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第二十章 バートレー・ラスティの録音

 

 

 

 オレは今冷たい鉄格子の中にいる。
 幸いなことに録音機だけは取られなかったから、こうして記録を取り続けられてるわけだが、ぶっちゃけ記録しておきたいことがあるっつーよりは、時間潰しだ。
 まずは現状確認。
 牢屋の中にいるのはオレの他にサイファーただ一人。元々は五人で行動していたんだが、いろいろ会ってバラバラになっちまった。その経緯を説明するためにも、まずはオレたちがこの町バプティスを訪れた理由から話さなきゃならねえ。ちょっと雑になっちまうかもだが、そこは勘弁してくれ。何せ不機嫌な坊ちゃまと同じ牢だ。あんま派手に喋れねえんだよ。

     ◆ ◆ ◆

アリューゼの城を退出した後、オレたちはまず聖都バプティスへ向かうことになった。バプティスには全僧侶を統べる教皇がいるから、そいつに女王から聞いた話を伝えてアリューゼの罪をなかったことにすりゃいいんじゃねえかっていうのがオレたちの考えだ。
「俺達ではないだろう。リミュニアの言だ」
チッ。起きてやがったのかよ。まあ、そういうわけだ。さすが僧侶って、この時は感心しちまったな。それに、アリューゼのことはもちろんだが、他にもローを消す必要性を訴える必要もあった。管轄は奴ら僧侶にあるからな。一石二鳥ってわけだ。
サイファーもルクレチアも、曲がりなりにも地位のある一族の出だ。ノアニールの名前を出し、教皇に直接の謁見を申し込むと、あっさりと許可は出た。僧侶の二人は問題ないとして、変な顔をされたのはオレぐらいだった。
思えばそこで疑うべきだったんだよ。
 オレたちはすんなりと教皇様にお会いすることができた。
 謁見の間に御出で下さった教皇様は、地位に見合ったでろでろと長い裾の御召し物をまとい、その玉座に座った。はるか高みにある椅子はここから見る限りでもこまかい装飾が施されてて、権力の威光をイヤでもこっちに刻もうとしているみたいで、吐き気がした。教皇の地位についた者しか座ることを許されないあの椅子、正義の御座と呼ばれるもんで、教皇府の権力の象徴らしい。聞いた話だがな。
現教皇の名は、ルートニア・セイドヴァン。
 礼儀作法に則ってお辞儀をしたルクレチアが教皇と話をした。というより、伝令みたいなもんだ。ルクレチアが語ったのは、まず指名手配犯アリューゼ・ペテルギルクについて。あいつが悪者じゃねえっていうこと。それに、ローという魔法は危険だから廃止しろっていうこの二つを教皇に伝えた。詳しい話はまた別の機会に、専門家にやってもらおう。下手にオレが口出しできる問題じゃねえしな。
 話を聞いた教皇の面ときたら今でも忘れられねえ。今は権力の上にあぐらかいてるただのおっさんだが、昔はすごかったらしいな。目が獣そのものだった。人一人の命くらいなんとも思わねえ、そんな気概さえ見えて、思わずゾッとした。まあ、その眼光の相手は、オレなんかじゃなくて、どう見てもサイファーだったけどな。どういう因縁だよ。
 んで話を聞き終えた教皇の周囲に控えていた僧侶が、そわそわしだした。無理もない、ルクレチアの言葉をすべて信じれば、この世はもうすぐ終わるんだからな。
 それなのに教皇ときたら、まるで話を聞き入れちゃくれねえ。まず事実こそが信じられねえのなら、まだ分かる。けど、あいつはそんなんじゃねえ。オレたちの言葉なんか最初から聞いてなかったんだ。
 そうして、ようやくオレは気付いた。遅すぎたけどな。気付いた頃にはリミュニアの奴が錫杖をルクレチアの頭に押し付けて動きを封じてた。一方のサイファーは、ハミルトに押さえられてたな。ちなみにオレは後からやってきた普通の僧侶に倒された。情けねえ。
 大量の僧侶に囲まれた時は、さすがにビビった。
 どうにもオレらは、はめられたらしい。わざわざ敵地の中心に迷いこんじまったわけだ。どうもリミュニアたちがくせえな。提案者だし。
 オレたちが男女別々に牢へ入れられていくとき、ルクレチアは教皇にこう聞いてたな。
 僧侶を束ねるあなたが、何故こんなことを?
 そして、奴はこう答えやがった。
貴様らの祖父、ヴィンセント・ノアニールは、我の仇敵よ。

