第十一章 学術都市アンダロフ
すっかり冷え込んだある日のこと、あなたたちリクディムの面々は宿屋ドリアデスにていつものように朝を迎えておりました。起床したあなたが食堂に降りるとサイファーだけがテーブルについていました。
「なんだ、貴様か。クラリスはどうした」
――――まだ起きていないのか。
いつもは誰よりも早く起きてあなたとサイファーを起こしに来るほどだというのに、珍しいこともあるものです。サイファーと同じテーブルについたあなたは欠伸を噛み殺しておりました。
「おお、ちょうどいいところに」
振り返れば、手提げ鞄を持ったエメリアが、食堂に入ってくるところでした。
「ただいま~。ねえねえ聞いてよ、面白いモン見つけちゃった~」
――――どうしたんだ?
同じテーブル席に着き、エメリアはニヤニヤしながら鞄の中を見せました。『月刊騎士道』と『月刊考古学』の最新号と、もうひとつ、大きな封筒を手に持っています。特に装丁があるわけでもない地味な封筒ですが、宛名の文字は硬い、若者らしい字ですね。
「クラちゃん宛てなのよ。どう思う?」
にやにやの止まらないエメリア。
「男からだな。俺は知らない名だが、お前は?」
――――知らない。それに、クラリスがリクディムを結成する前、何をしていたのかも知らないからな。
と言ったあなたは、はっとしました。そもそも、自分は周囲の皆のことをほとんどわかっていないのです。サイファーにせよ、エメリアにせよ、あなたの知っていることはほんの一握りに過ぎないのですから。
「恋人だったりして~。差出人は、王立ガーデニア大学となってるけど……。はっ! もしや、これは教師との禁断の恋だったりっ? きゃー!」
「下種な勘ぐりはやめるんだな。せいぜい、連絡を取り合ってる恩師程度だろう」
「えー、ファーくんつまんなーい」
二人が勝手なことを言っていると、クラリスが欠伸をしながら降りてきました。
「遅かったな、リートヴィッヒ」
「おはよう、みんな。あ、もう『月刊考古学』きてた?……あれ、何その封筒」
「貴様宛てらしいな」
サイファーから封筒を受け取り、差出人を見た途端、クラリスは硬直しました。そしてすぐさま踵を返し、何も言わずに部屋へと駆けあがっていってしまったのです。
――――どうしたんだろう?
「やっぱり昔の男だってば!」
「そんな陳腐なことか。それにしては様子がおかしかった」
サイファーはそれだけ言うとクラリスの跡を追うように階段を上がって行きました。
「あーあ、シュラバだねい」
――――エメリア、楽しそうだ。
そのまま待っていると、突然何かがぶつかるような音が聞こえ、額を赤くしたサイファーが一人戻ってきました。
「どうしたの? 殴られた?」
「意味がわからない。扉にぶつけただけだ」
「ごめん」
戻ってきたクラリスの第一声はこうでした。
「今日行くところができたの。悪いけど、今日はお休みにさせて。もしかしたら明日までかかるかもしれないけど、心配しなくていいから」
数分後、肩で息を整えながら現れたクラリスは、それだけ言うとさっさと宿を出ていってしまいました。
食事を終えたところであったあなたたち三人は、顔を見合わせてしまいます。
「クラちゃんったら、もう……追いかけて欲しいならそう言いいなさいな!」
「……着いてくるなと言っていただろう」
「見るからに怪しいじゃない。絶対何かあるのよ。こんな超オモシロ事態、見逃すわけにはいかないでしょ!」
彼女のプライバシーという観念は忘れ去られているようだ。しかし、
――――確かに気になる。
「おい、貴様までそういうことを言い出すのか……」
