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第十章 白刃と巨人の夢

 

 

 

 

 クラリスと僧侶たちの話を総合すると、事態はかなり厄介なことになっているようです。

 大教会にて発動している『プロテクト』は、ひとたび発動すれば防壁が展開され、外と内を完全に隔離する魔法です。激しい火の雨にあいながらも教会にはほとんど傷がありません。ただ、『シールド』同様に耐えられるダメージには限度があり、今ではすっかり防壁は消えてしまっているようでした。

 ところが『プロテクト』はもう一つ、連鎖的に発動する仕掛けを持っていました。内部への侵入に対する防護、それが

「この刀というわけか」

 うじゃうじゃと宙を舞う刀を前に、サイファーは肩をすくめます。史跡好きの相棒も、ため息を一つつきました。

「うん。けど、ここまで無差別に襲ってくるとはね……」

「何せ古い魔法ですし、暴走しているのかもしれませんわね。戦争が終わった今、きっと調整などされていなかったことでしょうし。そもそも、よく発動しましたわね」

「正面から乗り込んで社へ向かえばいいだろう」

「短絡的ね、愚弟。……まあ、他に侵入経路が見つからなければ、愚弟の言うようにしなければならないでしょうけど」

「そういえば、社はどこにあるの?」

「教会の、最上階ですわ」

 刀を囲んで唸る一同の所に遠く急ぐ足音が耳に届きます。

 音の主は一人の武士でした。先程ルクレチアの命令により正面以外に侵入できそうな場所がないかを探りに走らせていた武士です。広い教会の外周を回らせるのは酷かと思いましたが、消えない炎に道を限定されていたため、そう時間はかからなかったようです。

「どうでした? どこかに出入口は見つけられまして?」

「そ、その前に報告したいことが!」

 駆け寄ってきた武士の青年は息も絶え絶えといった様子で両手を膝に乗せて肩で息をしております。ここまで休むことなく駆けてきたのでしょう。

 荒れた息を整え、唾を飲み込むと青年は焦りながらも話し出します。その次なる言葉が、あなたたちをさらに追い詰めることとなりました。

「中で! 教会の中で、人が刀に襲われています!」

 その言葉にあなたたちは目を見開き一斉に青年武士を見やります。その視線に一瞬たじろぐ武士でしたが、そこへルクレチアが彼に向けて一歩を踏み出しました。

「どういうこと? どうして中に人が?」

「火から逃れるために入り込んだらしいのですが、教会にも火の手が迫ってきたので『プロテクト』を発動させたところ、暴走して、人々を襲い始めたと」

「それは、誰から聞きましたの?」

「教会の横側にある窓から、中にいた武士が身を乗り出して、私に中の情報を。その者によると、教会の地下倉庫に、避難した人々が集まっていると……。そこには、まだ刀の被害が及んでいないとのことで……。私に、中のことを教えてくれた武士は、教会内にいる生存者を探していた、と」

 一通り武士からの報告を聞き終えたルクレチアは、片手で顔を覆い、表情を隠しました。

その細い指の隙間からは、苦々しげに歪められた口元が見えました。元から内部に避難者がいることは知っておりましたが、まさか防衛システムに奇襲を受けているなど、夢にも思わなかったことでしょう。

 とにかく、事態は一刻を争います。刀が避難民を敵とみなしてしまえば、恐ろしいことが起きるのは避けられません。

「『プロテクト』を止める方法はあるのっ?」

 クラリスが武士に問い詰めます。

「プ、『プロテクト』を発動しているのは、一冊の魔法書なので、それさえ破棄すればいいはずですが、場所が分かりません……。恐らく避難場所になっている地下室のほうだとは思うのですが……」

「じゃあ、急いでその魔法書を探さないと!」

 そう言ったときでした。

 突如、轟音があなたたちのいた地面を揺らしたのです。同時に発生したのは不透明な槌色の煙でした。煙は生きているかのようにあっという間にあなたたちを覆い隠してしまいました。視界が開けたとき、目の前に広がっていたのは、瓦礫の山でした。どうやら教会の一部が崩れ落ちたようですね。

「もうあんなところにまで火の手が……」

 クラリスが呟き、見上げます。そこには欠けた教会の姿がありました。

「このままだと、社がもちませんわね」

 社が崩れてしまっては、都市を襲う火炎を消す方法を失ってしまいます。それだけはどうしても避けたいところですが、だからと言って刀の襲撃にあおうとしている人々を見捨てることなど出来るわけがありません。

 どちらも時間との勝負です。

「仕方ありませんわね、両方同時に行ないましょう。私が社まで石板を運びますから、残りは『プロテクト』の魔法書を探しながら、出来る限り刀を破壊してくださいまし。それから、あなた、この教会には他に侵入出来そうな場所はありまして?」

「は、はい、裏口に一つ入れそうな場所があったのですが、崩れて通路が狭くなってしまっていまして……」

「そう。なら、正面から攻めるしかありませんわね」

「待て、貴様一人に任せられるか!」

「あら、おねえちゃん一人じゃ心配かしら、愚弟?」

 頼もしいまでに誇らしい笑みでした。確かに彼女の強さは先の魔法による一撃を見れば分かりますし、槍も相当な使い手だとは思われますが、実際の戦闘と呼べるものを知らないあなたは心配でした。サイファーはそのあたり、あなたとクラリスよりは知っていることでしょうが、それでも安心して送り出せないようです。

