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序章

 

 諸君に問おう。色恋とは何ぞや。

 諸君に問おう。青春とは何ぞや。

 うつくしきものであろうか。素晴らしきものであろうか。高尚なものであろうか。否。私はそうは思わない。

 それは愚かしくも馬鹿馬鹿しい、一種の病気である。それは間違っても称賛すべきでも、推奨すべきでもない、実に情けなく恥ずかしくどうしようもないものなのだ。いいや、案ずるな。別段私は色恋を否定したいわけでも、また青春を謳歌する者をコケにしたいわけでもない。ただ推察を述べているまでで、他意は無いのである。

 そこでまた、諸君に問おう。病気は確かに苦しいものだが、その中にある一筋の悦楽を覚えたことは無いであろうか。風邪を引いて平日の昼間から布団に入る行為。日頃踏み込まぬ病院に足を踏み入れるときの胸の高揚。無いとは言わせぬ。

 果たして私は斯様に持って回った言い方で何を言おうとしているのか。つまり、病も渦中の者にとっては楽しいものになりうるということなのである。あわてて断っておけば、大病の場合はこんなことは言っていられない。私が言及しているのは数日寝れば治るような熱病の類である。つまるところ、傍から見ていれば馬鹿馬鹿しき色恋沙汰も、渦中の人には随分と重大な事項であり、同時になかなかどうして楽しいものなのである。

 

 これより記すは、私の従妹が大いに熱病を患った愉快な事件の顛末である。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 時は平成、梅雨明けの晩。

 その日私は自宅の屋根の上、胡坐をかいて月を眺めていた。隣家までは自転車で五分。田舎の山中では、夜空を汚す光は無い。薄雲の掛る晩夏の満月は、どこか物悲しく輝いている。

「風流であることだなぁ」

 用意した緑茶をすすり、私はボケラッタと夜空を眺めておった。こうも美しいと、私一人で独占するのは少々申し訳が無い。誰かに御同席願おうか。しかし父上は現在入浴中だったはずである。となると、私の同居人はあと一人しかいない。

 私は湯呑を置くと、屋根の上をそろそろと移動し、自分の部屋とは逆側に突き出すベランダにさっと飛び降りた。カーテンこそ閉まっているものの、窓は開いているな。私はためらい無くカーテンをがばりと開けた。

「穂波、暇かね。よろしければ梅雨明けの月見としゃれこもうではないか」

 朗らかに声を掛けると、部屋の主はきゃあと声をあげて飛び上がった。

「驚かせてしまったか? すまない」

「すまないじゃないでしょうが!」

 机に向かっていた彼女は、顔だけぐるんと回してこちらをキッと睨みつける。全く、そんな表情をせねば振り向かぬ者は無かろうという美人なのに、いつもぶすっ面だから勿体ない事この上無いのだ。美貌の不法投棄だと言っても過言ではあるまい。

 彼女こそ、我が自慢の従妹、雪村穂波その人である。

 胸元に小さなリボンがあしらわれたパジャマを身にまとい、彼女は溜息を吐いていた。肩よりも長い程度の長髪は、普段ならばつやつやとストレートで垂らしているのだが、今は一つに結わえている。湯上りの身体はまだほんのりと紅く、見ているこちらが照れてしまいそうだ。現に私は照れている。すっかり出るところが出た女性の身体は、二十歳の男には目の毒なのだ。

 わずかに目を逸らされたのも構わず、穂波は怒鳴り続ける。

「いきなり入るなって何度も言わせないで頂戴! どうして貴方はいつもそうなのかしら?」

「……ああ、そう言えばそんなことを言われたような気がする。申し訳無い、以後気をつけよう」

「その台詞も今週で三度目よ!」

 どうにも私は物覚えが悪くていけない。

「女の子の部屋に唐突に入るなんてマナー違反でしょう。入るならせめてノックをしなさい。女の子はね、見られたくないことだって多いんだから」

「お言葉だが、君は風呂を出た後そのまま寝巻になるであろうが。朝でも無いのに、部屋で着替えはしないだろう」

「見られて困ることと言って着替えしか思いつかないわけ!?」

 私はたっぷり十秒程度、大真面目に考えた。はたして、皆目見当もつかぬ。しかしこちらをぎらぎらと睨む従妹に詳細を聞くことは憚られた。見られて困るということは恥なのである。わざわざ口にさせることもあるまい。