     ◆ ◆ ◆

 それで、ここに至る。回想終了だ。
 武器も全部僧侶に没収されちまって、頼りの大剣士は目の前でお姉ちゃんがさらわれて失意の底にドボン。
「今すぐ黙らないと、殺すぞ」
 そういや、ヴィンセントがあいつの仇敵って、お前なんか知ってるのか?
「知ったことか」
 家族のお前でも知らねえとなると、こりゃ調べるのも大変そうだな。それより、こっから出る方法考えたほうがよっぽど建設的ってなもんだぜ。な、サイファー?
「黙れと言っているのが聞こえないのか。貴様の顔の横についているのは耳ではないのか」
 耳だろうがよ! どう見ても! てめえのそのヘンテコな喧嘩の売り方は、相変わらず腹立つんだよな!
「喚くな。黙っていることも出来ないのか、貴様は」
 ああ?
「おい、騒がしいぞ、何をしている!」
 喧嘩だよ、わりぃか!
「悪いに決まっている! いいから静かに……!」
 ガンッ!
 お、おう? どうしたんだよ、おい。何でいきなり倒れてんだよ。おーい、大丈夫か?
「まったく、少しは静かに出来ないのか、あなた達は」


 ケツの痛くなる牢屋から出たオレたち。
 助けに来たのは、なんと裏切り者二人組だったのだ。武器もありがとよ。
「あの時は本当にすまなかった。ただ、あそこで一網打尽になっては、こうして助け出すことも出来ないと思い、ハミルトと共謀して、捕縛させてもらった」
「僧正の言葉、信じてあげてくださいよ。……僧正が教皇の命令に背くなんて、普通はありえないことなんですから」
「そうだな、貴様はあの教皇を崇拝していたな」
「ああ。だが、今は迷っている。……いや、もうはっきりと言おう。先の言動から、私は奴を信じられなくなった。都合の良い話と笑うかもしれないが、今はベルたちを信じることに決めたよ。相変わらず、自分の意思と呼べるものは持てないままだが、それでも、意地を張って間違った正義を貫くのはやめようと思う」
 …………けっ。裏切り者のくせに。
「僧正のこと、それ以上悪く言ったら、どうなるか分かってんのか?」
 な、なんだよ! やんのかよ! やらねえよ! ごめんなさい!
……そんじゃ、気を取り直してサイファー姉を探すか。
「どこを探すつもりだ」
「む……さすがにそこまでは探れなかった。ここまで来るのにも、何人か物理的に黙らせてやっと来たほどだからな。余裕がなかったのだ、すまない」
 なんだ、辛気臭い空気流れてんな。そんな難しいことでもねえと思うんだけどな。
「は?」
東の方にいるだろ。だって、オレたちが連れて行かれたの、完全に逆の方角だろ。あっちの扉から行けるのは、教皇府の中では東塔しかない。で、さらに東塔っていうのは重要人物の接待に使われる部屋が多いから、人を閉じ込めて置けるのは地下にある物置くらいしかないだろ。
「……」
その物置の入り口にも、錠前がかかっているはずだが、リミュニアたちがいれば大丈夫だろ。他の僧侶が見張りしてるだろうけど、それはオレたちがどうにかすんだろうし。ただ脱出する時が一番問題だな。東塔っていうのは、そこから直接外へ出られねえ。一旦大聖堂へ出ないと、出口がない。
「バートレー」
 あ?
「お前……此処へ来たことがあるのか?」
 ねえよ。
こう見えて、オレは記者だぜ? 見習いだが。一番飯の種になるのは、地位の高い人間の記事。教皇府のネタも今までにいくつか読んだんだよ、外国からの使者のインタビューとか。だから、国内の大きな施設の間取り図って言うのも大抵頭に入ってる。ははん、どうだ、見たことか。
「だったらもっと早く言え!」
「なんだ騒がしいな」
 ドス……!
 お、お前、今の、死んだんじゃねえか?
「柄で殴っただけだ、死にはしない」
 そうなのか……。
「さて、ルクレチアのところへ行くか」