「待って!」

 黙るサイファーに代わり、今度はクラリスが制止しました。

「ぼくにやらせてくれないかな、その役目」

「どうして? この場の誰よりも、私が持っている方が安全だと思いますけれど」

「それはそうかもしれないけど、たぶん、ぼくが一番早く社に辿り着けるよ。その人が裏で見つけた通路は、昔から使われてた隠し通路。『シールド』の崩壊で丸見えになっちゃってるだけで、元は隠されてたはずだよ」

 何で知ってるんでしょう、この人。歴史好き恐るべし。

「そんなことを聞いているんじゃなくてよ?」

「分かってるよ。ぼくが言いたいのは、その隠し通路が繋がってる先。本の通りなら、それは最上階に繋がってるはず。崩れて道が狭くなってても、ぼくなら通れるだろうし。適任だと思うんだけど」

 得意げにふふんと笑うクラリスですが、ルクレチアはまだ納得がいっていないようでした。

「刀に襲われたらどうしますの?」

 その疑問に答えたのは、クラリスではなく、サイファーでした。

「俺達が引きつければいい。聞く限り、刀は教会内を徘徊しているだけのようだからな」

 その言葉に、ルクレチアはもう反論もなく、項垂れました。

「……ええ。もう、分かりましたわよ」

 ルクレチアは溜息を吐きながらも、どこか愉快そうに苦笑しておりました。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 石板を託されたクラリスは、すぐさま裏口へと向かいました。跳ねるように駆けるクラリスの背を見送った後、ルクレチアがあなたに声をかけてきました。

「魔王さん。これをあなたに差し上げますわ」

 そう言って手渡されたのは、数冊の魔法書が入ったホルダーでした。あなたはどうしてそれらを渡されたのかが分からずしばし呆然としてしまいましたが、その説明はルクレチアがしてくれました。

「見たところ、あなたは相当な魔法使いですわ。だというのに、『エアー』しか魔法書がないのは、戦力としてもったいないと思いましてね。それには雷を放つ魔法と、補助魔法が記された魔法書が入っていますわ。どうか、私に代わって使ってください」

 さすがにここまでされては気が引けますが、確かにこれから行なわれる戦闘において、生半可な力では足手まといにしかなりません。

 あなたは魔法書を開き、説明に目を通し……顔を上げました。

――――ルクレチア、ここには「表紙を打ち払うことで発動する」としか書いていない。

「そうですわよ?」

――――だが、この魔法を使うときに何か言っていなかったか? 天より借りし……なんだったか。

「あれは気分ですわ」

――――は?

 ポカンとしているあなたの横で、サイファーが大きくため息を吐きました。

「エヴァンジェリン、無視しろ。こいつ少々馬鹿なんだ」

「あら愚弟、大きな口を叩くじゃない。魔法を放つときには叫べ、とお父様も言っていたでしょう。魔力は精神に宿るもの。高らかに声を上げることこそ、魔法をより強くするのですわ」

「そんな恥ずかしい教えは忘れた。それに内容の意味が分からない」

「うふふ。だから愚弟なのよ」

「……本当にわからない」

「じゃ、見せてあげる」

 そう微笑むルクレチアの手には一冊の魔法書。静かに笑みながらルクレチアは教会の戸から数歩距離を置きます。それに合わせて武士達も離れます。何が起きるのか、なんとなく察しがついたあなたとサイファーも離れました。

「準備はよろしいですわね?」

 無言で肯定の意を示します。

 その反応に満足げに鼻を鳴らしたルクレチアは、魔法書の表紙を打ち払い、唱えます。

「“稲妻よ、主に仇なすものを砕く弾頭と化せ! 汝の砲はわが手、いま吠えよ! 『ボルテク』!”」

 放たれた魔法はまたもや雷のものです。ただし先に見せた『ゴルバリス』は細い線のような電流が一点にぶつかり強烈な破壊を生むものでしたが、今回見せた魔法は、もっと直接的な破壊に満ちた一撃でした。術者の眼前に蒼白く光る球体が現れたかと思えば、それは見る見る大きさを増し、最終的にはサイファーの身の丈を優に超えるものとなりました。その光景に圧倒されていると、次の瞬間には耳をつんざく轟音と共に閃光が前方へ穿たれました。巨大な、雷の弾丸として。

 戸だけでなく、その周辺の壁も衝撃に破壊されます。

「ね? 強いでしょう?」

「……やりすぎなんだよ!」

 大男の叫びと共に、侵入者は聖堂になだれ込みました。

 蒼白い帯電が周囲に飛散し、視界が開けてきた中に転がっていたのは、焦げた教会の床と、散らばる無数の金属片でした。

 教会は天井の高い構造をしておりました。四階までは吹き抜けのようで、天井が一際高い正面の通路は左右に円柱を等間隔に備えられておりましたが、今はルクレチアの魔法により左右両方とも内側が少し抉られています。見たところ、階段は見当たりません。真正面には一つ入り口と同じような木製の両開きの戸があり、そこしか行く先はなさそうです。