「申し訳無い。忘れるまでは覚えておこう」

「もっときちんと約束して欲しいのだけれど」

 そう言われても、私は出来ぬ約束はしないのである。

 穂波はこめかみに手をやり、再び溜息を吐いた。まとっていた怒気がふわりと消えたように思う。

「もういいわ。……それで、何の用?」

「先ほども言ったのだが、本日は満月だぞ。月見をしまいか。風流だぞ」

「お月見? また貴方は、恰好ばかりつけて。もう少し内面から磨いた方がいいんじゃないかしら」

 確かに私は文化人を気取り、今も甚平に団扇という姿なのだが。形から入るのが私のやり方なのだ。昔の独裁者も言っていた。嘘も百度吐けば真実となるのである。たとえ苦味が不得手であろうが、毎日ブラックコーヒーを飲んでいればコーヒー大好きになってしまう。

 というわけで私は、月夜を見上げるような風流な人間になりたいのだ。今は、恰好だけだとしても。

「まあ、君の言うことももっともだ。これは恰好つけであるし、私の勝手である。よって君を無理に誘いはしないとも。邪魔したな」

 私は小さく肩をすくめて見せた。くるりと窓に向き直ると、後ろからばたばたと物音が聞こえる。ふむ、やっぱりか。

「だ、誰が行かないって言ったのよ!」

 全く、我が従妹は甘えん坊である。穂波は私の脇を抜け、さっさと屋根に上って行ってしまった。

 

 私も彼女の後を追おうと思ったが、電灯が点けっぱなしであることに気づく。電気代だってタダでは無いのだぞ。私は電灯を消そうと部屋の入口に向かった。

 そのときである。私は本棚に小指をひっかけ、しばし悶絶する羽目になった。いや、それはさして重要な問題では無い。問題は、そのとき落ちた手帳に、何やら大事そうに一枚の写真が納められていたことである。私と、親友である滝沢がツーリングに行った時の写真である。そう言えば、穂波にも一枚上げたのであった。こんなに大事にしてもらえているとは、結構結構。しかし、ふと気付くと、その写真と一緒に、何やら幾何学的な図形が描かれた紙片が挟まっている。

「これは何だったろうか。見覚えがあるが……」

 私は三秒考え、ぱたんと手帳を閉じた。わからぬことは考えても仕方あるまい。私は物覚えが悪いのだ。

「隼、どうしたの。人を呼んでおいて放置しておくなんて感心しないわよ」

「ああ、すまん、すぐに行こう」

 私は電灯を消し、屋根に戻った。

 

「……たまにはこういうのもいいかもしれないわね」

 先ほどは何やら不機嫌そうだった穂波であるが、今は煎餅を食べてご機嫌そうである。

「風流だろう」

「風流ね」

 私たちはしばし茶をすすり、静寂に身を置いた。聞こえるのは風が森を撫でる音のみ。随分と素敵な環境である。田舎の美しさを実感する瞬間だ。隣をふっと見ると、穂波がのんびりと月を眺めている。幸せだなあ。

 ……いや、待てよ。

 私はふと現状に疑問を覚えた。今年でようやく二十という若者二人が、こんなジジむさいことをしていていいのであろうか。もう少し青春に身を燃やすような何かをすべきではないのか?

 だがしかしBUT。いったい、何に?

 青春……青春か。いったい何をすれば良いのだろうか。私はぼんやりと純文学作品をいくつか思い出し、そこから一つの結論に達した。

 すなわち青春とは、恋愛である。

 色恋沙汰でああだこうだとわけのわからぬ悩みを持ち、好いた好かれただの、振った振られただの、すこぶるドーデモよろしいことに思考の半分を持って行かれる複雑怪奇なアレこそ、青春の象徴ではあるまいか。

 ……ううむ。青春したくないなぁ。

「穂波」

「……何?」

「改めて実感したよ。私は今が幸せである。こうやって、死ぬまで暮らしていきたいものだ」

「え」

 穂波はぽかんと口を開けておる。

 むう?