     ◆ ◆ ◆

 ここ、本当に教皇のアジトなのか?
「アジト……。いや、何も言うまい。……そのはずだが? どうしたバートレー」
 いや……それにしちゃ、人がいなさすぎじゃねえか? 牢屋の前では何人か倒したけど、それっきり誰とも会わずに教皇のいた部屋に進めてるだろ。これってなんか出来過ぎじゃねえかなって。
「むむ、確かにそうだな……」
「待ち伏せでもされているんだろう」
「だったら、正面突破はやめますかい?」
 そうしたほうがよくねえか。ここで待ち伏せされてて一網打尽、なんて笑えねえぜ?
「なら、ルクレチアのところに行く道があるのか?」
 いや、知らねえ。……ああ、お二人も知らねえのな。とほほ。
「決定だな、正面突破だ!」

 バタンッ!

 そんな勢いよくドア蹴破る必要ねえだろ!
 ほら見ろよ大勢僧侶がいらっしゃるじゃねえか! みんながみんな火球出してやがるじゃねえか! 今から謝ったら許してもらえねえかな!
「いや、私に聞かれても困る。……まあよくて極刑だろう」
 よくねえよ! うわ、撃ってきたぞ!
「下がって勝手に喋り続けていろ、貴様は」
 おう、サイファーが頼もしい。よし、任せろ。お前の勇士は必ずオレが全世界に広めてやるからよ。安心して戦いな。
「むむ、うるさいから下がっているよう言わ
(…………………)
 あんまり火球がうるさいんで場所を移したぜ。今は教皇の奴が偉そうにふんぞり返っている玉座のある、ああ、そうだ、謁見室に来ている。部屋に入ると、大量の黒服がオレ立ちを出迎えやがった。全員僧侶だ。連中は火球を錫杖を飛ばしてきたが、サイファーとリミュニアがどれもこれもことごとく撃ち落とすもんだから、危険もなにもりゃしねえ。
 だが、オレたちは踏み込めずにいる。
 そこを説明しねえといけねえよな。
「ヴィンセントの孫に、裏切り者の僧侶が二人か……。くくく、馬鹿な連中だ。我に手出しなど出来るわけがなかろうて……」
 教皇は、玉座に座って高見の見物だ。今すぐにでもぶん殴ってやりてえとこだが、そうもいかねえんだ。
 ルクレチアが、人質にとられてるからな。ルクレチアは今教皇の傍で三人の僧侶に錫杖で床に押さえ付けられている。ここに来るまでにだいぶ抵抗したらしくて、怪我がひでえ。
「ルクレチアを、離せ! このクズが!」
 サイファーの野郎、あんなに怒ってやがる……。
「吠えるだけしか出来ない無能はこれだから困る……」
 ほんと、どうにかしてぶん殴れ
「教皇!」
 っと、そうだ。オレはこの状況を残さねえといけねえんだ……。
リミュニアが教皇のところへ駆け出した。火球を器用に避けてるが、数発は当たってるな、ありゃ。無茶にもほどがあるだろ。
「何故、あなたは歪んでしまった! いや、いつから歪んでいた!」
 火球を弾きながら、リミュニアは玉座までの階段を進んでいく。行けるんじゃねえのか、これ。相手もルクレチアに手を出さねえ。もしかしたら、出せねえ事情でもあるのかもしれない。
「歪み? 我は変わらんぞ。ずっと、我は、怨みのままに生きている」
 笑った? 何がおか
「ぅぁあぁぁあ!」
 な、なんだ! 
あ、あれは……ルクレチアの、肩に……錫杖が、突き刺さってる……? 嘘だろ、なんで今さら手を出すんだよ。普通なんか言ってからだろ……。ああ、リミュニアも足を止めちまった! バカヤロウ! そんなとこで止まんな!
「我の駒になれぬ者など、いらんわ」
 リミュニアに、教皇が剣を振りかざした。やばい、あいつ動けないでいやがるのに!
「!」
 え?
 今、ハミルトが……。