「ほらほらー、ファーくんだって気になってるんでしょ?」
「お、俺は、別に、そんなこと」
「決まりー! ほら行くよー」
◆ ◆ ◆
学術都市アンダロフは、シェルヴァノールでも北東に位置する古都です。アンダル台地の上に築かれた城塞都市には、通り名の通り、国中の専門学問機関が一堂に会しています。本の保存に適した気候なのだとか、何かしらの理由はあるそうですが、そんなに詳しいことは知られていません。ともかく、学者と学生ばかりいる都市だということです。
宿屋ドリアデスからは、船で半日程度の距離に当たります。
クラリスを追って船に隠れ乗り、昼過ぎ。あなたたちは、この町に辿り着いていました。路地から顔を出していたエメリアは、暗い路地に隠れるあなたたちに振り返り、にやっと笑いました。
「さっすが、あたしたちだ。全然ばれてないね、きゃはっ!」
――――そうかなあ。
クラリスはどうも、自分たちに気づいているような気がしてなりません。
「だいじょぶ大丈夫、あっはっは。あの鈍い子が気付くわきゃないって。ここで踊りを始めてもバレない自信あるよ、あたし」
――――まあ、その気持ちはわかるけど。
「確かに、俺も反論できんな……」
「でしょ?」
同意を得たエメリアが本当に踊りだします。無駄に儀式めいた妖艶さを秘めた舞でした。もっとふざけたものをしてくれれば容易く止められるものを、あなたとサイファーは対応に困りました。
結局エメリアの動きを止めたのは、あなたでもサイファーでもありませんでした。
「おい、そこで何をしている!」
刺すような声にあなたは思わず身を竦ませます。
あなたは声に刺されて振り返ります。そこにはいつぞやの女僧侶がおりました。どう見てもリミュニアです。今日は仕事で来ているわけではないのか、バプティスの野営地で見せたときのような黒で統一された楽な格好をしております。彼女のことですから、黒袈裟を意識した私服なのかもしれません。
リミュニアはあなたに気づきもせず、踊るエメリアと向き合います。
「この都市では路上でのパフォーマンスは禁止されている。今すぐやめねば逮捕するぞ」
大変です。このままではエメリアはくだらない理由で逮捕されます。
「ええ~、いいじゃん。誰にも迷惑かけてないんだし~」
「なら、私が迷惑している。これでどうだ」
「くっ、そうきたか……」
リミュニアが勝ち誇った顔でふんぞり返ります。いったいこの二人の間にはどのような駆け引きがあったのでしょうか、まるで分かりません。
――――リミュニア。
「む? おお、ベルじゃないか。それに、確かあなたは……リクディムの……」
「サイファーだ」
「そうだ。サイファーだ。……あれ? そう言えば自己紹介していないな。私はリミュニア・ダアト。僧侶をしている」
また握手を求めますが、今度は相手が手を動かすまでもなく彼女は手を引きました。
「待てよ、よく考えればあなたもアウトローか」
先日の一件でアウトローへの見方も改善されたかと期待したあなたでしたが、やはりあれだけでは変わらないようですね。拒絶されたサイファーは最初から拒否されると見ていたのか、特に反応を示しません。
相変わらずのアウトロー嫌いですが、特に悪態をつくこともありません。これは改善と見てよいのでしょうか。
「もしかして、この踊り子もベルの仲間なのか?」
――――仲間、というか。拠点にしている宿屋の女将。
「女将……何故女将が路上で踊りを……?」
――――深く考えなくていい。
真面目すぎるというのも考えものです。
――――リミュニアはどうしてここに?