 いつもの穂波であれば、同意してくれると思っていたのだが……待てよ。彼女は私の向上心の無さに呆れたのではあるまいか。そこから導き出されるのは、この親愛なる従妹は私と違い、青春を生きようとして……

「ああ! 思い出した!」

「足場の不安定な場所で立ち上がらないで!」

 ごもっとも。一応二階建てのこの家だ。落ちたらタダではすむまい。

「全く、危ないわね。それで? 思い出したって、何を?」

「君の手帳に描かれていた図形だ……ああ穂波、立ち上がるな! ここで殴る蹴るの暴行はいけない! 危ないと言ったのは君だぞ!」

 あの図形。数日前に占い番組で恋愛運を向上させられるとかと紹介されていた魔法陣である。

 無論私は左様な非科学的なものを信じてはおらん。穂波もあのとき、特に興味を示していたようには見えなかったが……そこはやはり女の子ということなのか。

 ぽこすかと殴られながら私は納得し、頷いた。

 

 しばらくして。

 穂波が息を切らし落ち着いたところを見計らい、私は彼女の肩に手を置いた。

「やはり君も、年頃だということか。恋のおまじないとは少々子供っぽいとは思うが、その一途な想いやよし。決して恥じるようなことではないぞ。それで? 君は心に決めた相手がいるのかね?」

 満月の下、少女は頬を紅く染めた。それはそれは盛大に、はっきりと。こうまで露骨な反応をされては言葉はいらぬ。そもそも、私とて伊達に彼女と暮らしているわけではない。彼女がそんな態度を取っていることは知っていた。

「その相手が誰なのか、当ててやろう」

「そんなこと……隼の知っている人とは限らないでしょう」

「否。少々前から感づいていたのだ。君の視線は感じておったぞ。ずばり」

 私は前髪をかき上げた。

「私だな?」

 ……しまった、穂波は今にも叫び出しそうな形相になっておる。ふざけていい状況では無かったな。

「すまん、冗談だ。わかっているとも、君の想い人は滝沢であろう」

 そう言ったときである。

「は?」

 穂波の血相が変わった。彼女は私の肩を掴み、ガタガタと揺らす。

「……違うわ。全然違うわ」

 露骨だなあ。この慌て方を見るに、どうやら正鵠を得たらしい。

「ふふん、この私を相手に誤魔化しが通用すると思うなよ。照れる必要は無い。穂波、君は恥ずかしがるとすぐに耳が赤くなるな」

 そうだとも、あのオマジナイは好きな人の写真と一緒に挟むことで効力を発揮するという説明であった。

「君ほどの魅力溢るる女性が、何を臆病なことをやっているのか。この馬鹿者め。足踏みをしている暇など我らには無い。人生は有限である。命短し恋せよ乙女、ぼやぼやしていると賞味期限が切れるぞよ」

 私は彼女の手をがっしと取った。

「何をためらう。何ゆえ踏み出さぬ」

「それは」

 穂波は私の目から視線をそらし、夜の森へと目を向ける。

「……怖いから。どうせわたしは貴方とは違う臆病者よ。悪い?」

 こやつ、さりげなく滝沢が好きなことを認めたな。嗚呼、しかしこのいじらしさは何であろう。私は彼女の手をぶんぶんと振り、にやりと微笑んだ。

「ふふん。それでは、その頼もしき私が助っ人になってやろう」

「え……?」

「この牧野隼、愛する従妹の恋愛成就のためならばこの身を投げ出す覚悟もできているぞ。はっはっは、私の協力があればまさに百人力。大船に乗った気でいるがよかろう!」

「……貴方は恋愛経験が無かったはずだと思うんだけど」

「そんなモノ、あるわけなかろう。しかしながら、私には滝沢との友情、そして心の師匠から教わった恋愛指南があるのだ。オマジナイなどしているよりは、私の協力があった方が後々有利になるのは間違いあるまい。どうだね?」

 我が愛すべき従妹は、しばし口をぱくぱくとさせた後、小さく頷いた。

 そのときである。階下より、ガランガランとハンドベルの音が聞こえてきた。恐らく父上が風呂を空けたのであろう。

「よし穂波、行動は明日からだ。私は風呂に入ってくる」

 

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