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第二十四章 雪山の城

 

 

 

 宿場町での上演から十二日後。
 あなたたちが船を降りると、そこは一面の白銀の世界でした。少しずつ起伏のある丘陵に雪が積もり、少し先の状況もわかりにくいほどです。
――――ここが、自分の最後に消えた地か。
「絶対、アリューゼの手がかりはあるはずだよ」クラリスがいつものように、何の根拠も無く言い切ります。「がんばろ、アリューゼ」
 あなたたちは振り返ると、甲板で手を振る一同に手を振りました。
「あんたたち、無理すんじゃないわよゥ!」
「うん! ありがと、船長!」
 クラリスは大きく手を振り続けています。その隣で、あなたは皆の中からデイヴの姿を見つけると、声を張り上げました。
――――デイヴ!
 あなたの呼び声にデイヴが顔を向けてくれます。
――――自分は、自分にしか出来ないことをする! 与えられたものを、返す生き方をする! デイヴのように、自分のことは、自分で決める! 美しく、生きる!
 その言葉に、皆が目を丸くします。
 しかし、言葉を向けられたデイヴは、笑っていました。耳にうるさい高笑いをし、笑いすぎて流れ出た涙を拭い、彼女らしく言い放ちます。
「……これは、美しい君達へ送る、ボクからの手向けだ。受け取ってくれ!」
 デイヴはそう言うと、一冊の魔法書を開きました。唱えたのは『バニング』。確か舞台装置で何度使った、爆発を引き起こす魔法だったはずです。
 空中へ放たれた火炎はある一点で完全に制止し、弾けました。
「わぁ……!」
 クラリスが感嘆の声を上げます。他の面々も思わず声を上げていました。
 炎は軽い衝撃音と共に弾け飛び、晴れ渡る空に美しい真っ赤な花を咲かせたのです! それは一瞬のことで、すぐに形は失われて海の中へと姿を消してしまいましたが、この光景はいつまでもあなたたちの脳裏に焼きつきました。
 宙に停滞する煙を引き、船は出港します。
 甲板に乗り出してきた船長たちが大きく手を振ります。クラリスも、あなたも負けじと手を振り返します。劇場船が河を曲がり見えなくなるまで、手を振り続けていました。
 騒々しい日々の一つが、終わりを告げたのです。