「意に沿わぬ休暇を貰ってしまってな。せっかくだから錫杖の新調でもしようかと思って、ここに足を運んだのだ。学術都市の鍛冶屋通りは有名だからな、一度は行ってみたかった。……それに、ハミルト……部下からこの時期の学術都市はお勧めだと言われたのでな」
「え? なになに? なんかおもろいことあるの?」
「さあ、私にもよく分からん」
変質者の相手をしているところを見ると、彼女は休暇に不慣れなようですね。仕事が生きがいと言いますか。酔狂なことです。
「もしかして、ベルたちも同じか?」
――――いや、ちょっとした、用事。
さすがにリーダーの後をつけているとは言えませんでした。
そしてリミュニアに尋ねられてあなたはようやく気付くのです。クラリスを完全に見失ってしまっていることに。路上で急に踊り出したエメリアにも、そしてそれを止めに入ったリミュニアにも気付くことなく、目的地へと向かってしまったようです。本当に鈍い子なのだとあなたは確信しました。
「おい、そろそろ行くぞ」
サイファーが尾行の再開を促しました。案外乗り気なのではないでしょうか。
「急ぎの用か。それは引き止めてすまないことをした。また町で見かけることがあったら声をかけてやってくれ」
名残惜しそうなリミュニアに別れを告げて、あなたたちは再びクラリスのあとを追います。
「あそこまでやって気付かないんだから、絶対あの子鈍いって~」
エメリアがニタニタしながら尾行を続行したときでした。路地の先に、小さな影が立ったのです。
「……だ、れ、が、鈍い子だああああああ!」
クラリスのドロップキックがエメリアの背に落ちました。そのままエメリアは路地を吹き飛ばされ、突っ伏したまま沈黙します。
――――クラリス、いつから……。
「ああ? エメさんが踊り始めてから」
「気付いていたか」
「当たり前じゃん! 恥ずかしくて近づけないし、あの感じ悪い僧侶いたから声かけなかったけど」
アウトロー嫌いのリミュニアとはまだ仲良くできないようです。現在、彼女とまともに話せているのはあなただけですからね。
「どうしてついてきちゃうのかな、もう……。ベルやサイファーまで!」
「俺は止めた」
「でも来てるじゃない!」
ぐうの音も出ないサイファーの隣に復活したエメリアが並び、口を開く。
「アタシタチ、アンタ、シンパイ」
「棒読み片言で開き直るとは凄まじい根性だね……。心配すぎて踊っちゃったの?」
クラリスはほとほと疲れ切った顔で溜息を吐きます。
「別に隠すつもりは無かったんだし、もういいよ。こうなったら、みんなにも協力してもらうからね」
「「協力?」」
「今日は、ぼくのおじいちゃんに会いに行くの」
学都アンダロフの中心地、王立ガーデニア学院。国中の学問機関は、アンダロフというよりもこのガーデニア学院、通称「アンダロフの塔」に詰まっていると言った方が正確でしょう。
その一階に足を踏み入れた一行を迎えたのは、若い男の声でした。
「よお! クラリスじゃないか!」
灰色のローブを纏った青年は、バタバタと騒々しく駆けて来ます。短い髪をした、いかにも勤勉家らしい青年です。しかしその笑顔は実に爽やかな印象を受けます。
それを見たエメリアはあなたの背中をバシバシ叩きながら興奮し始めます。
「ほらァ男じゃない! きたきたきたー!」
――――喜んでいるところ悪いが、どうもそんな雰囲気でもなさそうだ。
「何言ってんのよベルちゃんはー。ねー青年、あなたはクラちゃんの何なの? 恋人?」
ボンッ、と音がしたような気がしました。
青年は顔を真っ赤にしています。その横でクラリスはにこっと笑い、
「違うよー。幼馴染」
と言ってのけました。露骨に落ち込む青年。実に分かりやすい人ですね。
「あ、トゥインケル。この人たちはぼくのアウトロー仲間なんだよ」
「は?」トゥインケルと呼ばれた青年は、怪訝な顔でクラリスを、そしてあなたたちの顔を眺めまわしました。
