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ネーベルの霧が晴れた午後

 

 三十年前に世界中に突如現れた人食いバケモノ、樹竜。
 各地の戦いの結果、人間たちは竜を駆逐することに成功した。その戦いは後に「竜花戦争」と呼ばれることになる。
 この戦争で残された二つのものは、その後の世界を一変させた。
 一つは竜たちの眷属、「花魔」。こちらも人を襲うのだが、数が多いのと繁殖が早いことで滅ぼすことは事実上不可能となっている。各地に棲みついた花魔は、ときに群れをなして人里を襲うこともある。銀製の武器でしか命を奪えないという特徴があり、精銀技術が発展するまでは戦後も脅威であった。だが、広く銀製武器が流通するようになってからは安全に討伐できるようになった。
 もうひとつは竜の使っていた魔法のような力、「花術」。具体的には、竜の生みだす「種」に魔力を込めることで一定のふしぎを発揮させる。花術発動後は種が残るので、戦場跡では多くの種が見つかった。人間でも、魔力を扱える者は少数ながらいる。彼らは「花術師」と呼ばれるようになった。
 ――――竜花戦争を知らぬ者も増え、一応の平和が訪れた世界。世界地図では北部に当たる大山岳地帯の一角、ネーベル領がこの物語の舞台だ。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 薄もやのかかる渓谷を、蜻蛉が群れをなして飛んでゆく。だが近づいてみれば、それは精巧に作られた飛翔艇(訳注:リベレ、羽ばたき飛行機。一般に一人乗りのものを指すことが多いが、ここでは貨物船として用いられる中型のもの)であることがわかる。
 隊列の先陣を切って舵を握っているのは、この商隊の隊長であろう。だがその船に乗っているあと二人は、見るからに商隊員とは異質な雰囲気を漂わせている。ひとりは二十代前半と見える若い剣士。もう一人は頑健な体つきをした老婆。商隊が護衛を兼ねた客員として旅人を同行させることは珍しくない。この二人も、きっとその類であろう。
「ありがとな、おっさん。助かったぜ」
 青年は、隊長の背中に声をかける。
「代金はもらってンだ、礼なんかいらねェさ。それよりロズ、町に着いたらどうするつもりなンだ?」
 ロズと呼ばれた青年は、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。
「何を当たり前のこと言ってんだよ! ネーベルっていったらエーアトベーレ・ケーキの名産地だぜ? アレ食べないでどうするんだよ」
「……エーアトベーレ? なンだそりゃ、呪文か?」
「おいおいおっさーん、菓子とか食べねーだろ?」
 ロズは大袈裟に溜息を吐いて見せた。
 エーアトベーレ。赤い小さな果実をつける多年草である。その甘酸っぱい実は専ら焼き菓子に添えたり挟んだりして使われることが多い。
「やれやれ、商売しか頭に無いおっさんはこれだから困るぜ。旅の醍醐味は、人と出会い、食と出会うことだろ!」
「ンなこと言われたッて、ワシらのリベレはそんなに速くない。食べ物を扱うことなんかできないさ。特に、生モンはな」
「バカ野郎、誰が売れって言ったんだよ! テメエが食えって言ってんの!」
 老婆は先ほどからクツクツと笑いをこらえていたが、遂に我慢ができなくなったらしい。あっはっはと大笑いを始めた。
「そんなに笑うこたァねえだろう、ギャムジーさん」
 隊長はばつの悪い顔になる。
「貴女はどうするつもりなンだい?」
「アタシかい?」
 ギャムジーと呼ばれた老婆は鞄をポンポンと叩いて見せた。無論、前を向いている隊長に見えるはずもないが。
「アタシは西の国ガルテンからの親書を預かっている。だからまずは領主のところに向かうつもりなんだよ」
「なるほどな。……ン?」
 薄もやの中、見えてきたのは谷を塞ぐ巨大な城壁である。しかしおかしいのは、すっかり陽が昇っているというのに、幾つかある門がことごとく閉じられていることだ。無論、所詮は壁に過ぎないのでリベレで飛び越えることはできるのだが、そんなことをしては不法侵入である。
 隊長は他の機を待機させ、門の一つに近づいてみることにした。だがそのときである。隊長はリベレを急停止させた。直後、彼の目の前に大量の矢が降り注ぐ! 見れば、城壁の上にずらっと弓撃手が並んでいるではないか。
「何しやがる!」