 けれども、それが苦行でした。

「さて、行きますわよ」

 ルクレチアが踏み込むと、四方八方から様々な形状をした刀が降り注いできました。中には今までの刀のように剣の原型をとどめていないものまでありました。あなたの知る限り、あれは剣ではなく、槌です。それに弓矢のようなものまで飛来してくるではありませんか。

 驚くあなたをよそに、ルクレチアは先頭で槍を軽く回した後、地面を這っているかのように見えるくらいの低姿勢で駆け出します。その軌跡には幾つもの刀が突き刺さり、叩き付けられます。衝撃に床が崩れますが構いません。ルクレチアは遥か前方で今まさに穿たれようとしている刀を狙って跳躍し、槍を振り下ろして、ぶん殴って破壊しました。ずいぶんと乱暴な扱いですが、振るう度に刀の数は着実に減ります。

 道に残された刀は、きっとあなたたちに任されたものなのでしょう。

 脆い床から抜き放たれた刀がルクレチアの背を狙います。

「一人で突っ走るな、馬鹿が!」

 遅れてサイファーが走り出しながら背負う大剣を横に薙ぐように抜き放ちました。振り抜いた位置にいた十数本の刀は一撃で両断、あるいは粉砕され、クズ鉄と成り果てました。その隙をついて放たれる刀は、あなたが相手にすべき敵です。

 あなたは新たな魔法書を打ち払おうとして、ひとつ息を吐きます。

――――『ゴルバリス』!

 口上を考える余裕はありませんでしたが、魔法の名を叫ぶことはできます。

 初めて使う魔法でしたが、一度見ただけであなたはその扱い方を理解していました。あなたの手元から発生した線の雷撃は八方に散り、宙を舞う刀を縫うようにジグザグに穿ち、サイファーに身を襲う刀を全て焼き切りました。思ったより扱いやすい魔法ですね。『ウェルディ』は水を放出するだけの単純な魔法のため、加減に手間取りましたが、この魔法はそもそもルクレチアのような派手な魔法使いでもあのような細かい攻撃になるほどの魔法。あなたには最適なものなのかもしれません。

 あなたが開いた道を、後続の武士が駆け抜けていきます。あなたたちの取りこぼしを始末するのが主な役割となりそうですね、彼らは。

 入り口の付近にいた刀は、全て片付きました。それを確認したあなたは、最後に廊下を走りぬけていきました。

 開け放たれた戸を抜けると、そこは大広間となっていました。円柱がいくつも建てつけられており、そのずっと先には、上がるごとに幅が狭くなっていく階段があります。上がった先は左右に道が別れており、壁に沿って戸が幾つか見えます。しかし、今回あなたたちが目指すのは地下。上階は関係ありません。

 広間の中央では、二人のノアニールが戦闘を繰り広げておりました。

「愚弟、しっかり戦いなさい」

 ルクレチアはいつになく楽しそうな笑顔を浮かべながら槍を振り回します。振り回すとは言え、雑に扱っているわけではありません。槍を頭上で地面と平行になるよう旋回させ、片手に持ち替えて横に薙ぎ、そのまま一旦動きを止めたかと思えば、狙いを定め、突きを放ちます。刀が一直線上に最も密集している個所を狙っているらしく、一撃の突きだけで複数の刀が破片を飛び散らせます。そこまでが彼女の一連の攻撃です。槍を旋回させている間は無防備な面が必ず出来てしまいますが、その攻撃は槍と共に身も躍らせ、かわし続けます。

 唯一、突きを放った直後は隙が生じますが、問題はありません。

「貴様に言われる筋合いはない!」

 ルクレチアに隙が生じる際に、その背後で大剣を周囲全方位に大振りするサイファー。刀が近づけず、あるいは砕かれている間に、ルクレチアは体勢を整え直し、再び舞いを見せます。遠心力の乗った攻撃は刃で砕かずとも、柄の部分でも充分刀を破壊していきます。

 この二人に関しては、放っておいても問題なさそうです。

 そう思ったあなたは、他の武士に補助魔法を使うことにしました。

『アチェル』。加速。対象者を加速させる魔法です。

『プレイト』。障壁。ダメージを軽減させる盾を対象者に付加します。

『レメディ』。治癒。対象者の傷の回復を促進させます。

 預かった補助系の魔法書は以上の三つでした。それらを使い分け、武士の手助けをしながら、自身に襲いかかる刀には『ゴルバリス』で応戦。『エアー』で一気に片付けようとも考えましたが、どうやら最初から浮遊している物にはあまり効果が見られないようなのです。このことからも、ルクレチアから魔法書を受け取ったのは正解だったようです。

 戦いそのものは順調です。誰一人として脱落する者も出ず、教会内の刀は全てこの大広間に集まってきているように思えました。しかし、最大の目的である『プロテクト』の探索はまるで出来ないでいます。

そう思い上階への道を探そうと思いはしますが、視界のほとんどを支配する多種多様な刀に邪魔され、なかなか思うように動けません。そのとき、あなたは別の攻撃魔法を試すことにしました。ルクレチアから受け取っていた攻撃魔法は、もう一冊あったのです。

 魔法書に内容は記されておりますが、実際に使ってみないと、どういった魔法かなどは分かりません。

 あなたは意を決し、唱えます。

――――『トール』!