「アウトローだって? なんでそんな下等な仕事をしているんだ。こいつらに騙されてるんじゃないのか?」
「……いきなり無礼な奴だな」
不機嫌な声を上げたのはサイファーです。一歩出た彼の巨体に、トゥインケル氏はたじろいだように見えますね。
「アウトローが下等? そんなことを偉そうに言える貴様は何者なんだ」
「何だと? おれを知らないのか?」
青年は人を見下した笑みを浮かべ、胸に手を当てて大袈裟な仕草で言います。
「おれはトゥインケル・レピチザード。次期アンダロフ領主なんだぞ」
「それで?」
勝ち誇ったような顔をしているトゥインケルの前で、サイファーは顔色一つ変えない。
「家柄しか自慢できないクズか。そんなことだからリートヴィッヒに相手にされないんだ」
「な、なんだと? そういうお前は何なんだ」
「仕事仲間だよー」
と言ってのけた。どことなく落ち込むサイファー。
エメリアはこの状況を心底楽しんでいるらしく、終始ニヤニヤしっぱなしでした。クラリスはと顔を伺うと、男二人の口論内容がわかっていないようですね。これなら鈍い子と言われても仕方ありません。
「ほら二人とも、喧嘩しないでよ。トゥインケルも失礼なこと言っちゃダメ。サイファーも、大人げないよ」
「「はい……」」
――――クラリス、やっぱり鈍い子だな。
あなたはそう思ったが、口には出さないでおきました。
「そうだトゥインケル、おじいちゃんは研究室?」
「ああ、たぶん。……ちょうどいい、おれも今から行くところだ。一緒に行こう」
連絡階段を昇りながら、クラリスは事情を説明してくれました。
「ぼくは両親を亡くしてから、おじいちゃんのもとで育ったの。でも、アウトローになるときには黙って出てきちゃったんだ。でも、こないだの聖都火災のときに名前が知られちゃって……イリーガルを立てたことがバレちゃったみたいなんだ。だから手紙が来たの。『帰ってこい』って」
「で? クラちゃんはどうしたいの?」
「ぼくは、アウトローとしてコルウスに行きたい。お母さんの遺言だもの。それだけは譲れない。だから、今日はおじいちゃんを説得するつもりだよ」
トゥインケルはフンと鼻を鳴らしました。
「わけのわからないことを。コルウスに行くだけだったら、自分がアウトローになる必要なんかないだろ。護衛を雇って行けばいい」
「それは違うよ」
クラリスはムッとして見せます。
「お母さんの最後の願いだもん。ぼくの力で叶えないと、意味がないんだよ」
『でかい口を叩くようになったのう』
しゃがれた声が、突然割り込みました。あなたたちリクディムは、びくっと足を止めます。あなたは周囲を見回したが、簡易な階段にいるのはトゥインケルと、リクディムのメンバー、それに陽気な宿屋の主人だけ。
『なんじゃクラリス、こやつらがおぬしの仲間かね。ふうむ、なかなか良い面構えをしておるな』
どこから声がしている?……足元です! そちらに目を向けたあなたは、自分の目を疑いました。
ネズミ、です。
しかも、二本脚で立っています。全長二十センチほどの巨大ネズミです。しかも山高帽に黒ローブをまとう、なかなかにシャレた恰好をしていますね。あなたの視線に気づき、ネズミは帽子を直しました。
『む? どうしたんじゃ?』
――――ネズミがしゃべっている。
非現実的な出来事にあなたとサイファーがポカンとしていると、その後ろでエメリアがぽんと手を打ちました。
「うわあ、珍しい。ブルメシアンじゃん」
――――ブルメシアン?
「そそ。この人みたいに、獣の姿をした亜人種、ブルメシアン」
『ほう、そちらのおなごはなかなか博識じゃのう』
ブルメシアンは髭をぴくっと動かしました。
『ようこそ、私の娘の戦友よ。クラリスはわしが育てた』
――――ええっ?
「「あなたがおじいちゃん?」」
そこでクラリスが慌てた。
「ちょっと師匠、それじゃ師匠がぼくの養父みたいですよ!」
――――違うのか?