 隊長が怒鳴りつけると、城壁の上は混乱している様子である。そしてやがて、城壁の上に着陸するよう信号が見えた。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「我が軍が大変な無礼を致しました。申し訳ありません」
 騒ぎを知らされ、すぐさま駆けつけたのは、現ネーベル領主、ラムサス・ネーベル。御年三十九、先代の死のために急遽祭り上げられたばかりの若き領主である。
「ッたく、いきなり撃たれるとは物騒にもほどがあるぜ」
 隊長はわざとらしく肩をすくめる。
「いったい何だッてンだ? この町の警戒はいつも緩かったはずだが」
「それは……」
 ラムサスの顔は暗い。
「この町は、今、危機に瀕しているのです。花魔の集団……確認した限りでも六千の軍が集結し、こちらへ進行しています。予測では、今晩には町に到達されるとのこと。……状況は絶望的です。既に非戦闘員はほとんど避難が済んでいます」
「ちょっと待ちなよ」
 ギャムジーが口を挟む。
「六千? その程度ならよくあることじゃないか。何だってそんなに悲観的なんだい? 今までだってこんなことはあっただろう」
 そう、人間は既に花魔を克服した。花魔を唯一絶命させることのできる銀製の武器は、竜花戦争当時よりもずっと広く流通している。各町には常備軍が置かれ、花魔が出ても速やかに討伐される。……というのは、ネーベル領外での話だ。
 ラムサスは小さく息を吐く。
「今まで、この町は花魔の襲撃に遭ったことがありません。竜花戦争が終わって三十年間、一度もです」
 そのため、そもそもこの地は戦場になったことが無い。戦闘訓練も行っていない。銀の武器すら、町中を探して四十二振り、しかも骨董品の飾り剣ばかりだ。
「これまでこの町には、花術による深い霧がかかっており、そのためか花魔たちを寄せ付けていなかったのです。しかし三日前、種が突然割れ、霧がだんだん薄れ始めてしまいました。それを嗅ぎ付け、近隣の花魔たちが続々と集まり始めたのです」
 状況を把握した老ギャムジーは、ニヤリと笑うと大きく頷いた。
「よし、アタシは協力するよ。銀も戦士も無いなんて、三十年前の戦争そのものじゃないかい。いいさ、このルシア・ギャムジーが手を貸してやろうじゃないか」
 領主も、その名に心当たりがあったらしい。無敗の軍師と呼ばれたギャムジーの名は、彼女の故郷からはるか離れた北洋の国にまで知れ渡っているのである。
「大船に乗った気でいることだね!」
 ルシア、自信満々と言った様子。しかし一方、商隊長の顔は暗い。
「……ワシらは、逃げさせてもらうぞ。ワシらは単なる商人に過ぎん」
「ええ、もちろん結構です」
 ラムサスはゆっくりと言葉を選んでいるようである。
「しかし一つだけお願いがあります。あなたたちのリベレで、避難民を連れて行って欲しい。お金なら領地の全財産を支払っても構いません」
 隊長は鼻を鳴らし、領主の言葉を止めさせる。
「何バカなこと言ッてンだ。緊急時だ、金なンかいらねえよ。銀刃だって余りの二十本くらいは提供するぜ。……てめえ、『どうせ死ぬから金なんかいらない』とでも言いてェのかよ」
「それは……」
「金は命だ。金を粗末にするような人間が、命を大事にできるとは思えンな。だからワシは絶対お前からは金を受け取らねェ」
 さて、意志を表明していないのは一人になった。
「ロズ、てめえはどうするつもりだ?」
「俺は……それ、より……」
 歯切れの悪い返事をするロズに、商隊長は呆れた顔を見せる。
「まあいい。ワシらは準備を整えたら出発する。正午までにここに戻ってくれば連れて行ってやるから、考えが決まったら来ることだな」
 隊長が出て行ったのを追うように、ルシアも立ち上がる。
「領主さんや。作戦を立てるから、部隊の統率者たちに合わせてくれないかい?」
「今なら、きっと第二城門で集合しているはずです。誰かつけましょうか?」
「うんにゃ、一人で大丈夫さね。それじゃ、またあとで」
 ルシアも階段を降りて行き、ラムサスとロズは二人残される形となった。
「なあネーベルさん」
 ロズは重い口をようやく開いた。
「こんなときに言っていいのか、わからないんだけどさ……」
「何でしょう? 私でできることなら、力をお貸ししましょう」
「そりゃよかった」
 ロズは頭をポリポリ掻きながらにやっと笑う。
「エーアトベーレ食わせてくれねー?」
 まさかそれを考えていたのか、こいつ?