「ハミルトォォォ!」
 ……リミュニアをかばって、ハミルトが、斬られた。そのまま階段を転がって、リミュニアも、それに巻き込まれて……。おいおい嘘だろ。死んでねえだろうな、おい。
「ハミルト、しっかりしろ!」
「だいじょうぶっすよ……。僧正、無理しないで、くださいよ……面倒、見切れません、から……」
「嫌だ、やめろ目を閉じるな! 目を開けてくれ、ハミルト!」
「邪魔だ。さっさとそいつを退けろ……」
 サイファーが、倒れ込む二人を見下して言いやがった。あいつ、正気か? この状況でかける言葉じゃねえだろう。いや、あいつの悪態なんざどうでもいい。今はそれより、火球をどう防ぐ、か……。
 あれ? 火球がやんでいる?
 おいおい、なんであいつら攻撃やめてんだよ。ていうかどこ見てんだ。そっちにいるのは、お前の獲物のサイファーじゃ……。
「…………」
 ……あいつ、なんて目をしてやがるんだよ。あんな恐ろしい目してるやつ、誰も攻撃できるわけねえだろ。命投げ出すようなもんじゃねえか……。
「何をしている! さっさとこいつを始末しろ!」
 無駄だろ、教皇。オレだって絶対に動きたくねえよ。はは、声が震えちまって申し訳ねえ。でも、ムリだろ? 喋れてるだけ立派なもんだぜ。いや、むしろ、喋ってねえとどうにかなっちまいそうだ。
「ええい、貴様らがやらんのなら、我が直々に成敗するのみだ!」
 恐い者知らずの教皇がサイファーに歩み寄りやがる。あの野郎、階段降りるときにルクレチアを見てにやつきやがった。いつでも殺せるってことかよ、ちくしょう。これじゃ結局状況変わらねえじゃねえか。
 教皇がサイファーの前に来やがった。
「いい目をしている……!」
 教皇がサイファー目がけて剣を振り下ろした!
 あの野郎、防ぎもせずに喰らいやがった……! 何してんだよ! それくらい避けれねえお前じゃねえだろ! ……人質とられてるから、動けねえのか? そんなのってねえだろ。お前ほどのやつが、そんなやつに……。
「貴様を見ていると、ヴィンセントのことを思い出して、虫酸が走るわ……!」
 また、サイファーに剣が振り下ろされた。血が、飛び散る。なのに、あいつは倒れない。ふらつくくせに、倒れやしねえ。ただ、まっすぐに教皇を睨んでやがる。
 見てらんねえよ。
 ルクレチアも、項垂れて顔を上げやしねえ。
 どれほどだよ。
 どれほど辛いんだよ。自分のために傷つく弟を見るのは……。傷ついた人を助けられねえのは、どれほど辛いんだよ……。
 教皇! なんでてめえはそこまでできんだよ! 仇敵の孫だからってなんで!
「我の生は、この瞬間のためにあったからだ」
 どういう笑い方してやがる、あの野郎。
「龍戦争のとき、我が両親は英雄の手で殺された! 兄弟も殺された! 大切な友人も、村の優しい大人たちも、皆ヴィンセントの手によって殺されたのだ!……我は、愛する人の全てを失ったのだ」
 ……戦争、か。
 味方の英雄は敵の悪魔、というわけだ。ヴァレアの覇権をゆるぎないものにした天才的な刀使い、ヴィンセント。彼があがめられていると言うことは、つまり彼に殺された多くの者がいるということだ。
「我はこの機会を待っていた。ノアニールの血筋を断ち切れる、この瞬間を。我の命は、ただ憎しみによって動いていた。いいや、恨みが我を支えてくれたのだ。そういう意味では、我はヴィンセントに感謝すらしている。奴が一介の名もなき兵士で、戦中に平気で落命していたとしたら、我はきっとここまで生きてこれなかっただろう」
 ……狂ってやがる。何を言ってんだ、あんたは。
「人を突き動かす原動力は、麗しいものばかりではないということだ。恐怖。苦痛。そして怨恨。強い感情は、それだけ強さとして人間を助けてくれる。我が生きてこられたのは、そして教皇にまで昇り詰められたのは、ひとえに『恨むもの』としてヴィンセントが存在したからだ」
 ん? ぴたっと教皇は剣を止めた。
「だから、これは我からお前に送る恩返しなのだよ」
 にたにた笑ってやがる。こいつ……どういうつもりだ!