「違うよ。ええと、ドールフィート・レクター先生。ぼくの剣の師匠」
「「剣の師匠!」」
養父だというよりも驚くのですけど。
『なんじゃ、礼を知らぬ奴らじゃの。ま、尤もじゃが』
ドールフィートはさっと飛び上がり、クラリスの肩に乗りました。動物故の身体能力でしょうか、とにかく驚くべき跳躍力です。
――――だって、そんなに小さな体で剣を持つのは……。
『ほほう、確かにおぬしはでっかい。しかし、外見だけで技を判断するのは危険じゃぞ?』
「そうだな」サイファーが割り込みます。
「今の跳躍だけでも十分に身体能力は見受けられる。クラリスの戦法にも通じる、軽さ、速さ。それがレクターの『剣』なのだろうな」
『ふうむ、そちらの一際でっかいのはそれなりに目があるようじゃ。おぬし、名は何と申す?』
「サイファーだ」
『ふむふむ、なるほどのう。どうも見覚えがあるとは思ったわい』
一人頷くドールフィートに、トゥインケルは怪訝な目を向ける。「先生、ご存じなんですか?」
『うむ。知り合いの孫だったらしい』
ドールフィートは、ほっほと笑いました。サイファーはその意味するところを悟り、気まずそうに顔を伏せます。
『クラリス、どうせ明日までいるのじゃろう?』
「ええ、そのつもりですけど」
『サイファー。明日、わしの授業に付き合ってくれんか? きっと、おぬしのためになるじゃろうて』
「……考えておきます」
『ほっほ。さて、わしはここで失礼するぞ』
トゥインケルは帽子を脱いで頭を下げると、ぴょんと跳躍して姿を消しました。
「……さ、行こうか。おじいちゃんの研究室は、すぐそこだよ」
『考古学部魔法学科』と掲げられた研究室に入った瞬間、あなたは激しい既視感を覚えました。足の踏み場もないほどに、本、本、本。積み上げられた本の海の中、埋もれるように机に向かっていた男が一人。
「おじいちゃん、クラリスです。ただいま帰りました」
男は顔を上げました。研究室の扉には、『ジル・リートヴィッヒ』と書かれていましたね。まん丸眼鏡にもじゃもじゃの黒ひげ、鈍い金色の瞳。年齢にしておよそ六十歳程度でしょう。やせ形で背は高い。
「……おかえりなさい、イリーガル・リクディムのクラリス。お仲間の方も、ご一緒にお入りください」
柔和なようだが、芯の通った声です。あなたたちは後ろ手に扉を閉め、本の海に浮かぶソファに腰を下ろしました。
「クラリスさん。私があなたを呼びだした理由はお分かりですか?」
「はい」クラリスは小さく縮こまっているように見える。「ぼくを……アンダロフに呼び戻すため……ですよね」
「うん」
ジル氏はにこっと笑いました。「違います」
そのまま、氏はあなたたちの対面に腰を下ろしました。
「あなたが黙って家を出たことは怒っています。私は、あなたに少しは相談してほしかった。頼ってもらいたかった。そんなに信用してもらっていなかったのかと、ひどく悲しかったのですよ?」
「……すみません」
「でも」ジル氏は小さく微笑みました。「もういいんです。今日、無事な……それどころか、すっかり成長したあなたの姿を見ることができたんですから」
クラリスはおや、と顔を上げます。
「……もしかして、今日ぼくを呼んだのって」
「あなたの顔を、見るためです」
クラリスは再び顔を伏せました。
「ご心配かけて……すみませんでした」
「ええ、分かっているのなら、いいのですよ」
安堵した様子で微笑むクラリスに、ジル氏は言います。
「ほら、町の皆さんにも顔を見せておいで。私と同じくらい心配していたのですから」
「え、でも……」
クラリスはあなたたちへ目をやります。ここに残して行動するのは、さすがに気が引けるのでしょうか。しかし、昔の馴染みに会いたいという思いは言わずとも伝わってきています。うずうずしている彼女を見ては、誰も止められるはずもありません。
「あたしたちは大丈夫だから、クラちゃんはさっさと行きなさいな」