 城壁から町までは、しばらく距離があった。半ば呆れたラムサスに案内され、ロズが町中を歩いていたときだ。
 にわかに通りの向こうが騒がしくなったかと思うと、どたばたとこちらに走って来る者があった。ひげが立派なその紳士は、しかしその手に小さな女の子をぶら下げている。ラムサスの娘、ドロシー・ネーベルだ。
「ラムサス様、またお嬢が……」
「抜け出したんですか」
 領主は小さく息を吐き、ドロシーの額を小突く。
「何度言えばわかるんだ。お前が頼ろうとしているのは、樹竜だ。人の敵なんだぞ」
「何言ってんのよ! ガードルード様は三十年前にこの町を救ってくれたんじゃない!」
「……もういい。後で避難するまで部屋に入れておいてください」
 ドロシーは汚い言葉をまき散らしながら連れて行かれた。それを見送ると、ラムサスは再び溜息を吐く。
「何だ、今の?」
「娘のドロシーです。お恥ずかしいところをお見せしました。霧が消えたときから、ずっとあの調子で屋敷を抜け出し、北の山に向かおうとするんです」
 領主の視線は北にそびえる山に向かう。
「あの山の上には、かつてこの町を……救った、樹竜が眠っているんですよ。その樹竜に力を借りようと言っているんです」
「樹竜が町を救った? なんだそりゃ」
「三十年前の霧の日、この町は灰色の樹竜軍に襲われました。戦況は苦しく、女子供を含む多くの民が命を落としました。……しかしその最中、緑色の飛竜が突如現れ、敵を蹴散らしたんです。その後、力を使い果たした緑の竜は、花術の霧を残して休眠につきました」
ラムサスは無理に平静を装っているかのように、無感情な声で話す。
「この町には、元々一つの伝説があったんですよ。『灰が我らを襲いしとき、天より緑の救世主現る。その守護ある限り、平穏は保たれる』。いえ、単なる伝説です。……三十年前の状況がいくら似通っていても、樹竜が人を救うなんてありえませんからね。しかし、この伝説を大真面目に信じ、その飛竜、ガードルードを『救世主』と崇める人も少なくありません。私の父、つまり先代領主もそうでした」
 ばかばかしい、と呟く領主。
「でも、伝説通りだったら、例の霧が『守護』に当てはまるわけだよな? 霧が町を守っていたのは本当なんだろ?」
 ロズは首を傾げる。
「現に、この町は三十年花魔から守られてきた。その伝説も、もうちょっと信じてやってもいいんじゃねーか?」
「……旅人のあなたまでそんなことを仰るのですね」
 ラムサスは立ち止まった。
「樹竜は人を喰い荒らしたバケモノです。それ以外の何物でもありません」
 彼は踵を返し、元来た方へ歩きだす。
「用事を思い出しました、失礼します」
 街道にぽつんと残されたロズは、口をぽかんと開けていた。あまりに唐突な展開であったため、理解が追いつかなかったと見える。だがやがて自分の置かれた状況を認識したようで、ぽつりと呟いた。
「エーアトベーレ、食い損ねたな……」
 ちょっと待て。だからそんな認識でいいのか、おい。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「お、準備はできたかね」
 城壁の上で、ルシアは谷間の道を眺めていた。
「作戦は聞きました。……うまくいくことを、信じています」
 ラムサスは無表情に言うと、ルシアの隣に歩いて行った。作戦の固まった今、門の上に残されているのは二人だけ。彼らの眼下では、ルシアの指示通りに兵たちが陣を築いている。
「やれやれ、突貫工事だねえ」
 ルシアは心底嬉しそうである。
「領主さん、アタシはアンタみたいな人間は嫌いじゃない。でもねえ、軍師として言わせてもらえばまだまだ青いよ」
「……何を仰っているのですか?」
「樹竜の花術なんかを信用せず、それを撤廃しようとするのはいいんだよ。でも性急過ぎたね。霧が町を守っているなんてあり得ない、と考えるまではいい。だがねえ、『もし本当に霧が町を守っていたらどうなるか』を考えていないのは甘すぎるよ。これまでお預けを喰らってた花魔たちが一気に来ることになるわけだからね」
 ルシアの言わんとすることに思い至ったか、ラムサスはハッとして隣の老軍師を見る。
「少なくとも銀と兵を集めてからやらかせばよかったんだよ。でも、やっちまったことは仕方がない。問題は責任の取り方さね」
 ネーベルの霧を消し去った犯人は、何も言い返さなかった。
「さ、そろそろ偵察に出した飛翔部隊が敵軍と接触する頃だ。――――シャンとしな!」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 領主と別れたロズは、町をぶらぶらすることにしていた。あの女軍師と同様この戦に協力するのか、それとも商隊と共にこの町を出るのか。どちらにせよ、決断までの猶予はあるのだ。
「昼間だってのに、街灯が点いてるな……」
 少し前までネーベルの霧は恐ろしく深かったのだ。灯りが無ければ、腰の剣を探ることも難しかったほどである。それが今では、街灯が点いていないとしても足元が見えるほどにしか霧が残っていないのだ。しかし、今日ネーベルに来たばかりのロズが、そんなことを知る由もない。
 性懲りも無くケーキ屋を求めるロズだが、どこも閉まっていた。当然である。非戦闘員はとっくに避難していたし、逃げ損ねた人もまとめて商隊のリベレに乗った頃であるのだから。そもそも町にはひと気が無く、たまに見かける人間は忙しなく走る兵士ばかりである。
 と、ロズはぴたりと足を止めた。その視線の先には、歳の頃二十代半ばの女性。長身で、一般的に美人と呼んで良い顔立ちをしている。
 ロズは彼女を追いかけ、その肩を叩く。
「何をしてるんだ、領主の娘?」
 女性はびくんと硬直する。繰り返すが、二十代半ばの長身美女だ。ちんちくりんのドロシー嬢とは似ても似つかない外見である。しかし次の瞬間、女性の姿はぐにゃりと揺れ動き、小さな女の子の姿に戻っていた。
「……なんでわかったの?」
「カンって奴さ。……幻影だろ?」
 ロズはにやりと笑う。
「あの手の花術は魔力消費が激しい。お前、なかなか才能あるんだなあ」
 それには応えず、ドロシーはじりじりと後ずさりする。
「わたしをどうするつもり? お父さんの……避難艇のところに連れてくの?」
「そんなことするもんかよ」
 ロズの返答に、ひとまず胸をなでおろすドロシー。
「だが、タダで見逃すわけにはいかねえな」
「どういう……こと?」
「簡単さ。俺も一緒に行かせてくれよ」

