲うような意思は感じられません。
しかし、事態はそれに留まりませんでした。
視界中の木が、次々と立ち上がっていくのです。そして次々と、同じ方向へと歩き出すではありませんか!
――――踏まれる!
あなたが小走りしたほどの速さで、木々は歩いて行きます。避けるのはさほど難しいことではありません。しかし、万一踏まれれば、ただでは済まないこと請け合いです。見上げるほどの大木の姿、生半可な重量では無いでしょう。現に、木が一歩根を進める(妙な表現ですが、そう書かざるををえません)ごとに、地響きが鳴っているのです。
幸運は、木々がさほど密集していないところでした。根が絡まるからでありましょうか、木々は一定の間隔を空けた上で行進していくのです。あなたはその流れに逆流していました。こちらに向かってくるものを避ける方が簡単だったからです。
この判断が、間違いだったと言えるでしょう。
決して規則的ではない、木々の集団移動。のんびりとしているようですが、これを木々の全力疾走と仮定すれば、この状況は理解しやすいでしょう。しかし夢中でかわし続けていたあなたは気づきません。
木々をくぐり抜けたところで、あなたはようやく状況を把握しました。 木々は目的地に向けて歩を進めていたのではありません。自らを捕食しようとする者から逃走していたのです。
あなたは、その『何か』に対面するまで、事態に気づくことができませんでした。
木々を漸く抜けたと胸を撫で下ろしていたとき、それは現れたのです。端的に言えば、カマキリでした。
あなたの知るものとサイズが違うことがあるそうなので、補足をしておきましょう。そのカマキリの体長は、あなたの三倍ほどありました。両腕の鎌も通常のそれとは違い、あなたの胴周りほどの刃幅がございます。
巨大さに圧倒されているあなたの意識を塗り替えたのは、両鎌の先にあるものでした。
木です。あなたの知る動かぬ木ではなく、掻い潜ってきた木々たちのように蠢く木です。木はカマキリによって横倒しにされており、幹は鎌で貫かれて地面にまで及んでいます。身動きを取れぬよう押さえ付けているのでしょう。その証拠に木はじたばたもがいていますが、一向に抜け出せる気配はありません。
そして、カマキリはもう一方の鎌で、木の根を、千切っておりました。
甲高く響く音は根が千切られる音でしょうか、それとも、木の悲鳴なのでしょうか。あなたにとって、それは知る由もなければ、知りたくもないことでしょう。
カマキリはそんな音など聞こえてもいない様子でただ千切り、喰らいます。最初は必死の抵抗を見せていた木も、次第に動きを失い、ただ食われていきました。
時間はそれほど経過しておりませんが、あなたが逃げ出すのに充分な時間はあったのです。しかし、あなたは終始動けずにいました。ひたすらに、圧倒されて。
それがいけませんでした。
捕食を終えたらしいカマキリはまだ空腹を満たせぬ様子で辺りを軽く見まわし、あなたを視界に捉え、静止します。
――――襲われる!
予想通り、カマキリはあなたに鎌を振り上げてきました! カマキリの動きは、実にゆっくりとしたもの。あの木の速度に追いつけないのですから、その鈍さは窺い知れるでしょう。しかし今、あなたの足には限界が訪れていました。ここに至るまでの道のりがたたったのでしょう。
それでもまた、死に物狂いで走ります。どれほど走ったか、正確なことはわかりません。ですが、己が疲れきっていることだけはわかりました。
――――今度こそ、終わりなのか?
もはや体に力が入りません。あなたは何かに躓くと、大きくその場で転倒してしまいました。立ち上がろうとする意思とは裏腹に、体はもう言うことを聞いてくれません。肩越しに後方から迫るカマキリを見やると、カマキリの動きが信じられないほど緩く見えました。果たして本当に遅いのやら、それとも死の直前の錯覚なのやら。
ゆっくりゆっくり鎌が迫り、あなたが目を閉じたとき、
強い風が吹きました。
目を開くと、そこには、一人の少女が背を向けているだけでした。
目前にあったはずの鎌は、腕から千切れて宙を舞っています。カマキリの胴体も縦に両断され、左右に分かれた胴体が倒れていく様が少女越しに窺えました。それをあなたが理解した頃、どさっ、と絶命したカマキリが崩れ落ちます。
「間一髪、だったね」
くるりと振り返った彼女は、にこりと笑いました。
――――天使?
