第一章 蔦通りの魔女
「ねえ、ハギ」
ところはちいさな学校の食堂。窓の外には湖が臨み、穏やかな日差しが学徒たちを照らしていた。
「お前さ、デバッグしたことってある?」
身を乗り出しているのは、ひとりの男子生徒だった。跳ねた黒髪はあちこちに跳ね、すっかり猫毛になっている。
ハギと呼ばれた少年は、眼鏡を直して怪訝な顔になる。
「デバッグって……樹械に湧く小虫を退治する、あれだろ。そりゃ、洗濯樹に湧いたヤツを退治したことくらいはあるけどな」
「いや、もっと大きいのを。樹械建築に湧くぐらい。蟲(バグ)っていうんだっけ?」
「あるわけねーだろ」ハギは嘆息した。「なんだ、突然?」
猫毛の少年は椅子に掛け直し、神妙な顔になる。
「……『花時計』のデバッグをしたいと思ってるんだ」
湖にせり出す半島に広がる、塔のような花時計。かつてはファルデアコートの一大名所として名を馳せたものの、町の落ち込みと共に蟲の巣窟となり果て、誰も手が出せないまま寂れてしまった樹械。
「だけど、あれ金属化するって聞いたぜ。新しい領主がなんか言ってたじゃん、ファルデアコートの町おこし第一歩だとか。ヨツユだって知ってるだろ」
「知ってるさ」猫毛をつれ、ヨツユは頷く。「知ってるから、金属化する前に、樹械としての花時計をもう一回動かしたいんだ」
「どういうことだよ」
「うちのじいちゃん、今度ここを出ていくんだ。病気を治すには、首都の病院じゃなきゃ駄目そうなんだって……。でね、じいちゃんは花時計が大好きだったんだよ。小さなころから何度も話してくれた」
祖父の話の中で、鳴り響く花時計の鐘。樹械によって隆盛した町の象徴は、ヨツユの小さな憧れだった。
「もう一度、動いてる花時計をじいちゃんに見せてあげたいんだ」
ヨツユは熱っぽく言った。「そして俺も、見てみたい。花時計のあるファルデアコートを。金属化しちゃったら、確かに花時計は動き出すさ。でもそれは、じいちゃんの見た花時計とは違うんだよ。だから最後に一度、動かしたいじゃん!」
「友よ」ハギはごつん、と猫毛をはたく。「話はわかった。だが周り見ろバカ」
「なんでさ?」
ぐるり。昼食時の学徒たちの視線は、大声を出す彼に集まっていた。
「恥ずかしい奴め。さっさと行こうぜ」
「……ごめん」
赤面し、昼食を急ぎかきこむヨツユであった。
食堂を出た二人は、桟橋の渡り廊下を連れだって歩く。どこかから水鳥のしぶきが聞こえる中、柱に備え付けられた木琴がころんころんと放送開始を告げた。
『――――二年、ナバルフォウム。リンド・ナバルフォウム、至急教員室まで来るように!』
スピーカーが吠えたときだ。強い横風が吹いた。
「わ」こてんと転んだ友に、ハギはため息を吐く。
かたかたとうごめく拡声樹からは、小さな羽蟲が顔を覗かせている。調整不足の樹械に湧く『蟲』は、人間を風で追い払おうとしてくるのだった。肩をすくめ、ハギは木琴下の棚に手を入れる。
「よ、っと」
彼の投げた玉はぶしゃ、と煙を吐いた。
煙に包まれた羽蟲はわずかに発光し、消え去った。残されたのはむっとしているヨツユだけである。
「なあヨツユ、蟲の勢力は樹械のサイズに比例するんだろ。あんな掌サイズに転んでちゃ、樹械建築の蟲なんか相手にできないんじゃねえの?」
「うるさい」猫毛は憮然としていた。「わかってるよ」
くくくと笑う友人を前に、ヨツユは立ち上がった。
「見てろよ。絶対デバッグ上手くなっちゃうからな」
と言い放ったはいいものの、さて、どう上手くなったものか。ハギに相談したのとて、ひょっとしたらデバッグ経験が無いかと踏んだのがそもそもの始まりだったのに。
「いい先生でもいればいいんだけどなあ」歩き出し、猫毛はぼやく。「蟲に対抗する職……デバッガーって、もういないのかなあ」
「聞いたことねえよ。この町だってもう、樹械建築なんか使われてないしな。煙玉で対処できないような蟲を持つ樹械は放置されてるだろ」
「だよねぇ……」
そのときだ。難しい顔をしていたヨツユの肩を、ぽんと叩く者がある。