 彼らが町を後にしたころ、最前線の部隊が会敵していた。時にして、奇しくも正午ちょうどである。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 城門にどよめきを運んだのは、南から追い込まれた飛翔部隊である。
「敵が迫っている!」と彼らは言った。
「銀刃は予想通りの効果をもたらした。その一振りで花魔はすぐに絶命する。しかし敵は予想以上に多い。低空飛行しかできない単騎リベレは墜とされる。既に数人がやられた!」
 そう言う彼らのリベレには、ぐったりとした兵が数人乗せられている。

 霧の無い谷には、しかし雲がかかる。張り詰めた湿気の中、少しずつ兵の目にもそれの姿がわかってきた。谷間を埋める黒い者たち……一目見ただけでは身の丈二メーターほどの大ガエルだが、背中に大きく広がる花びらが、彼らが『花魔』たることを物語っていた。
 次の瞬間、銃撃が始まった。種を飛ばす花術だ。直撃すれば人間が死にかねぬ威力である。恐れていたネーベル襲撃がついに始まったのだ!
 城壁も、黙って攻撃されているばかりではない。固定の大型弓の矢が雨のように降り注ぐ。しかし所詮は鉄の矢でしかない。当たったところで、敵を絶命させることはできないのである。
 一方、レンガ造りの城壁は花魔の銃撃に耐えきれるとは思えない。弓兵たちには見えていないものの、そこかしこではヒビが入り始めている。
「……そろそろ、潮時かねえ」
 弓隊に混じっていたルシアは、手を止めた。
「作戦開始だ! 第四城門を開ける! 手筈通り、開門しな!」
 これだけの猛攻の中で、自ら防衛拠点を開放するとはどういうことだ? その意図は、すぐにわかることになる。指令通り開けられた第四門に、花魔たちが殺到する。ただしこの第四門、せいぜい幅は三メーターといったところ。敵が通れるのは、同時に二頭が限界だろう。
 そして門をくぐり抜けた彼らを待ち受けているのは、ずらっと並んだ剣士たち……ネーベル軍の本隊である! その得物はほとんど鋼刃であるものの、これだけの戦力差があれば話は違う。我軍は多数、敵軍は少数という圧倒的優勢の状況だ!
「行きな! 銀刃は戦闘に参加しないでトドメだけに集中しろ!」
 ルシアの号令に合わせ、剣士たちは花魔の迎撃を始める!