     ◆ ◆ ◆

 あなたたちはそれからきっかり三日間、雪山の道を歩き通しました。雪の勢いが弱かったことが幸いしたのか、山道に手こずるようなことはありませんでした。それに、劇場船を降りる際に劇団の皆から防寒具を貰っていたので、装備にも問題は発生しなかったのです。本当に彼らにはいくら感謝してもしきれません。
 この日も、特に目立った変化は見られません。
 初日同様、真っ白な毛に覆われた大猿の群に襲われているだけです。
「愚弟! そっちに行きましたわ、よ!」
 ルクレチアが正面から殴りかかってくる大猿の体を槍で受け流しながら後方で戦うサイファーの元へ投げ飛ばします。その際に回転した槍の刃で傍にいた大猿を蹴散らします。
「貴様がこっちに投げ込んでいるんだろうが!」
 サイファーは前方から並んで襲いかかる大猿の腹を一気に切り裂き沈黙させると、横に薙いだ勢いを活かして回転して姉から放りこまれた大猿を右へと受け流しました。
「うぉい! オレんとこに飛ばすんじゃねえよ!」
 バートレーはそれをクライヤに喰わせて、直後に積雪の深い地面めがけて勢いよく吐き落としました。一体だけが相手であれば無敵の武器クライヤは滅多に役立ちません。
「騒がしいぞ! 少しは落ち着いて戦えんのか!」
 リミュニアは銀色の鎌を振り回し、周りの敵をどんどん切り裂いていきます。
「僧正も、もうちょいクールダウンしてくだせえ」
 ハミルトはリミュニアの鎌の餌食にならないように距離を保ちながらリミュニアの隙を狙おうとする大猿の脳天に錫杖を振り下ろしました。彼の魔法は、錫杖の先端の輪に当たったものに衝撃を与える、というもののようです。ハミルトの一撃に大猿は堪らず雪の下へと身をめり込ませて消えました。あの威力はあなたは身をもって知っているので、笑えません。
「アリューゼ、行くよ!」
 あなたはと言うと、大猿の集団を『エアー』で浮遊させて身動きを取れなくしておりました。そして、等間隔に並ぶ大猿の中をクラリスが飛び回ります。一番低い位置にいた大猿の背を蹴りながら斬りつけ、次の大猿の肩に足をかけてまたもや斬りつけ、また次の大猿、と言った様子で斬撃を繰り返します。そして、直後には大爆発が生じました。『イクス』の魔法は、最初の暴発などすることはありません。
 その爆発が大猿との戦闘に終わりを告げました。
 当然ながら、誰も怪我などしておりません。厚い防寒具のせいで動きにくそうではありますが、まったく戦果に影響はないようです。ただ、戦闘が終わる度に困った問題が発生します。
「貴様! 何故隙あらば俺を攻撃する!」
「姉と弟の適切な触れ合いよ。我慢なさい」
 二人が喧嘩をするのです。
 最初こそ心配していた一同でしたが、いつの間にか放っておくのが当たり前になっておりました。ちなみに、バートレーは最初からノータッチでした。バートレーはサイファーとルクレチアと共に行動していた時間が長かったためか、慣れているようでした。
「まったく、緊張感のない連中だ……」
 リミュニアとは、まともに話していません。
 時折こちらの様子を窺う目には、あからさまな敵意は見られません。サイファーとルクレチアの話を聞いてからというもの、あなたにどう接してよいのか分からない様子です。ただ、こちらはこちらで喧嘩が勃発したりします。
「これだから、アウトローと行動を共にするのは嫌なんだ」
 今日も始まりそうです。
「だからさ、そういう言い方はないんじゃないの?」
 リミュニアの憎まれ口に、クラリスが見事に引っかかります。そしていつものように僧侶とアウトローの無意味な喧嘩が繰り広げられるのです。あなたとハミルトはそれをただただ眺めているだけです。いつも勝手に終息するので、特に気にもなりません。
 しかし、今日ばかりは様子が違いました。
「犯罪者を野放しにするようなアウトロー、信じられるものか!」
 この日はいつにも増して興奮し過ぎたのか、リミュニアらしからぬ暴言でした。この発言にはさすがのクラリスも子供みたいに怒ったりせず、表情を冷たいものへと変えました。その変容にリミュニアも自らの失言を恥じたのか、怯えた表情になり、顔を逸らした。その先で、あなたと目が合います。
「……謝らんぞ」
――――ああ。
 リミュニアにはリミュの信じる正義があります。譲れないものがあるなら、あなたがどうこう言うべきではない、そう思いました。
「まだ整理がついてないんだよ、うちの僧正」
――――分かってる。
「そりゃありがたい。……君らが指名手配されたときの僧正の顔、見せてやりたいよ」
 ハミルトは、無気力な瞳でそう言うと、一人で勝手に進んで行くリミュニアに追いつき、並んで歩き始めました。そんな二人を見て、あなたもクラリスを連れて先を行きます。喧嘩している二人とバートレーはその後に続きました。