 使用直後、あなたは気付きます。

 これは、失敗した、と。

 刀が密集している上空に蒼白い円盤状の電撃が出現し、直後、それは槌のように振り下ろされました。巻き込まれた刀は全て漏れなく押し潰され、跡形もなく砕け散りました。それだけで済めば、この魔法も成功と呼べるものになったのでしょうが、破砕はそれだけでは済みませんでした。雷撃は床を真下へ打ち抜き、巨大な穴と焦げ目を残したのです。

 強力過ぎました。やはりこういう派手な魔法は向いていないようです。ごっそり体力を持っていかれたような倦怠感があります。

「何をしている、エヴァンジェリン!」

 粗方の敵を倒し終えたサイファーがあなたに向けて怒声を発します。目の前で生じた雷撃よりも、よっぽど恐ろしい声でした。思わず謝ったあなたでしたが、対照的にルクレチアの表情は明るくなりました。

「いえ、上出来ですわよ、魔王さん」

 その言葉の真意が分かるより先に、目の前に出来た穴に向けてルクレチアが飛び込みました。何の躊躇もない挙動でした。

「こうして下った方が早く済みそうですわね」

 ……まあ、確かに地下へは行けました。

 あなたも飛び降りたルクレチアに続きます。高さはそれなりにありましたが、アウトローと武士しかいない今の環境では、障害となる高さではありません。とは言え、全員が降りてきたわけではなく、何人かは上に残る刀の始末にあたっています。

地下に降りると、床は冷たさを感じる石造りでした。どうやらここは廊下のようですね。横にも広い廊下は、左右の壁に光源となる光球が等間隔に設置されており、明るさにも問題を感じませんでした。これも何かしらの魔法を用いているのかと思いきや、ろうそくが入った透明の箱が置いてあるばかりでした。避難した人々が取りつけたものでしょうか。

 そんなことに気を配っている場合ではありません。

「こんなところにもいますのね、刀」

「当たり前だろう」

「……先ほどから愚弟が調子に乗っていますわ」

 暗い半眼がサイファーを捉えます。その眼光に耐えきれずサイファーは後ずさりました。せっかく格好良く敵を片付けていたというのに、残念な男です。

 それでも向かってくる刀に遅れは取りません。

 真正面から発射されてくる刀を打ち払いながら前進する一同。

 そのときでした。前方に暗闇が広がり始めたのです。光源が途絶えたのかと思いましたが、どうやら壁が現れたようです。ここで行き止まりなのでしょうか。引き返そうとしましたが、そのときあなたはその行き止まりに一つの違和感を覚えました。

「どうした?」

――――いや、今この壁、動いたような……。

 そう告げるとサイファーは不思議そうな顔をした後、壁に近づいていきました。

「……隠し通路があるほどだからな。もしかすると、この先に道があって、その奥に『プロテクト』の魔法書が隠されているのかもしれん」

 確かに一理あります。

 そう思ってあなたもサイファーの隣に並んで壁を調べようとしたところ、後ろからルクレチアに声を投げかけられました。

「下がりなさい!」

 それは命令でした。

 反射的にあなたとサイファーは一歩遠のいたものの、それまででした。事態が飲み込めません。付近に刀も見られないと言うのに、何故離れなければならないのか。それは、その一瞬後に分かることです。

「なに!」

 サイファーの見据える先、壁が動き出し、長方形の石塊が突出してきたのです!

 サイファーは大剣の腹を盾にして突きを防ぎますが、受け止めるまでには至らず、床を足裏で削りながら、サイファーの巨体は後退していきました。派手に飛ばされましたが、どうやら怪我はないようです。

 それを確認したところで、あなたは壁の方へ再び視線を戻しました。

――――罠?

 壁が飛び出る仕掛けでもしているかと思ったのだが、その予想は大きく外れました。

 動いているのです。

 壁自体が。

 いえ、正確には壁ではありません。

「ずいぶんと、無骨な守護神ですわね……」

 ルクレチアが呟く中、壁はその姿を変え、こちらに踏み出してきました。

 その全体像は、デフォルメされた人間のようでした。しかし、もちろんまともな人間の造形などしておりません。壁に擬態していたのは巨人の両腕、肘から手の甲までの間に付けられていた巨人の盾のようです。肘から肩にかけては岩石を適当に寄せ集めて作られており、肩には短い煙突のようなものが穴を後ろに向けて備えられております。胴体は石の鎧が着せられ、下半身は腕の長さの半分もなく走行は不可能でしょう。顔には冑が乗せられており、空洞の目の代わりに一つの赤色の光が灯っています。