 

     ◆ ◆ ◆

 

「なかなか長いなー」
 何度目になるかわからない呟きである。
 ロズとドロシーは、山道を進んでいる。『救世主』ガードルードはこの霊峰の山頂で眠っているというのだが、そこまでの道のりは短いものではない。
ところどころに朽ち果てた石段が続くので、道は正しいのだろう。しかし道の脇は鬱蒼とした森、おまけに辺りは薄もやに包まれている。視界はひどく悪い。
「ドロシー、今どれくらい進んだんだ?」
「さっきの石段で半分くらいのはずだよ」
 あっけらかんとしたドロシーの返答に、ロズは小さくため息を吐いた。
「何よー、もう疲れたの?」
「そういうわけじゃない。俺は旅人だぜ、この程度歩いただけで音を上げるもんかよ。そうじゃなくて……お前、気づいてないのか?」
 ドロシーはきょとんとした顔になる。ロズは声のトーンを落とした。
「さっきから、何かが俺たちを追ってきてる。爆発系の花術の使い手だな。数発撃ってはしばらく待機してる」
 もやに隠れて攻撃の機会をうかがっているのだろう、とロズは話を終えた。
「お前が気づいていないということは……狙いは、俺なのか?」
「おかしいなあ、灰竜の花術は種の銃撃なのに……」
 二人はそこで黙ってしまった。しかし、引き返すつもりは無いらしい。謎の襲撃者に警戒しつつ、彼らは山道を急ぐのであった。

 

     ◆ ◆ ◆

 

「ギャムジーさん、もうダメだ、もたない!」
 後ろからの声で、ルシアはハッとした。気づけば足元の城門は既にボロボロになっている。
「門を全部開けても、壁への攻撃がやみません! このままじゃ崩れます!」
「わかってるさね」
 ルシアは振り返る前に、手元の矢を離す。飛んでいった矢は一体の花魔を見事に貫いた。
「どの道、こんなチャチな手で防ぎきれるとは思ってないさ。弓撃兵は逃げたかね?」
「はい、全員退避し終わりました! あとはギャムジーさん一人です」
「よろしい」
 壁より少し低い位置、崖に細い張り出した道がある。弓撃兵はそちらに退避したのだ。
「爆破は三分後だよ。剣士にも退避命令だ! 全員、第二線まで撤退! 倒れた者は飛翔部隊で対応しな!」
「何仰ってるんですか、ギャムジーさん!」
 兵は目を丸くした。
「死者に構っている暇はありません!」
 ルシアはその新兵の頭を弓で殴りつける。
「死者じゃない! 花魔は人を殺さない。毒で麻痺させるだけだよ。戦闘が終わったら食うつもりなのさ。……幸い解毒薬は商隊のオヤジが置いてった。救える命を見捨てるわけにはいかないのさ。わかったら行きな!」
 城壁の北側を見れば、既に多数対少数の形は崩れ、敵味方の入り乱れる乱戦となっている。しかし角笛を合図に、剣士軍は一斉に後退を始めた。
 そして間もなく、轟音と共に城壁が爆発する!
 一か所だけかと思いきや、連鎖的にいくつもの花術が発動しているようだ。城壁近くにいた花魔は、飛散するレンガに引き裂かれたり、爆発に巻き込まれたりして吹き飛んだ! だがまだ終わりではない。
「射て射て射てェ! 剣士の退路を確保しろ!」
 張り出しからばら撒くように放たれる矢の雨が、花魔たちに襲いかかった。その隙に剣士たちは敵との距離を離し、一気に後退していく。