 数時間後、明らかにいつもと異なる事態に陥っておりました。
雪が、明らかに量を増しているのです。開けていた視界は白い闇に覆われて見通しが悪くなる一方です。吹雪く風はおもりのようにまとわりつき、運ぶ足を重たくします。歩くのが精一杯といった状況ですね。
「アリューゼ、急いで。これ以上雪が強くなったら進めなくなっちゃうから、動けるうちに進んでおこう」
――――そうだな。
 それから幾分も歩かぬうちに、雪は凄まじい勢いにまでなっておりました。もう、前が見えないほどです。
「これ以上動くのは、危険ですわね」
 ルクレチアがそう言いました。
 その意見には誰もが賛同し、先を急いでいたクラリスも、リミュニアも一旦足を止めました。
 そのとき、あなたはふと足元を凝視して、固まりました。
「おう、どうした、アリューゼ」
 バートレーがあなたの隣に並び、俯くあなたの背を軽く叩きます。
――――この景色。見覚えが、ある。
 えっと声を上げるバートレーの手を振り払い、あなたは駆け出しました。後ろからクラリスたちが何か言っているようでしたが、そんなことを気にしてはいられません。足を積雪に取られて何度も転びそうになりますが、それでも進みます。
――――そうだ。自分はこの道を登った。誰かに連れられて、ここを通っていた。
 あなたは雪を振り払い、ただ自分を呼ぶ記憶に従って走り続けました。
――――あのとき自分の手を引いていたのは、老人だった。自分が行かなければ、世界は火に包まれてしまうと、彼は言っていた。
 既に疑問の余地はありませんでした。この道、この景色、この空気。あなたは、ここに来たことがあるのです!
――――そう、この先に真っ黒な城が……
「危ないっ!」
 クラリスの声に気づいたときには、手遅れでした。
 目の前に、巨大な闇が現れたのです。
 それが何であるか、あなたは理解出来ません。いきなりのことに身動きが取れなくなったあなたの元にルクレチアの声が投げかけられます。
「『ボルテク』!」
 蒼白い閃光があなたの身を掠めて目の前の闇に穿たれます。光が発現したことで闇の正体があらわとなりました。
 口です。巨大な口があなたを呑み込もうとしていたのです。豪雪のせいでよく見えていませんでしたが、あなたの身を優に上回る巨獣が大きく開口して待ち構えていたようです。しかし、背後から放たれた破壊の雷撃は予想外だったようで、巨獣の内部に電撃がほとばしり、聞くに堪えない痛ましい悲鳴を上げながら巨体は後ろへ倒れ込みました。そうしてようやくあなたの視界には白が戻るのです。
 しかし、完全に危機が去ったわけではありません。
 周りを見渡すと、仲間が見えません。代わりに視界の中で蠢くのは先程の同系統の数々の暗闇でした。どうやら、一体ではなかったようです。どういった形状をしているのかよく分からない敵に対して、あなたは戦法に迷いました。
「こいつらには近づくな!」
 声を飛ばしたのはリミュニアでした。
「ユキノクチは雪の中に本体を隠す巨獣だ! 迂闊に近づけば雪中に隠している手に捕まって食われてしまう!」
 つまり、現場まともに戦えるのは遠距離から敵を攻撃出来るあなたとルクレチアだけということになるのでしょうか。いえ、僧侶というものは誰もが基本的に火球を放つ魔法は扱えるようにされているようです。とは言え、二人は滅多に使わないので、あまり効力はなく。やはりまともな戦闘が望めるのは、あなたとルクレチアだけのようです。
「『ボルテク』!」
 ルクレチアは既に応戦しているようです。
 ユキノクチの悲鳴が耳に響きます。
 あなたも『ラトニグ』や『トール』で周りの闇を片っ端から打ち砕いていきます。皆は無事でしょうか。視界を覆う雪がこれほど煩わしく感じたときはありません。
 しばらく敵の数を減らしていると、巨獣とは違った人影が飛び込んできました。
 リミュニアです。
 見ればユキノクチの巨大な口から逃れている最中のようです。こちらから近づかなくとも相手も待っているばかりではありません。注意していても接近されることはあるのです。
 あなたはすぐに意識をそちらに向け四筋の雷撃を飛ばしました。曲折しながらそれらはリミュニアを避けてユキノクチの口に吸い込まれていき、悲鳴に変わります。
 目の前の脅威が去り、リミュニアが錫杖を一旦降ろし、こちらに向き直ります。
 こんな時でも相変わらず目を見ようとはしてくれません。
「た、たすかった。感謝する」
 それでも、感謝の言葉を聞けただけ良かったと考えるべきでしょうか。
 あなたがその返事を言おうとしたとき、脅威が現れました。
 リミュニアの背後に、今までにない巨大な暗闇が現れたのです。いったいどこにその巨躯を潜めていたというのでしょうか。そんなことを考える時間などありません。錫杖を落としたままのリミュニアはまだ気付いていません。助けられるのは、あなただけなのです。
 あなたは破壊力の高い『トール』で対処しようとしましたが、それにはリミュニアが邪魔で放てません。巻き添えにしては意味がないのです。次いで『ラトニグ』ですが、これもまたリミュニアに当たらないとは限りません。他の魔法ではあの巨躯を止められないでしょうし、あなたが取れる行動一つしかないのです。
――――リミュニア!
 あなたが叫ぶ頃にはリミュニアも自身に迫る危機に気付き振り返るところでした。しかし、それでは遅いのです。既にユキノクチは口を閉じようとしているのですから。
 あならはリミュニアに手を伸ばし、余裕のある袈裟の裾を掴んで彼女の身を思い切り引き寄せました。思わぬ方向からの力により、リミュニアの身はあっさり引っ張られ、あなたは逆に前へと強く踏み出し、立ち位置を入れ替えました。
 そして、雷撃を放ちます。容赦のない『トール』の一撃を。
 閃光は頭上から振り下ろされ、大地が振動します。
 今までにない鼓膜を破るかのような悲鳴が響き渡り、あなたは身を竦めますが、その身に予想外の衝撃が襲うこととなるのです。
「アリューゼ!」
 クラリスの声が、耳に届きました。
 何を焦っているのか、あなたは気付くのが遅すぎました。あなたはユキノクチを倒すのに夢中になるばかりに、地形をまるで把握し切れていなかったのです。あなたが今まで戦っていたのは、崖の上だったのです。そして、あなたの足場ごと砕く一撃は崖の一部を抉ってしまい、連鎖的にあなたの足場さえも奪ってしまったのです。
 あなたは、切り立った崖から落ちてゆきます。事態を把握した頃には、あなたは重力に従い、谷へまっさかさまに落ちて行きました。
 そのとき、誰かの悲痛な叫び声が聞こえました。