「アンタら、今『廃墟の魔女』の話してなかったかい?」
振り返ると、「リンドか」見慣れたニヤケ顔があった。十四歳には見えぬ長身の彼は、ヨツユたちの同級生だ。
「まーた胡散臭い話かよ」ハギの眼鏡の奥で、目が白くなる。「バカ言ってねえで教員室行けよ、呼び出されてただろ」
「いいよいいよ、待たせときゃいいんだ。それよか、デバッガーの話だろう? ファルデアコートに一人残る、なぞのデバッガー……『廃墟の魔女』!」
「いやそんなウワサは知らんが」
ハギは頭が痛くなってきた。
こののっぽの持ってくる話はいつも胡散臭いのだ。曰く、雨の日に現れる獣影の群れ。曰く、人生を導く妖精の手紙。曰く、町に走る秘密の地下道。いつもいつも胡散臭く、
「ホントか? そんな人がいるのか?」
いつもいつも親友が振り回されているのである。
「あのな、リンド。コイツ何でも信じるから変なこと吹き込むのヤメロ」
「信じない相手に話してもつまんないじゃん? レイクポートもさ、もうちょっと純粋なキモチを持とうぜ。若者よピュアであれ」
「だまれ。秘密の抜け道探しだとかで自転車で壁突っ込んで大怪我したりすれば、疑う心も育つだろ」
「まあまあ」にらみ合う二人に、猫毛が割って入る。「俺だって、いつまでもバカじゃないんだよ。話くらい聞いてもいいじゃん」
「さすがミゼフォウル」とのっぽ。「わかってんじゃん。そうだぞー、騙されないために情報遮断すんのはマヌケだぞー」
マヌケ扱いされ、眼鏡は渋い顔になった。
リンドの話では、「蔦通り」の館のどこかに、いつからか謎の魔女が棲みついているのだという。
「蔦通りっていうと、あの樹械建築だらけの辺りでしょ? 人なんか住めないんじゃないかな。だいたい、蟲に風で追い出されるし……」
「そこだよ。その魔女、たった一人でデバッグができるらしい」
蟲に対抗するデバッガーは、樹械の時代には請負業として成立していた。しかし需要不足ですっかり廃業が進み、ことファルデアコートでは既にすべてのデバッガーがいなくなっている。そのはずだった。
「その魔女がいるなら」とハギ・レイクポート。「まだこの町にもデバッグ技術はあるんだな。胡散臭いけど」
「それだけじゃないんだ」
リンドはにやり、と笑う。「魔女といっても若いらしくてな。スゲエ美人なんだって噂だぜ」
「「美人」」
声を合わせる二人の少年に、のっぽはクククと笑う。
「どうだ、気になってきただろ?」
「そんなことは、べつにいいよ」と言いつつヨツユの視線は泳いでいる。
「だいたいウワサだし、魔女がいると決まったわけじゃない。でも今日の帰り、蔦通りに行ってみない?」
「おい」と眼鏡。「なんでそうなるんだ」
「でっかいバグ、見てみたくない? 放棄された樹械建築、覗いてみようよ」
「ふむむ」
ハギは熟考した。自分が行かずとも友は行くに違いないし、相手取ろうとしている大型蟲を見ておくのも悪くない。そして何より美人を見たい。
たっぷり十秒ほどの長きにわたる熟考の末、彼は頷いた。
「しかたねえな」
「おいおい、面白そうじゃあないかい。オレも行くよ」
話を信じてもらえて、リンドは満面の笑みである。と、そこでふたたび木琴がころころと鳴り、拡声樹が吠えた。
『ナバルフォウム! リンド・ナバルフォウム! 今すぐ出頭しなさい留年さすぞ!』
「……お前何した?」
「校内新聞で、ちとね」
「また先生のヘンなウワサでも書いたんでしょ?」
「オレの情報には真実しかないんだけどな」とうそぶき、のっぽは肩をすくめた。
「まあ仕方ねえや。報道と政府は対立するもんなのさ。グルになったら報道の死だ」
「御託はいいからさっさと行けよ……」
「へいへい。んじゃ、放課後にな」
ハギのため息に送られて、リンドはドタドタと走っていった。
「俺たちも戻ろっか。午後の古語、テストだっけ?」
かたかたきしめく拡声樹の下、ヨツユ・ミゼフォウルは苦笑する。窓の外の湖は今日もただ、町を静かに映していた。
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