 その先に待っているのは、ずらりと密集した大盾部隊。第二にして、最後の防衛線である。谷の細くなった部分を選んで配置された彼らは、体をすっぽり隠しきれるような大盾を持っている。剣士軍が来たのを見ると彼らはさっと道を開けた。なだれ込む剣士軍を通した後に、盾部隊は再び陣形を固める。しかしよく見れば、彼らは武器を持っていないではないか。
 花魔たちが到達し、彼らに襲いかかっても、反撃すらしていない。……どういうことだ? 張り出しからの狙撃があるとはいえ、これだけ攻め手が少なくてはいずれ押し切られる。
 そもそも、城壁の攻防で敵は分散している。今はまだ少ないが、これからどんどん後続部隊が押し寄せ、盾部隊の前を埋め尽くすことになるだろう。なぜこんなに無謀な配置をしたんだ?
 案の定、次々と花魔が詰めかけ、敵軍は密集した陣形を組んでしまっている。射撃でどうにかできる数ではない。だがそのときであった。不意にルシアが高笑いを始めたのである。
「まんまと掛かってくれたねェ!」
 芯の通った声は、谷間の暗さを切り裂くように響き渡る。
「それだけまとまれば、一網打尽ってモンだよ! いッ、けェェェェ!」
 その声を合図に、崖のあちこちに潜んでいた兵たちが一斉に動く。凄まじい震動……岩だ! 空間を塗りつぶすかほどの量で、岩は花魔たちになだれ落ちた! 轟音が辺り一帯を支配する。花魔といえども所詮は実体を持つ存在である。岩に埋められてしまえば生きていられるはずもない。
 少し視点を上に向ければ、盾を捨てた盾部隊が飛翔機たちに助けあげられているのが見える。さあ、あとは動ける敵を掃討すべく剣士軍が出ればいいだけの話である。
 これが、ルシア・ギャムジーの即興で立てた策の全容であった。そう、彼女のシナリオでは、ここで決着がつくことになっていたのである。
 そのため、谷間をゆっくりと近づいてくるそれを見たとき、我軍の誰もが目を疑った。

 身の丈十メーター以上はあるであろう、巨大なトカゲ。
 灰色の四足樹竜、エスメラルダであった。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 二人の若者が山頂にたどり着いたのは、夕暮れのことであった。辺りにかかるもやは一層深さを増し、夕陽でうっすらと染まっている。
麓の騒ぎに対し、ここは静かであった。その岩場の最中に、私はとぐろを巻いて鎮座していた。そうと知らねば樹にしか見えなかっただろう。
「こいつが、守護竜なのか?」
「間違いないよ。緑の飛竜、ガードルード様。お爺ちゃんの言ってた通りだ」
 答えながら、ドロシーは飛竜につかつかと近づいていく。ロズが制止しようとするも、遅かった。彼女の足元が不意に隆起したかと思えば、腕ほどの太さをした根が次々と飛び出したのである。ひゃあ、とドロシーが叫ぶ間に、既に数本の根が彼女の脚に絡みついていた。
「バカ野郎!」
 目にも止まらぬ速さで剣を抜き、ロズは根を斬り払った。そのままドロシーを抱き取り、元いた位置まで離脱する。そこまでは根の長さが足りないらしく、しばらくすると土の中に戻っていった。辺りの静寂が戻るまで、そう時間は掛からない。少女を地に下ろし、ロズは溜息を吐いた。
「不用意な行動はやめてくれ。動かないと言ってもこいつは竜だ。人食いのバケモノなんだぜ」
「ガードルード様は救世主だもん、バケモノと一緒にしないでよ」
 ドロシーはぷうと頬を膨らませると、私に向き直った。そして深呼吸を一つ。
「ガードルード様、あなたの霧が晴れてしまったの。今、ネーベルが危ないんだ。もう一度、霧の花術が必要なの! 種を、ください!」
 しばらく、沈黙が続いた。……そして漸く私が返した言葉は簡潔だった。