     ◆ ◆ ◆

 あなたが目を覚ますと、そこは薄暗い洞窟の中でした。見れば、遠くから光が差し込んでいます。どうやら雪は止んだようです。
 見れば、あなたの周りで仲間たちは眠っていました。焚火を中心にして皆が毛布にくるまっています。あなたの身にも同様の毛布がかけられておりました。あなたははっきりとしない頭を抱え、思い返します。
――――確か、崖から落ちたはずだったが。
 誰かに尋ねようかと思いましたが、一行を起こすのはためらわれました。そして、見渡すうちに気付いたのですが、どうも人数が合いません。あなたのすぐ隣で丸まって眠るクラリス。隣り合って眠るノアニール姉弟に、寝相の酷いバートレー、膝を立てて座った状態で項垂れるハミルト。やはり二人いません。リミュニアがいません。
あなたは不安になり一人起き上がると、洞窟から外に出てみることにしました。

 外はすっかり晴れており、一面の銀色に朝日が反射して眩しいくらいです。
 しかし、あなたの目を引いたのは、目前にあった巨大な建造物でした。城、です。真っ黒な城が、谷の底からそびえていたのです。
――――ここに来たことがある。何かの目的があって……。

 あなたたちが夜を越した洞窟は、崖のふもとに小さくあいた横穴でした。あなたは後ろの崖を見上げます。
――――ここから、落ちたのか……?
 崖の切れめを見つけようとしても、首が痛くなるほどの高度です。よくもまあ、無事だったのが不思議なくらいです。
「アリューゼ?」
 声に振り返ると、リミュニアが眉尻を下げた顔に目を丸くしてあなたを見ていました。良かった、無事だったんだ、そう思い頬を緩めたところに、リミュニアは駆けてきました。いったいどうしたのかと待ち構えていると、急にリミュニアはあなたの両肩に掴み、鼻がぶつかりそうになるくらいの距離に顔を近づけてきました。
「大丈夫なのか? もう、動いても大丈夫なんだな、アリューゼ!」
 ずいぶんと焦った様子で、あなたが答える間もなく「怪我はないか」「気分は悪くないか」「魔力は残っているのか」「怪我はないか」と同じ質問の混ざった言葉を投げかけ続けました。呆れたあなたでしたが、声が震えていくのに気付くと、力づくでリミュニアの動きを制しました。片手を掴むと、あっさり止まったのです。
――――大丈夫だ。リミュニアも、無事でよかった。
 出来るだけ微笑んだつもりでした。
 すると、リミュニアの表情から険が消えました。安心したように緩まります。
「そうか……よかった……」
 思ったより脱力の過ぎたリミュニアはがくっと倒れ込もうとしました。それをあなたは支えて、立たせました。
「すまない。ちょっと余裕がなかった」
――――珍しいな。いや、そうでもないか。
「アリューゼは、驚くほど以前と変わらないな」
 苦笑を浮かべ俯きます。
 そして、下唇を噛みしめ、意を決した様子であなたと視線をかち合わせます。
「すまなかった! アリューゼを悪と決め付けて、酷いことをした!」
 真っ直ぐな瞳を向けられ、思わずあなたは身を引いていました。
「教皇の行ないが、正しいのかどうか、まだ自信はないのだが……。少なくとも、私の正義は間違っていた。私は自分の正義を誰かにまかせっきりにしていただけだ。考えることをやめた、情けない選択だったと、今は恥じている。これからは、自分の目で、自分の耳で、自分の心で判断する」
 まだ震える声で必死に言葉を紡ぎます。
「そして、私はアリューゼを信じると決意した。助けられたことだけが、きっかけじゃないからな」
――――ありがとう。
 笑顔を交わした後、洞窟の中からクラリスが出てきました。
「あ、いた」
 クラリスはあなたたちの元へ近寄ってきました。
「その様子だと、ちゃんと仲直り出来たみたいだね」
「ああ。……クラリスも、すまなかった」
「いいよ。仲良くしてくれるなら、それでいいから」
 それから一言二言平和なやり取りが二人の間でなされ、リミュニアは洞窟の中へと戻っていきました。どうやら見張りのために表に出ていたようですね。そしてクラリスはその交替でやって来たようです。あなたは、クラリスと残ることにしました。