まずあなたの脳裏に浮かんだのは、そんな表現でした。
雪のように白い長髪をサイドポニーにまとめ、若草色のワンピースを纏う少女。
年齢は十代後半、といったところでしょうか。大きな目を細め、えくぼのできた頬はなんとも柔らかそう。細い腰は、武骨な革ベルトで締められておりました。ささやかな胸の膨らみが、薄手のワンピース越しに確認できます。抜群の美少女と言って、申し分が無いでしょう。
しかしその外見に不似合いなのが、その両手に持った二本の剣。たった今カマキリの腕と胴を叩き切ったのでしょう、緑色の体液がこびりついております。少女は顔色一つ変えることなく慣れた手つきでそれをハンカチで拭うと、剣を鞘に収めました。
「お互い、運が良かったね。君は助かったし、ぼくは死体を見ずに済んだんだから」
かわいらしい笑顔のまま、彼女はあなたに手を差し伸べてくれました。
あなたは茫然としていましたが、このとき漸く少女に礼を言いました。華奢な手を取り、ゆっくり立ち上がります。いつからか、腰を抜かしていたようでした。
「どう、歩けそう?」
――――大丈夫だ。
「見たところ、怪我は無さそうだけど……だいぶ疲れてるみたいだね。いったい何があったの? 武器もなしに外界にいるなんて、普通じゃありえないよ?」
――――何があったのか、自分も知りたい。記憶が、無いんだ。
あなたの返答に、少女の目が丸くなりました。
「記憶喪失ってこと? 言葉は通じるみたいだけど……」
――――思い出せないのは、自分のことだけではなさそうだ。ここがどこなのか、あの大きな化け物たちが何なのか、全く記憶に無い。
「手がかり無し、ってことかぁ……。困ったなぁ」
愛嬌のある顔を精一杯しかめ、少女は考え込んでいるようです。しかし数秒後、はっとしたように顔を上げました。
「こんなところで考えていても仕方ないね。また巨獣に襲われたら厄介だし。場所を変えようよ。近くに宿があるんだ。そんな顔しないで。大丈夫、なんとかなるよ。ぜったいね」
歩く木々がいなくなった今、あなたたちの後ろには大きな道ができておりました。
「ぼくはクラリス・リートヴィッヒ。よろしくね」
夕陽で頬を染め、彼女……クラリスは頭を下げました。
◆ ◆ ◆
宿に向かう道中も、ゆっくり話す間はほとんど無かったと言って良いでしょう。少し歩くだけで、巨大な獣に遭遇するのです。木よりもはるかに大きな象。人間大の栗鼠の群れ。無論、全てが敵意を向けてくるわけではありません。それでも、こちらの行動次第で襲われる可能性は、十分にあるのです。
クラリスが獣たちの習性に詳しかったことは、幸いでした。また、襲ってくる獣も、ある程度はその二振りの剣で沈黙させることができます。先ほどまでの逃避行に比べれば、ずっと気が楽でした。
――――クラリスは、強いな。
彼女が剣を納めたところで、あなたは声を掛けました。襲ってきた狼の一団は、数頭を斬られたことで散り散りになって去っていきます。
「うん、慣れてるからね。このくらいの相手なら全然平気だよ。たぶんこの辺りの森にいる獣なら、何が襲ってきてもへっちゃらだね」
クラリスは得意げに胸を張り笑顔を浮かべます。これまでの戦闘を見てきたあなたは、その言葉を疑うわけもありません。先行するクラリスの背を見ながら、あなたは強い安心感を覚えていました。
しかし、そのときです。
不審な音が聞こえました。草を鳴らし、木をなぎ倒す轟音。明らかにこれまで急襲してきた相手とは違います。しかもその音は遠ざかるどころか徐々に迫ってきていました。
――――こちらに向かってくるようだ。
隣のクラリスに注意を促します。二人は立ち止まり、辺りを見回しました。森の中は、だんだん暗くなってきているようです。しかしそれを見つけるのに、問題があるほどではありませんでした。
ばきばきめきぼき。
視覚に頼るまでもありません。大音量が全身に叩きつけられてきます。
「猛牛……!」
音の衝撃を引き連れ姿を現したのは、あなた達の身の丈を遥かに上回る猛牛でした。
あなたはその姿に見覚えがあったことでしょう。そうです。この森で目覚めたあなたを最初に襲撃してきた、あの猛牛に他なりません。同種というだけかもしれませんが、その危険さは重々承知のことではないでしょうか。
正面から向かってくる猛牛に対し、横に跳んで回避しようとしましたが、
――――しまった!
あなたのその行く先を、なぎ倒された木が塞いでしまいました! あまりにも突然のことに次なる回避方法は浮かばず、たたらを踏んでしまうあなた。しかし、相手の突進はあなたの事情などお構いなしに近づいてきます。
「危ないっ!」
クラリスの鋭い声と共に、脇腹に衝撃が走りました。それは猛牛の突進によるものではありません。横へ身を投げ出される浮遊感の中で目の端に映ったのは、あなたに足裏を向けて腰の両側の納められた剣の柄を握るクラリスの姿でした。
揺れる視界が捉えきれたのはそれまででした。
次の瞬間には右から左へと巨岩のような体躯をした猛牛が流れていきました。周囲の空気を巻き込んで通り抜けていく影に肝を冷やしますが、何とかかわせたようです。
勢いを殺すことなく通過した猛牛に意識を奪われていたあなたは、あなたを助けてくれたクラリスのことを思い出し、先程までクラリスが立っていた場所に視線を戻します。
そしてほっと息を一つ吐きました。
クラリスは、見たところ怪我ひとつありません。自身も反対側に逃れていたようです。避けるのと同時に抜刀したのか、その両手には剣が携えられておりました。戦うつもりでしょうか。今までの善戦を見る限り、不可能ではないとも思われましたが、あなたの仄かな期待を、クラリスは打ち砕くしかありませんでした。
「やっぱり、効いてないね……」
言葉の意味を理解しようと思考を巡らせていたところに、
――――っ!