『立ち去れ、小さき者共よ』

 ドロシーはしばらく状況を把握できていないようだった。
「……え? た、助けてくれないんですか? 救世主なのに?」
『私は救世主などでは無い。単なる樹竜の一頭だ。汝らに協力する義理は無い』
 三十年前、私はこの地を襲撃した。しかしそのとき、別部隊であった灰竜軍と意見がぶつかり竜同士で戦うハメになった。その戦いは、灰竜を退散させ、私は魔力を使い果たしてしまう結果に終わった。それを見ていた人間たちが勝手に勘違いしただけだ。そう言っても、ドロシーは納得できない様子である。
「じゃあ、霧は? 花魔を払う霧で、わたしたちを守ってくれてたんじゃないの?」
『馬鹿なことを言うな。人を喰らう我々が、なぜ竜を払う花術を持つ必要性があるんだね』
 私は近くのもやに目をやった。
『これも、ネーベルを覆っていたのと同質のもの。私の花術である』
 そう言って、私はもう一つの花術を発動させた。
 ばんっ、と爆音を上げて、空間が弾けた。もやの中にあった岩や石は粉々に砕かれている。
『私の花術は、爆発する霧を発生させるものだ。仕掛けてしまえば、周囲の魔力を吸ってどんどん濃度を上げていく。あとは私が軽く念ずるだけで、今のように破裂する』
 ここまでの道中でも見てきたはずだ。霧の中から爆発が起きるのは、別段誰かがいたからではない。霧そのものが爆発していたのだ。花魔も、獣も、本能的に理解している罠の空間。それに気付かず、人間たちはありがたがって霧の中に住み続けてきたのである。
『わかったら立ち去れ。私は人の敵、竜だ』
 信じられない、といった様子でドロシーは膝を突いた。ここまでずっと抱いていた希望が砕け散ったのであるから、無理もない。だがそこで私は気付いた。この状況にあって未だ、ロズは余裕の表情を変えていないではないか。
「何を言ってるんだか、このバカは」
 小馬鹿にしたような笑み。
「アンタが人の敵なら、さっさとネーベルを吹っ飛ばせば良かっただろ。そうしなかったのは、魔力が回復した頃には人への敵意が消えてたから……そうじゃないのかよ?」
 そう言って、ロズは肩をすくめて見せた。
「今だって、俺たちに霧を寄せて爆発を当てることだってできたのに、そうしなかった。さっきの根っこは空腹時に人間を吸収する本能行動だ、アンタの意思とは関係ない。……つまりアンタは人の敵なんかじゃないのさ。どんな理由があるのかわからないけど、なぜこいつらを助けてくれないんだ?」
 その指摘はすっかり図星であったため、私はしばらく返事に窮した。しかしもはやどんな誤魔化しを言っても無駄であろう。正直に答えるしかない。
『魔力が足りないからだ。魔力の無い樹竜なぞ、草花と大差無い。花術を撃つことはおろか、種を出すことも不可能だ。私にできることなど何一つ無い』
 私は、無力だ。三十年前に罠を残してしまったからといって、救世主などと呼ばれたくない。まぶたを閉じ、意識を町に向ける。霧の中ならば、私は手に取るように『見る』ことができるのだ。

 

     ◆ ◆ ◆

 

 飛翔部隊と弓撃兵は奮闘していた。しかし、そんな攻撃をものともせずにエスメラルダはゆっくりと侵攻して来る。状況は、圧倒的に不利。ネーベルを蹂躙することは防ぎきれるはずがない。
 剣士軍と合流したルシアは、ラムサスを探し当てていた。
「……領主さん。そろそろ、決断のときが来たようだよ」
 近づき来る巨竜を見ながら、ルシアは冷静に言った。
「あの速度だ。十分逃げ切れる。こちらの被害を考えれば、もう退避した方がいいことは明白だよ」
 この戦闘は、負けだ。
「あと半時間もすれば、銀で斬ってない花魔たちも動きだしちまう。そうしたら本当に終わりだ。それまでに、負傷者を運び、逃げる。町は諦めるんだね」
 事実であり、正論である。……だが、ラムサスは微笑んだ。
「それは、できません」
 悟りきったような、微笑みであった。
「この町は三十年我々を守ってくれた。……我々が、そしてネーベル領主の私が、この町を見捨てるわけにはいきません」
「……ま、そう言うんだろうとは思ってたけどね」
 ルシアは大袈裟に肩をすくめて見せる。
「町を放棄できるようなら、霧の薄れた段階で逃げてたはずだからねえ。わかったよ、アタシも最後まで付き合ってやろうじゃないか」

 ひどい地響きの中、剣士軍はエスメラルダに突撃していく!
 彼らの狙いはどうやら左前足のようだ。いくつもの斬撃が足を襲うも、それ以上の我軍が跳ね飛ばされて宙を舞って行く。
「怯むなァ!」
 ルシアも鋼刃を手に、一撃離脱で攻撃を繰り返している。しかし彼らの本当の狙いは、エスメラルダを転倒させることではなかった。真の狙いは、敵の意識を足元に向けさせ、背に向かう一艇のリベレに気づかせないようにすることである。
「いいね、領主さん」
 先ほど策を立てたとき、ルシアは言った。
「樹竜は首筋に、一枚だけ向きの違う鱗……逆鱗を持っている。そこを貫けば、樹竜は花術を噴き出して死ぬはずだよ。でも、攻撃のチャンスは一度しか無い。逆鱗を狙われている、と感づかれたらおしまいだ。だからいいね――――」
 一撃で、決めな。
 勝算の低い賭けである。だがラムサスはその案に乗り、自ら攻撃手を引き受けた。