「逃げても、よいのだぞ」

 なん……だと? 血まみれで、顔を上げるサイファー。
「姉を見捨て、逃げるがいい。我は反逆罪により貴様の姉を処刑しよう。恨みを募らせるがいい……追いはしない。逃げてそして、我を怨め。恨みは人を強くする。我もヴィンセントへの恨みの気持ちでここまで生きてこられたんだ。お前に我を怨ませてやるのは、せめてもの恩返しだ」
 こいつ、本気で言ってやがる。目が本気だ。こいつはヴィンセントのことを怨んでいる一方、本気でヴィンセントに感謝してるんだ。教皇の中では、この正義は成り立っている。
「サイファー。逃げなさい」
 教皇の下で、ルクレチアがか細く叫ぶ。
「勝ち目の無い戦いで命を捨ててはいけない。私はいいから、逃げなさい! それでお前の命が救えるのなら、私は死んだって構わない。お願いだから……逃げて!」
 ……ああ、そのときだった。あれだけ景気良くぶった切られていたサイファーの顔が、突然表情を変えたんだ。
「たわけが」
 サイファーは……笑っていた。
「貴様は、阿呆だ」
 彼はつかつかと教皇に近づいて行く。「お、おい。それ以上近づくな!」
「黙ってろ」
 サイファーは話を聞かず、ルクレチアの前に立つ。そしてそのまま、手を振り上げ、