音が殴りつけるように浴びせられました。猛牛が咆哮をあげたのです。
見ると猛牛は体勢を取り直し、再び必殺の突進を繰り出そうと、双角のある頭を低くして地面を蹴っています。その時、恐怖とは別に、あなたは違和感を覚えました。
その違和感の正体は、猛牛の額。僅かではありますが、線のようなものが引かれていたのです。よく見ると角の一方にも同じような線が地面と平行になるよう引かれていました。
それが何であるか、あなたはすぐに気づいてクラリスに目をやります。
「あの猛牛は全身を硬い皮膚に覆われてて、ちょっとやそっとの攻撃じゃ効かないの。衝撃には弱いらしいんだけど、斬撃じゃあ……、ね?」
――――にっこり同意を求められても困る。
倒せないのかと訊くまでもありません。
その心情が顔に出たのでしょうか、クラリスが不機嫌そうに顔をしかめました。
「だってあれはないでしょ! 硬すぎるよ! 反則だよ反則!」
――――さっきこの森の獣なら倒せると。
「あれはもう獣じゃないね! 化け物だよ! だから論外!」
――――いや、違いが分からない。
「ああ、もうわかったよ! 調子に乗ったぼくが悪かったよ! ごめんなさいでした! これでいいかな!」
――――無茶苦茶だ。
不毛な問答を繰り返していた時、再び咆哮が耳を貫きました。
忘れかけていた猛牛の方へ目を向けると、掛け声とともに猛牛は猛然と駆け出してきています。クラリスはあなたに向き直り、叫びました。
「あんなのぼくじゃ勝てない! 無理、絶対ムリっ!」
――――じゃあどうする?
「走れる?」
――――ああ、何とか。
歩くうちに多少なりとも、息は整っていました。先ほどよりは遥かにマシです。
「じゃあ、逃げるよっ!」
あなたたちは駆け出しました!
角牛は、既に君たちに気づいていたようです。歪みない進路を取り、まっすぐ向かってくることは間違いありません。
「もうすぐ宿だよ! がんばって!」
クラリスの言うとおり、道の先にこぢんまりとした一軒家が見えてきました。あの規模は、二階建てでしょう。疲労のせいでしょうか、少しだけ揺らめいて見えます。
しかし今、あなたは別のことを考えておりました。
――――あの宿は、安全なのか?
相手は、太い木を軽々と薙ぎ倒すほどの怪力の持ち主です。あの程度の木造建築、易々と貫通するというのは当然の予想です。
――――あそこに逃げ込んでも意味が無いのでは?
しかし、今はクラリスを信じるしか道はありません。足がもつれ、心臓が潰れそうに躍動します。それでも構わず、あなたは駆けました。角牛はどんどん距離を詰めてきます。
――――後ろを見ては駄目だ!
あなたは向き直り、ただ走りました。細い少女の背中を、一心に追います。だがそのとき、頼っていた背中が、揺らめきました。
――――何が、
起きたのか。思考がそこまで辿り着くことはありませんでした。視界が、激しくぶれます。
――――これは、霧?
集中力が一瞬切れ、足元の何かに躓きました。必死につけてきた加速は、その程度のことでは勢いを弱めません。
あなたは派手に転倒しました。
一瞬遅れて、視界が鮮明になります。ごろごろと転がったあなたは、上下の逆になった世界で猛牛を目にしました。
あと数秒すれば、終わりです。
もはや立ち上がり飛び退く力など持ち合わせてはおりません。きっとクラリスの助けも間に合わないでしょう。覚悟を決める間もなく、視界に猛牛が広がっていく中、あなたはただ見ることしかできませんでした。
しかしそのとき、不思議なことが起きたのです。
猛牛の揺るぎない一直線の突進が、不意に揺らぎを見せました。そして何を思ったのか、猛牛は無理に身を捻り、己の走りを止めようとしたのです。事実かどうかは分かりませんが、少なくともあなたにはそうとしか見えませんでした。しかし、あの威力と速度です、容易に静止などできるはずもなく、猛牛は足をもつれさせ、こちらに背を向ける形で派手に横転しました。
わけの分からない事態に戸惑いを覚えていると、隣に誰かが立つ気配がしました。その気配に向けて、あなたは問いかけます。
――――クラリスが何かやったのか?
見上げると、少女はただ微笑んでいるだけでした。
「ううん。ぼくじゃないよ」
君はどうにか立ち上がりました。視界の端では、角牛が元の方向に去っていくのが見えます。
「もう安心。獣たちは、この霧……『ロー』には近づけないからさ」