 巨人は、盾を引きずるようにして、あなたたちの元へ歩み寄って来ました。

 あなたはその光景にただただ圧倒されて言葉も出ません。何せ大きいのです。天井ぎりぎりまである巨体。誰もが見上げることしか出来ません。

「これは、なんだ?」

「これも刀じゃないかしら。武器に限った名称ではないし、こういう個体がいてもおかしくはないのよ、愚弟」

 言っている間に、巨人が第二撃を放とうとしておりました。左半身が前に右半身が後になるように腰を回し、左腕は盾として胴の前で構えられ、右腕は体より後ろで振り上げられております。その体勢を作り上げるまでの動作は、あまりにも遅いものでした。見た目の重量感は遅さを裏切らないようですね。

 だから、油断しました。

 巨人から右拳が放たれる寸前、肩の円筒から煙が勢いよく噴出され、それへ疑問を抱く間もなく、右拳が一同を強襲したのです。それはまさしく高速の一撃。

 巨人と最も近くにいたあなたに、それは真っ先に襲いかかります。

――――ッ!

 あなたはかわすことも防ぐことも出来ず、その一撃を全身でまともに受けてしまいました。衝撃は前面だけでなく全身を襲い、足が床から離れていく浮遊感に包まれたかと思えば、次の瞬間には景色が前に流れていき、巨人が遠のきます。

 飛ばされた。そう気付いた時には、あなたは石造りの床に叩き付けられ、その威力は消えることなく、何度も床に体を打ちつけられながら床を滑ります。

「エヴァンジェリン!」

 サイファーの呼びかけを耳にするのが早いか、あなたは頭を片手で抱えながら何とか立ち上がります。視界がまだ揺らぎますが、痛みはさほどありません。

「あれほどの衝撃を『プレイト』すら使わずに『シールド』だけで相殺できるなんて……」

「おいルクレチア、ぼさっとするな!」

「お前こそ、気をつけなさい」

 声を投げかけたサイファーに向けて、またもや右拳が振り下ろされようとしておりました。サイファーは舌打ちし右側、巨人から見て左側へと跳びました。直後、床を抉る拳打が素早く放たれますが、元々サイファーがいた場所を打っただけに過ぎませんでした。どうやらあの攻撃を放つときは細かい調整が効かないようです。

「落ちろ、木偶の坊……!」

 サイファーは大剣を左下段に構えながら駆け、巨人の左腕、盾が施されていない肩から肘にかけての部位を狙い、右上段へ斬り上げました。快音が響きますが、破壊には至りません。巨人の体を構成する石が削られますが、ダメージとはなっていないようです。

 その攻撃に反応した巨人は、上半身を右回転させ、左の盾でサイファーを打とうとします。とっさの行動のせいか速度は大して乗っていません。それを悟ったサイファーは、避けることなく、右上段に振り上げられた大剣を、迫る盾目がけて穿ちました。次に響くのははっきりとした破壊音。盾に一文字の傷跡が刻まれました。しかし、無力化には至りません。サイファーは心底鬱陶しそうにそれを確認すると、次なる攻撃がなされる前に巨人の脇を抜けて背後を取ろうと動きました。

 通り抜ける際にも横薙ぎに腹へ斬撃を入れましたが、やはりダメージは軽微です。

「こいつは無視していいだろう! どうせ『プロテクト』の魔法書を破棄すれば止まる!」

 サイファーがそう声を飛ばしますが、ルクレチアはやれやれと言った様子で首を横に振っています。

「愚弟。お前の目は節穴なの? よく奥を見てみなさい」

 言われてあなたも巨人の遥か後方、点々とした灯りに照らされた廊下の奥を見やります。サイファーは巨人の背後に回り込んでいるため、彼から見ると後方になります。そして、あなたたちはルクレチアが呆れた理由を把握することができました。

 廊下の突き当たりに木製の戸が見えたのです。

――――地下に避難したって言っていた。

「そうですわね。恐らくあそこで間違いないですわよ。……この巨人を放っておけば、きっとあそこを見つけてしまいますわ」

 見つかった後のことなど、聞くまでもありません。あなたはその身で一度その威力を体感しているのです。いくら『シールド』に守られていたとしても、脅威だけは拭えません。もう一度まともに受ければ、いくらあなたの魔力でも保つことはないでしょう。

 周囲の刀の対処に追われていた武士達に向け、ルクレチアが言葉を放ちます。

「この巨人の相手は私と愚弟でしますわ! 他は刀があの部屋に向かわないようここで食い止めなさい!」

 指示を受けた武士から散り散りに短く明確な了解が得られました。

――――『プロテクト』はどうする?