 ぱちん。

 はたいた。……ルクレチアを。
「いいか、たわけが。俺の尊敬する人の言葉だ。『お前を愛する人がいる限り、お前に死ぬ資格は無い』。だからルクレチア、貴様には生きる義務がある。俺がいる限りな」
 サイファーは言葉の末尾と共に懐に手を入れていた。引き出したのは、古びて錆が浮いた刀の柄の部分だ。
「うん?」
 それを見た瞬間、記憶の端が妙な音を立てて震えた。
 どこかで、見覚えがあるような。そう思って、オレはふと考えた。そしてはっとした。
……ノアニール家の受け継ぐ刀、タタガミ。それと対をなす、一振りの魔刀の存在。
 刀の頂点を争う、二振りの刀の話だ。白剣タタガミと、その宿敵、黒剣カラスバ。どの時代にあっても刃を交え続けてきた二振りは、数多残る物語の中で、よく善と悪に例えられる。子供の寝物語に母親が語る、その中でタタガミは善、カラスバは悪という不動の位置を保ってきた。しかし誰もが知っている。その伝説は単なる御伽噺ではないと。
善をつかさどるタタガミは五十年前の龍戦争において、実際に英雄の片腕となり世界を救ったのだ。
そしてその英雄こそ、……ヴィンセント・ノアニール。
 タタガミは代々、ノアニール家が守っていると耳にしたことがあった。しかし、そのノアニール家の名を冠するサイファーが今、手に持っている柄の色は、赤い錆が浮いているが、紛うことなく黒だ。
 サイファーを中心にして風が起こった。ぐん、と一周した風の中で、柄からは黒い刃がじわりと湧いて現れる。
 間違いなかった。あれはタタガミではない、カラスバだ。
「どういうことだ!」
 教皇も飛び出さんばかりに目を見開いている。
「お前はノアニールの者だろう!」
「ああ、そうだ」
 風の中から一歩踏み出す、サイファー。彼の手には巨大な刀が握られている。
「俺はこの刀を手放すために旅をしていた。一年前、俺はノアニールの一族でありながらカラスバを抜いてしまった。本来ならタタガミの保持者であるべき俺が」
 刀は、通常の剣と違い持ち手の魔力を媒介に刃を構成する。よって剣と持ち手との関係は分かちがたく密接だ。いったん自分の手で抜いてしまった刀より他の剣を抜くことはできなくなる。つまり、カラスバを抜いたサイファーはタタガミを持つことができなくなってしまったのだ。
「しかしな。一年、カラスバを抜かずにおけば刀の効力は切れ、俺はタタガミを持つことができるようになることを知った」
 それはノアニールとしてのサイファーの義務だった。彼の一族が守るべき正義は、善の剣によって成さねばならないものだったから。
 そのために今まで、カラスバを手放すため旅を続けていたと彼は言った。そこまで思ってオレははっとする。
「サイファー……」
 弟の名を呼ぶリミュニアの声が濡れていた。
 ―――今サイファーは、カラスバを抜いているのだ。それはつまり、……
「愚か者だな」
 教皇が、じわりと脂汗を浮かべながら笑った。
「自らタタガミをあきらめたか」
「それより大切なものがあるさ」
 サイファーはゆっくりと剣を掲げた。周囲の魔力が剣の周りに集まる。その気配はまさしく、伝説に歌われる刀の力だった。
 じりじりと後ずさる教皇に、もはやなすすべはなかった。
 サイファーは哀しい目に決意の色を浮かべ、はっきりと言う。
「俺は自分で決めたんだ」
 刃が振り下ろされた。

     ◆ ◆ ◆

 ルクレチアを助け出し、教皇府から出た三人は無言で旅路を急いだ。窮地は脱したものの、やるべきことは膨大にある。ともかくはアリューゼを追うこと。
「……よかったのか」
 ぽつりと、ルクレチアが呟いた。
 色々と言葉を省略した文章ではあったけど、サイファーには通じたようだ。
「いい」
 それよりも、と教皇府を振り返る。
「どうなるか、が心配だな」
 結局サイファーは教皇を殺してはいなかった。なんだかんだで甘い男だ。このままだと彼が目を覚ました時、またオレたちは追われる羽目になる。
 ……と、思うだろう?
「ふふん」
 オレはポケットから小さな機械を取り出した。
 目を見開いてルクレチアがそれを凝視する。
「それ……小型録音機ですか?」
「そのとーり」
 カチ、とスイッチを入れると、教皇の台詞が流れてきた。『恨みは私を強くする……』
「教会を私情で動かしていたいい証拠でしょ。やるからには、ちゃんとここまで根回ししないと」
 姉弟が顔を見合わせて笑った。世界中の僧侶を束ねる教皇があんな男だというのは、やはり見逃しがたいものがあったのだろう。
 正義の御座は、ふさわしき者のための権威なのだ。
 そして、
「……」
 サイファーの腰にある刀の柄を見やる。

 ―――悪の象徴カラスバが、英雄の剣として語られる日も、そう遠くはないのかもしれない。

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