エメリアはひらひらと手を振ります。あなたとサイファーも同意の意を伝えるために頷きました。その反応を見たクラリスは目を輝かせて笑顔を咲かせます。
「じゃあ、行ってくるね!」
クラリスは脇目も振らず部屋を飛び出してしまいました。よっぽど嬉しいのでしょう。最初はジル氏を説得するという、決して明るくない事情で訪れたために故郷を懐かしむ余裕がなかったようですが、解放された今はとにかく皆に会いたいという想いが強くなったと見て間違いないでしょうね。ちなみに、トゥインケルもその後を慌てて追いかけて出ていきました。
階段を駆け降りる騒々しい音が遠ざかるのを聞きながらあなたたち軽く笑みを交わしあいました。この時ばかりはサイファーも笑みを浮かべておりました。思いっきり笑ってはいませんでしたが、気が緩んだ表情にはなっています。しかし、一瞬後には眉をしかめて咳払いをし、元の無愛想な面に戻ってしまいましたが。その様子をエメリアは実に楽しそうに眺めておりました。
さて、これからどうしようかと考え始めたときでした。
「少し、よいですかな?」
ジル氏が語りかけてきます。誰に、というわけではなく、あなたたち三人に。
「あなた方は、あの子が選んだイリーガルなのですね?」
あなたたち三人は神妙な面持ちで頷きます。
「ん? いや、あたし違うでしょ。あたしはこの子たちが拠点にしてる宿の主人で、エメリア・ドリアデスって言います」
ぺこりと頭を下げるエメリア。そう言えば誰も名乗っていませんでしたね。普段ならクラリスが勝手に自己紹介を済ませてくれるのですが、今回は本当に余裕がなかったようですね。あなたとサイファーはエメリアに続いて各々名乗ります。
名乗り終えたところで、ジル氏が本題に移ります。
「クラリスのことを、聞かせてくれませんか?」
漠然とした質問でしたが答える内容に困るようなことはありませんでした。
ジル氏の問いかけに真っ先に答えたのはエメリアでした。彼女が語る話は、クラリスとの邂逅でした。出会ったのは、もちろん宿屋ドリアデス。女の子が一人で訪れるような場所ではないので、最初から印象は強かったのだと言います。興味を持ったエメリアがいろいろと話しかけているうちに仲良くなり、今のような関係に至ったのだそうです。
「まあ、あたしとクラちゃんは最初っから仲良しだったもんねー、拠点にするのは当然の流れだったよ」
「……リートヴィッヒから聞いた話だと、料理が美味しいから拠点にしているらしいが」
「クラちゃんのばかああああ!」
エメリアが泣き崩れたところで、次に語り出したのはサイファーでした。曰くお節介だと。自分のことよりも相手のことを第一に考えて動き、その過程で自分がどうなろうとも構わないと思うのが、クラリスなのだと。あなたもその意見には頷けました。最初にクラリスと出会ったとき、巨獣に襲われていたあなたを助けてくれたのが、クラリスだったのですから。仲間となった今では、それに振り回されるのが自分たちだとも語っていました。たいそう不満そうに。しかし、心底うんざりしているわけではない、ということくらい、あなたにはもう分かっておりました。
それからも、リクディムを結成するまでに行なった仕事の数々や、結成の際に行なった石版集めの話、クラリスの剣が折れた話、バプティスでの大立ち回りなど、話題に事欠くことは決してありませんでした。あなたの記憶喪失のことも、その過程で話すこととなりました。
話している間、ジル氏は嬉しそうに口元にしわを寄せ微笑んでおりました。
やがて、話が今に至ると、ジル氏はこう告げます。
「あの子は、本当に娘に似ています」
「……娘って、クラちゃんのお母様?」
「セシリア、と言います」
あなたはその名に覚えがありませんでした。
「セシリアも、十八の夏に不意にいなくなりましてね。帰って来た時には、ラルフゲルドを初めとする、イリーガル・フラッシングを率いていました。まったく、血は争えませんね」
ジル氏は自分の言葉を反芻するように頷きました。