「あら、魔王さんも案外節穴ですの? よくあの巨人の頭を見てくださいまし」

 言われて頭を注視します。冑の奥に一つの光源があるだけで、他に変わったところはありません。ということは、あの光源に注目しろ、ということでしょうか。あなたは目を凝らしてよく見てみました。そして、理解しました。確かに、これなら『プロテクト』を探すのに人員を割く必要はありません。

「気付きまして? まああれほど魔法書の保管場所に適した場所もないでしょうし、制作者も馬鹿ではないようですわね。……まさか戦争が終わっても動き出すとは思ってもいなかったことでしょうから、暴走に関しては大目に見るとして」

 ルクレチアの言うように、冑の奥で光を放っているのは、一冊の魔法書でした。状況から見て、あれが『プロテクト』であることはまず間違いないでしょう。

「ええいたわけども、喋ってないで、戦え!」

 サイファーも既にそれに気が付いているようで、巨人の腕に飛び乗り、頭まで駆け出していました。肩まで達すると、上段に大剣をかざし、後頭部を大剣で斬りつけます。快音こそ鳴るものの、大剣は止められ、傷跡らしいものはついておりません。

「情けないわね、愚弟」

 ルクレチアは心底鬱陶しそうに呟くと、巨人の懐に潜り込み、右盾を内側から槍で突きました。刃は僅かに石の体に刺し込まれましたが、大剣のように破壊力がなければ、効果は薄いように思えました。

 そう考えるあなたのことを嘲笑するかのように、ルクレチアが笑みます。

「“我が槍よ、閃光をまといて邪なるものを征せよ! 『シャイニグ』!”」

 唱えると、突き刺さる刃から爆発のように雷撃が四散しました。それはただ表面で爆ぜたのではなく、突き刺さる体内から爆ぜたように見えました。大剣で斬りつけた時よりも、明らかに破壊のダメージは高く、盾に小規模ながら穴が開きました。

「突き刺した個所から雷撃を発生させる、とても刺激的な魔法武器」

 ルクレチアは槍を引き抜くと、巨人の膝を蹴って上へ跳躍し、サイファーの頭上まで跳び上がりました。サイファー身をよじる巨人に振り落とされながらも自分で斬った個所を横一閃に再度斬りつけました。直後、まったく同じ個所に三撃目が入ります。

「上出来ですわ、愚弟」

 巨人の頭上から、ルクレチアが槍を逆手に持ち替え、刃を真下に向けて放っていました。正確に突かれた個所から、『シャイニグ』が爆ぜ、冑の一部が破砕しました。そのことに危機感を覚えた巨人は、身を低くして腕で頭を上から覆います。

「無駄だ!」

「お前がね!」

 着地したサイファーが下から攻めようとしたところ、爆風に乗って一瞬で床に達したルクレチアがその背を思い切り蹴飛ばし、巨人の前に転ばせました。思わぬ不意打ちにサイファーもあなたも気を取られてしまいました。姉に蹴飛ばされたことをサイファーが理解した瞬間、抗議の声をあげようとしましたが、その余裕はありません。

 巨人が獲物目がけて拳を放とうと構えていたのです。あなたを穿った高速の一撃です。

――――『アチェル』!

 あなたはとっさに加速の魔法をサイファーにかけました。『エアー』では間に合いそうになかったので、サイファーが回避することを願った末の行動です。サイファーが立ち尽くしてしまえばあなたの魔法はまるで意味を成しません。

 しかし、やはりというか、サイファーは動き、回避しました。空気を巻き込んだ一撃は風圧を生みだします。その風に身の制御を奪われながらも、サイファーは健在でした。

 改めて姉の奇行を責めようとしたサイファーでしたが、ルクレチアの姿が見えません。一瞬、逃げたのかと思いました。

 しかし、巨人の背後で三度目の爆発がその不安を払拭してくれました。雷撃が生じたのはまたもや頭部。後頭部を狙った一撃となったようです。サイファーを狙っている隙をついた、ということなのでしょうか。

「貴様、俺を囮にしたのか!」

「愚弟の正しい使い方よ。お陰でそろそろ砕けそうよ。良かったわね、愚弟」

 確かに、正面から見ても頭の装甲はだいぶ剥がれているように見えます。もうすぐ魔法書まで達します。このまま押せばいける、そう思っていたときのことです。

 巨人がいきなり左右の壁を両の拳で打ち抜いたのです。轟音に廊下全体が揺れ、土煙が立ち込める中、巨大な影が動き出しました。狙いは、後頭部で好き勝手暴れていたルクレチアのようです。

「あら、怒らせてしまったようですわね」

 おっとりした声が届きますが、まだ現状がわかりません。

 とにかく、真正面から対峙してはルクレチアと言えど厳しい相手でしょうから、あなたは無防備になっているであろう背に向けて『ゴルバリス』を放ちました。広くない空間なので宙を這うのは一本の線だけです。牽制ですから威力は関係ありません。

 しかし、それは何らかの遮蔽物に防がれてしまいました。

「刀が、刀を装備している……?」

 視界を遮断する煙が消え、現れたのは、無数の刀を盾のようにして背負う巨人の姿でした。さらに、その両手にはサイファーのものより大きい大剣が握られているのです。巨人が持つと通常サイズの剣に見えますが人間からすればそれは立派な大剣です。

 巨人は荒れ狂った様子で猛然とルクレチア目がけて駆け出しました。無数の刀が互いに身をせめぎ合い、悲鳴のような声があがります。

「これ以上先に行かせるわけにはいきませんわね……!」

 ルクレチアの背後には、扉が迫っています。荒れた巨人など通していいはずがありませんが、物理的に止められるものなのでしょうか、あの巨体を。

「仕方ありませんわね……。こちらも奥の手を使うことにしますわ」

 言うなり、ルクレチアは手にしていた槍を床と平行になるよう横手に持ち替え、左右に引っ張ります。すると、槍は二分されてしまいました。長い柄と刃を持つ一方と、短い柄と飾りの赤い羽毛が付いた一方とに分かたれております。その双方のうち、ルクレチアは刃の付いていない一方だけを手に取り、片方は床に突き刺して放置しました。