 クラリスが隣に並んで、崖を見上げます。
「アリューゼ、あそこから落ちたんだよ」
――――どうして無事だったんだ?
「『シールド』のお陰だね。あの高さから落ちても割れないなんて、どれだけ魔力あるんだろうね、アリューゼ。わたしたちがやったら衝撃に耐えられず『シールド』割れて死んでるよ?」
――――ごめん、軽率だった。
 あなたが謝ると、クラリスはあなたとすれ違うように並び、黒い城を見据える形になりました。
「……昨日のアリューゼ、怖かったよ」
――――え?
「わたしの知らない人みたいだった。わたしの知らない道を、アリューゼが知っているなんて初めてだったから」
 あなたは向き直り、クラリスと視線を並べます。
――――まだ、記憶は戻ってこない。でも、断片的には見えてきている。
 自分では無いみたい、ですか。
 あなたはそう言えば、と隣の少女に目をやります。あなたよりも頭一つ分背の低い白髪の双剣士は、いつもあなたの前をゆき、あなたを導いてくれていました。それなのに、昨日のあなたはどうだったでしょうか。
 あなたの前には、かつて知っている道があったばかりでした。
 相棒は、あなたの背を追ってきていたのです。
 それは小さなことですが、同時に大きな出来事でもあったのではないでしょうか。
――――クラリス。
「なに?」
――――記憶が戻ると、今の自分は、どうなってしまうんだろうな。今の記憶は、消えてしまうのかな。
 それは考えたこともないことでしたが、気づくと恐ろしい疑念でした。
 クラリスは、あなたのことを信じてくれています。しかし、自分の記憶が完全に戻ったとき、その自分は、自分なのでしょうか。デイヴに誓ったように、自分を決めるのは自分でしょうが、それは記憶を失ったあなたの話です。
 今更ながら、ドリアデスを出たときにサイファーに言われたことが反響します。
記憶を取り戻した自分は、もしかしたら、クラリスの背中を追っていた自分とは違う人間になってしまうのかもしれません。いいえ、それだけではなく、教会の発表通り、人の命などなんとも思わぬ凶悪な咎人になってしまうのかもしれないのです。
――――今になって、怖くなってきたんだ。記憶を、取り戻すことが。
 あなたがそう言ったとき、クラリスはつま先立ちになり、あなたの頭に手を置きました。
「大丈夫。ぜったい、大丈夫だよ」
 彼女は自信たっぷりに、断言します。
「アリューゼがわたしのことを忘れても、わたしが思い出させてあげるから」
 その根拠はいったい何なんでしょうか。いいえ、きっと何も無いのでしょう。あなたはほとほと良い相棒に巡り合ったものです。
 と、そのときでした。
「これからも長い付き合いになるんだからさ、何回忘れても大丈夫だよ?」
――――そんなに忘れるつもりはない。
 笑い合います。
「くだらんことをグダグダと喧しい」
 振り返れば、寝起きで一層機嫌が悪そうなサイファーがいました。その後ろからぞろぞろと仲間たちが姿を現しました。
「記憶を取り戻すことが怖いなら、ここで待っていればいい。だが、ここで踏みとどまるような奴ではないだろう、お前は」
「素直に心配していると言えないのかしら、この愚弟。……まあ、私も意見ですわよ、アリューゼ。私達を信じてよろしくてよ?」
「何でこいつ上から目線なんだ……。アリューゼ、不安になったらドンとオレを頼ってもいいんだぜ! なんせあのユキノクチを倒したほどの男だからな、オレ様は!」
「あんた、どうして一体しか倒していないのにそんなに威張れるんだ。……ま、言うことは別にないけど、僧正が認めるほどの人だ、きっと思ったままに進めば間違うことはないよ。自信持ちなさい」
「うむ。良いことを言ったな、ハミルト。アリューゼ、私は君の味方だ。いつでも頼れよ。もし万が一正義を違えたならば、私が正してやろう」
 皆好き放題に言ってくれます。
 あなたとクラリスは目を合わせるとまた笑みを交わし合いました。
「いつまでも笑っていないで、さっさと飯を食え」
――――自分が記憶を取り戻したときの疑念は、サイファーの言ったことだろう。
「知らん。俺はリーダーの意向に従うまでだ」