「あの子の、両親については、聞いていますか?」
あなたたちは黙って首を縦に振りました。
母親の遺言ことも、父親を心底憎んでいることも、あなたたちは知っています。
「ラルフゲルドは元々アウトローをしておりました。遺跡の調査や魔法書の解読などを行なうのに、実際の現場に赴くためには一番手っ取り早いのだと言っていましたね。その道中で、同じ研究をしていた娘と知り合い、イリーガルを組むことになったようですな。初めて彼に会った時には、それはもう驚きましたよ。何年も音沙汰の無かった娘と共に私のもとを訪れ、いきなり娘さんをください、などと言ってきたのですから」
ジル氏は昔を懐かしむように微笑みます。クラリスにとっては暗い過去でも、ジル氏にとってはそうではないようです。それがあなたには意外に思えました。クラリスの話でしか知らないその男は、あなたにとっては嫌な印象しかありませんでしたから。けれど、ジル氏にとっては違っているようです。
「それからしばらくして、ラルフゲルドは私と共に研究の手伝いしたいとも言い出したのです。私は何度も断ったのですが、偉く熱心な男でね、最後は根負けして協力してもらうことになったのですよ。……結果的には、助けられたのですがね」
優しそうな苦笑を浮かべます。
「彼は思っていたよりも、とても優しい男でした。クラリスが生まれた時も、一番喜んでおりましたね。クラリスが十二歳の時に作ったお守りを、いつも皆に自慢げに見せびらかして周りから呆れられるような男でした。研究に関してはたまに周りが見えなくなる節がありましたが、娘が惚れた理由は分かりましたよ」
クラリスがたまに周りが見えなくなるアレは、遺伝なのかとあなたは思いました。当人に言えば深く傷ついてしまうでしょうから言えませんが。
それにしても、聞けば聞くほどに、分からなくなります。
「だから、私は、未だに分からないのです」
ジル氏が寂しげに目を伏せました。
「確かに、クラリスがラルフゲルドを憎む理由も分かります。私とて裏切られた思いでしたよ。だが、まだ信じられない自分もいるのです。どうしてセシリアを置いてコルウスに向かってしまったのか、私にはまるで分かりません」
「……コルウスについて、あなたは何も知らないのか?」
「ええ。……調べようとはしましたが、結局今の今まで調べずにいます。お恥ずかしい話ですが、怖くてね」
「危険な遺跡だって、よく宿屋に来るアウトローも言ってたっけ。よっぽど物好きじゃないと近づこうとも思わないとか。そりゃ、怖くて当然ですよ」
「いえ、そうではありません」
「え?」
「……確かめるのが、怖いのですよ。ラルフゲルドの真意に近づくのが、怖くてたまらないのですよ」
もし遺跡に赴いて彼の真意に辿り着けたとして、それが残酷なものでないという確証はどこにもありません。むしろ残酷なものである可能性のほうが高いことくらい、ジル氏も理解していることでしょう。それ故に、踏み込めずにいるのです。
「クラリスがここを出たのも、私が原因なのかもしれませんね。セシリアの遺言も、本来は私が果たしてやるのが道理なのですよ。けれど、私には踏み込めませんでした。だから、クラリスは自分の力でコルウスを目指すことにしたのでしょう……」
あなたたちは、何も言えませんでした。
クラリスはそんな人間ではないと否定するところですが、今回ばかりは何も言えませんでした。相手はあなたたちより遥かにクラリスのことを知っているというのに、どうしてその言葉を否定できましょうか。それに、自信がない、というのもありました。クラリスの父への恨み強いものです。優しくて明るい彼女ですが、それでも暗い感情がないと言えば嘘になるのです。だからこそ、ジル氏の言葉を否定することはできませんでした。
「しかし、今のクラリスを見て、安心しました」
――――え?
疑問を抱くあなたたちをよそに、ジル氏は立ち上がり、頭を下げました。
「クラリスを、どうかよろしくお願いします」