 武器を失ったルクレチアは、右足を前に出し膝を折って腰を落とすと、柄を持った右手を左の腰にあてがいました。あなたは見たこともない構えです。

 

「“汝の真の姿を我が前に示せ。抜刀者ルクレチアの手に戻れ。――――汝の名は『タタガミ』!”」

 

 ルクレチアは巨人の進行を待ち構え、眼前までその身が迫った瞬間、鞘から刀身を抜き放つようにして柄を振りました。

 生じたのは、光でした。

 巨人の眼前にいたルクレチアの姿は消え、代わりに光の壁が巨人の進行を妨害していました。巨人は止まることも出来なかったのか、それとも砕けると踏んだのかは分かりませんが、大刀を光の壁を振り下ろしていました。が、それはあっさり止められ、直後に両の大刀は刀身が砕け散りました。破壊の理由は、単純に強度が違いすぎたのです。光の壁はそのまま容赦なく巨人に衝突し、押し倒しました。

「魔王さん!」

 光の壁がルクレチアの手元の柄へ納められていきます。ルクレチアが持つ柄は先程までとは形状が変化しており、剣の柄に、楕円形の鍔がついておりました。

「私に『アチェル』をお願いしますわ!」

 言われてあなたは急ぎルクレチアに加速を付加しました。付加が完了する一瞬の間に、再びルクレチアは先程同じ構えを取ります。

「ルクレチア、気をつけろ!」

 サイファーがルクレチアに向けて声を投げかけました。それと同時、巨人が這うようにしてルクレチアの頭上から腕を振り落とそうとしておりました。

「ふふ、心配は無用よ、愚弟」

 加速を付加されたルクレチアにかわせない一撃ではありません。ルクレチアの言うように、心配することなどないように思えました。

 しかし、サイファーの忠告は、もっと別の場所にあったのです。それに気付かず、ルクレチアは踏み込んでしまいました。加速付加を要求したのですから、今度は攻めに転ずるのでしょう。

「違う、気をつけるのは、加速のほうだ!」

「へ……?」

 ルクレチアは床を蹴ります。同時に柄を同じように抜刀して光の刃を生み出しました。次に姿を見せたそれは、先のように面積の広い壁のようなものではなく、巨人の身の丈を超える細い刃となっておりました。

 直後、巨人の高速の一撃を遥かに上回る神速の斬撃が巨人の体を縦に二分しました。無論、頭部の魔法書も一緒に裂かれております。

 斬撃を生んだ張本人はと言うと、

「きゃああああああああ!」

 悲鳴を上げてあなたの頭上を神速で通過していってしまいました。

 茫然とした一同が見守る中、遠く暗がりの方で床と激突する音と短い女性の悲鳴のようなものが聞こえました。

「……エヴァンジェリン。お前の加速は、危険すぎる」

――――もしかして、サイファーもさっき……。

 いつの間にか隣に並んでいたサイファーの方を見てみると、頭を切ったらしく血が流れておりました。明らかに巨人に受けたものではありません。

 つまり、あなたの『アチェル』が予想以上に強力過ぎて、制御しきれなくて跳びすぎてしまった、ということなのでしょう。思わぬ弊害です。

 なにはともあれ、魔法書の破壊には成功しました。

 あなたたちは、遠くでうつ伏せに倒れている武家当主代理を回収して、『プロテクト』破壊の作戦を終えたのでした。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 その夜は、満月でした。

 イリーガル・リクディムの三人は、教会最奥の大聖堂でポタージュを飲んでいました。千人単位の人間が入れる場所が、他に無かったのです。最上階まで吹き抜けとなっている聖堂。三階以上のステンドグラスは、月光を通しています。

「いやー、上手くいって良かったね」

 クラリスは嬉しそうに微笑みます。

「ベルたちが刀を全部引きつけてくれてたからかな、あんまり戦わずに社まで行けたよ。お陰であんまり達成感はないかもだけどー」

―――いや、そのほうがいいと思う。

 ノアニール姉弟を最も負傷させたあなたが苦笑混じりにそう言います。

 結局あれからルクレチアはすぐに復帰しましたが、あなたに謝罪させる隙も与えず去ってしまいました。今は救出活動や本国への報告に追われていると武士に聞きました。

 そして、一方の弟はというと、

「…………」

 無言です。最初はただ怒っているだけだと思っていたのですが、どうも様子がおかしいのです。

 記憶を辿ってみますが、なんとなく分岐点となっているのはルクレチアが『タタガミ』を発動させてからのような気がします。後から聞いた話ですが、あれはノアニール家の当主のみが持つことを許される、特殊な刀なのだそうです。

