序章
そよぐ風に髪が揺れ、彼女はぴくんと肩をすくめた。
書架に囲まれ、天窓の見下ろす小さな部屋で、彼女は筆を置く。
「もうなのか、随分と早いな。やめてくれよ」
ぼさぼさの長髪を乱雑にまとめ、彼女はひとりぼやいた。
靴を履き替え鞄を背負い、螺旋階段を駆け下りる。その頃にはもう、図書館の中は強い風が吹き荒れていた。書架の本は固定されていて無事だが、「あちゃあ」机に積んであった数冊がばっさばっさと宙を舞っている。
「もうちょっと定期的に出ればいいのにねえ」
ため息をつき、本の無事を祈っておく。
「さーて、今日のはどんなのだ?」
こん、と踵で床を打てば、木靴はひゅうひゅうと息づき始める。ぴょんと彼女が飛び上がったときには、靴底から生えた車輪が唸りを上げていた。接地、そして滑るように彼女は走り出す。
慣れた動きで滑走し、書架の間を走り抜ける。ときおり吹く風を巧みに受け流し、飛んでくる本を回収し……「わ!」そこで彼女の顔に、べたっととびついた者がいる。これはたまらない。調子よく進んでいた彼女だが、盛大に転倒した。
「いっててて」
ずいと引きはがせばリスである。
「ええいまぬけめー。仲間はアレ出たら書架に入ってるでしょ?」
当然だがリスは人語を解さない。
まぬけが自分と気づき、彼女は説教を諦めた。代わりにリスを、回収した本と一緒に書架に放り込む。ぎぎ、と書架は本を掴み取って固定した。巻き込まれるようにリスも書架内に隠れていった。
「さてと」ふたたび滑走し始めた彼女は、三度目の曲がり角で探し物を見つけた。赤地に黒の水玉を背負う、六本脚の巨大なそれを。触角が、ぴくんと敵に気づく。
「うへえ、天道(テントウ)かぁ。臭いのはイヤだなぁ……」
そうは言っても、それがいる限りは風が吹き続ける。
「ちゃちゃっと直すか」
鞄から取り出すは、二丁の拳銃。
天道が羽を広げ、外敵を威嚇する。「さん、にー、いーち……」彼女のカウントにきっかり合わせ、暴風が吹き荒れる! 彼女は風に逆らわぬ軌道で図書館を駆け、風のやんだ瞬間に――――続けざまに銃を放つ! だが銃口が吹くのは弾丸ではない、真っ白な煙である!
風の間を抜け、双煙が天道を刺す。白煙に包まれてぎしぎしとうごめく多脚はダメージを物語る、が決して致命傷では無い。続く風に飛ばされた彼女は、壁に車輪を滑らせ天井へと走っていった。縦横無尽に空間を駆ける相手を、天道の触角がぐるりと追った。
「りゃっ」ぱちんと胸元の釦を外し、彼女はローブを大きく広げる。同時に壁を蹴り、彼女は宙を舞った。再び吹く風がローブを膨らめ、彼女の降下を遅らせる。
――――そう、降下を。
彼女がいたのは天道の直上だった。
予備動作は無かった。この風は長く続かない。
果たして風が止むが早いか、銃口が煙を噴いていた。二撃放ち、接地と同時にもう二撃。敵の周囲を旋回し、そしてまたもう一撃。
やった、と思った刹那、脚の付け根から色を持つ旋風が巻き起こる。
「ちょっ」急速転回、風を避け……いや、避けきれない。彼女の痩躯が青い風に包まれる。
「うわ臭い臭い臭い……グエエエエエ」
妙齢の女性が上げてはいけない類の叫びを上げ、彼女はごろごろと図書館の床を転がっていった。
そして彼女の後ろ――――散りゆく白煙の中、天道は微かな光を放ちながら消えていた。悪臭を伴う青い風を最後に、図書館の暴風は終わったのである。
かたかたかた、身をよじらせるように、書架が本の固定を解いていく。そしてあちこちの隙間から、リスが顔を出し始めていた。
――――
かつて栄えた樹械(きかい)文明も、今ではすっかり金属魔法に取って代わられるようになった。
時代の象徴であった樹械建築も、取り壊され、放棄され、既に忘れ去ろうとしている。……だが、ここのような辺境の町では、まだひっそりと、かたかたと、樹械が息づいているのであった。
丘の上の時計台から、山麓の湖に広がる小さな町。
白木づくりの家々の間にはところどころ森が走り、迷路のように入り組んだ道にはちらほらと階段が混じる。美しい景観を求め、町を訪れる旅人も少なくない。
ここは機械時代には良質な材木の産出地として名を馳せ、機械づくりにとって国内でも大きな存在を示していた。しかし、樹械が時代遅れになるにつれ需要が減り、今ではすっかりちいさな片田舎だ。
時代遅れの樹械が息づき、坂と階段が家々をつなぎ、雄大な湖に臨む丘陵の町。
その町の名は、ファルデアコートといった。