     ◆ ◆ ◆

 見上げるほどの城門は、大きく開かれていました。
「アリューゼ、案内お願いね」
――――ああ。任せておけ。
 雪の吹き込むエントランスに足を踏み入れ、あなたは目を閉じました。
――――こっちだ。この先に階段がある。昇った先の廊下を越えれば、大広間があって、その向こうに玉座があるはずだ。
 あなたの記憶は、そこで途絶えています。

「しっかし、どうしてこんな人里離れたところに、こんなバカデカい城が建てられたんだろうな」螺旋階段を昇りながら、バートレーが呟きます。「そんな必要がある地形だとも思わねえんだけどよお」
「違うよ、バートレー」
 クラリスが疑問に答えます。
「ここは遺跡。古代レムリア文明のものなんじゃないかな」
「へえ、よくわかりますわね」
 いつものクラリスならば、ここでうんちくを嬉々として語りだすはずですが、今は小さく頷くばかりでした。
 階段を昇り切ると、見覚えのある廊下が待ち受けていました。まるであなたたちを待ち受けていたかのように、廊下の照明魔法が一斉に灯りをともします。
――――あそこだ。あの、一番奥の装飾扉。
 あなたは先頭に立ち、慎重に廊下を進んで行きました。幸いにして廊下では何も起こらず、一行は無事に扉の前まで辿り着きます。
 しかし、あなたが扉を開けたとき、そこで見たのは思わぬものでした。

     ◆ ◆ ◆

 大広間の床には、幾何学的な図形が、真っ赤な線でいくつも描かれていました。その合間合間には、細かな文字でびっしりと魔法式が書きこまれています。
 確かめるまでも無く、その線を描いているのは、血でした。
 そして血の臭いが充満する広間の中央には、一人の女がぼろきれのようなものをまとい、手首に鎖をつけられ、天井から吊るされていました。死んでいる? いいえ、あなたが近づいて行くと、その女はゆっくりと目を開けたのです。
 あなたはその瞬間、叫び出したいような衝動に襲われました。そこにいたのは、求め続けた自分だったのです。

『よく来てくれました、イリーガル・リクディムのみなさん……』

 細い、今にもちぎれそうな声で、女は確かにそう言ったのです。そして、彼女の髪と瞳は、あなたと同じく真っ黒でした。
『私は、アリューゼ・ペテルギルク』
 あなたの表情は茫然としています。
――――嘘だ。アリューゼは自分のはずだ。
『嘘ではありません。私は、アリューゼ・ペテルギルク。そして、あなたをここに招いた者です』
 そう言うと、私は鎖に繋がれたまま、小さく頭を下げました。

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