 サイファーはそのことに、何らかの想いがあるのでしょうか。

「こんばんは、皆さん」

 逡巡しているあなたの元へ女性の声が届きます。

 見ればクラリスの隣にルクレチアが立っています。いつものように微笑んで、その手には湯気を立ち込めさせるコップを持っていました。その姿を認めるや否や、サイファーは無言で席を立ち、どこかへ歩き去ってしまいました。何となく、昨日とは雰囲気が違っているような気がします。その証拠に今度ばかりはルクレチアも引き止めようとはしません。

「隣、よろしいでしょうか?」

 尋ねられたクラリスは慌てた様子で椅子を引いてどうぞと言いました。丁寧に礼を述べると、椅子に腰を下ろすルクレチア。

「今日の作戦、改めてお礼を申し上げますわ」

「いや、いいよ。ぼくたちが好きでやったことだし」

「それでも、助かりましたわ」

 ルクレチアはクラリスの方へ体を向けて話すばかりで、あなたを視界に入れようとはしません。やはり怒っているのでしょうか。そこであなたはルクレチアに謝罪しようと声をかけますが、なかなか聞き入れてもらえません。

――――ルクレチアさん、今日のこと、すみませんでした。

「………れて……さい」

 か細い声で何か言われましたが、聞き取れませんでした。

「わ、わすれてくださいまし! 最後のことは!」

 顔を真っ赤にしてそう言われては、忘れるしかありません。

 クラリスはきょとんとしていましたが、説明など出来ません。名誉のためにも。

 

 こほんと咳払い一つ。

 気を取り直したルクレチアが喋ります。

「ところで、あなたたちはどういう事情があってバプティスを訪れましたの?」

「……あれ、なんだっけ?」

――――記憶の手がかりを探しに来た。

「そ、そうそう! 忘れてないよ! ベルが覚えてるか試しただけだもん!」

「?」

 事情を把握し切れていないルクレチアに、あなたが記憶を失っていることと、ここまで来た経緯を全て話しました。聞き終えたルクレチアはしばらく目を伏せて考え込んでいましたが、やがておもむろに口を開きました。

「成程。魔王さんの夢に、あの火の雨が出てきましたのね」

――――同じものかは分からないが。

「それで、何か記憶を取り戻す手がかりは、掴めましたの?」

――――いや、それが、まったく。

「そうでしたの。……しかし、あなたほどの魔法使いが行方不明となれば、武士団の方にも情報が入っていそうなものですけれど……覚えがありませんわね」

「んー、全然ベルの記憶に繋がらないなー」

 クラリスは困ったように表情を曇らせてテーブルに突っ伏してしまいました。

 少しの沈黙の後、ルクレチアが表情を消し、居住まいを正し、尋ねてきました。

「サイファーは、いつまであなたたちといるつもりなのでしょうか?」

 あなたもクラリスも、返答に困りました。

 やはり、サイファーに戻ってもらわねば困るのでしょう。

「それは、お姉さんとして? それとも、武家の人間としての心配?」

 クラリスの真意はこの時ばかりは読めませんでした。

「……さあ。どちらなのでしょう。今は、どちらでもないのかもしれません。姉としてだった気もするのですけれど、最初から違っていたのかもしれませんわね。この理由をどう説明すればいいのかわからないけれど、あんな愚弟でも、いてほしいんですよ」

 ルクレチアの答えは要領を得ません。クラリスの問いに答えている、というよりは、自分自身にどちからを問いただしているようでした。

 そんな迷いを抱く自分を哀れむかのような笑みを浮かべ、視線を大聖堂のステンドグラスへと上げられました。つられて視線を移したとき、あなたは初めてステンドグラスに描かれた模様に注意を向けました。

 上下で、二つの龍がぶつかり合っているように見えます。上の龍は黒く、いかにも凶悪そうな丸い目を見開き、牙を剥き出しにしております。対照的に下の白い龍は、閉口して穏やかな目をしています。黒と白。光と闇。善と悪の戦い。そう、あなたは理解します。しかし、詳しいことは分かりません。

「あれは、五十年前の戦い、龍戦争の一場面を描いたものですわ。ヴァレア武士団の聖騎士がエトワールの主導者を破りましたの。下の白い方は、『タタガミ』……通称、ノアニールの光剣。上の黒い方は、何千もの人間を殺した魔刀……『カラスバ』を現しておりますの」

 一つ息を吐きます。

「その『タタガミ』を守る家が、私達ノアニールですの。魔王さんは、もう見ましたわよね? 『タタガミ』がいかなるものか」

――――あの、光の剣か。

「ええ。しかし、本来は私が持つべき剣ではありませんの。女の私には相応しくないと、他の名家から厳しく言われておりましてね」

「だから、サイファーが必要なの?」

「そう恐い顔をなさらないでください。それに、無理矢理連れて帰る気もありません。だから、これからも愚弟と仲良くしてやってくださいね」

 苦笑を浮かべながらそう言うと、ルクレチアは席を立ちました。

「ただ、あの子が、もし自分から家に帰ろうとしたときには、あなたたちがその背を押してあげてください」

 微笑みと、甘いココアの匂いを残して、ルクレチア・ノアニールはあなたたちの前から姿を消しました。

「ねえ、ベル」

――――どうした。

「サイファーは、どうしてアウトローをしてるんだろう」

 クラリスの問いに、あなたは答えられませんでした。

 

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