 眼下にはキメの細かい鱗がびっしりと広がっている。ここから一枚の逆鱗を探すというだけでも難しいかと思われたが、その問題は案外簡単に解決した。何しろ、灰色の鱗の中、その一枚は真っ黒だったからである。
 ただ、場所を把握したとはいえ、すぐに攻撃に移れるわけも無い。歩くエスメラルダはグラングランと激しく揺れ動いている。失敗は許されないのだ。
 ……そのときである。
 たび重なる攻撃に遂に業を煮やしたか、ついに灰竜は立ち止まった! 口を大きく開け、何かを吐きだそうとしているようだ。花魔と同じものと考えれば、どれだけ巨大な種の砲撃なのだろうか? しかし一方、これは好機でもある!
 ラムサスは躊躇なく急降下した。全てが、彼の手の槍に託された。そして――――全ての希望を乗せた槍は、エスメラルダの首筋に深く突き刺さった。
 ――――首筋の、灰色の鱗を貫いて。

 

     ◆ ◆ ◆

 

『ネーベルは……滅びる』
 目を開けた私は静かに告げた。
『汝らは北に逃げろ。今ならば間に合う。この辺りの花魔はネーベルに集結している。この好機を逃しては、汝らの命も危なくなる。死人は少ない方がいい』
 私程度でも、この二人の命は救うことができる。
 今度はロズも頷いた。何も言わず、ドロシーの手を引く。そうだ、それでいい。私のような役立たずに頼ったことがそもそもの間違いなのだ。この町に来たときから見ていた限り、ロズは呑気でこそあるものの、信用できない男ではない。ドロシーを北に無事に送り届けることは安心していいだろう。
 だが、そのとき思いがけないことが起こった。
 旅人の手を振りほどき、ドロシーがこちらに駆け出したのである!
 当然の本能として、私の根が娘を絡め取る。
「何やってんだ、気でも狂ったか!」
 ロズが怒鳴る。根は私の意思などお構いなしにドロシーを覆って行く。そこで私は、彼女が何をしようとしているのか気づいた。
「わたしを食べて、ガードルード!」
 私が魔力不足で動けないなら、自分の魔力を喰わせれば良い。そうかもしれないが、彼女はどうなる?
『やめろ! 汝を死なせたところで、私が動けるとは限らん。いくら魔力が高いといっても、それをどれだけ吸収できるかはわからんのだぞ!』
「でも、動けるかもしれないんだよね!」
 領主の娘はそれだけ言うと、目を閉じてしまった。そこに根が殺到し、ついにドロシーの姿は見えなくなる。もはや私にできることは無い。
『私は、あんな小さな娘すら救えなかった――――』
 根が光り、魔力の吸収が始まった。だが、そのときだ。

「その娘を救いたいか?」
 ロズ・ファレルは驚くほどに冷静に、無表情にそう問うた。
「今ならアンタは、その娘を助けられる。俺はその方法を知っている。……ただし、アンタの命を半分やれば、の話だがな」
 ……何を言っているのだ、コヤツは。
 しかし、面食らっている暇は無い。ドロシーの命は着々と失われている。選択肢など初めから有りはしないのだ。
『私などどうなっても構わん! 救世主などと呼ばれても、所詮は役立たずのこの身だ。いくらでも捧げてやろう!』
「同意は得たぜ」
 ロズは懐から種を取り出し、空中に放り投げた。花術の起動に伴い、光が私の身体を包む。何をする気だ?
「アンタとドロシーを共存同化させる。竜の肉体なんざ所詮魔力の結晶だ。だからアンタ自身を核のある魔力としてドロシーに飲み込ませる。結果、複合した肉体に二つの意識が共存できる」
 魔力も共有だから、アンタの花術をドロシーの魔力で撃てるわけだ、とロズは説明を終えた。
『……そんな案があるなら、なぜ初めから実行しなかったのだ』
「バーカ、体を人間風情と共有するんだぜ。竜の同意が無いのに、そんなことできるわけ無いだろ?」
 ロズは先ほどまでの顔と打って変わったニヤケ顔だ。
「それとなあ、ガードルードさん。あんまり自分を卑下するもんじゃないぜ? アンタは竜軍一隊を単騎で倒せる実力の持ち主だ。そして、その力がネーベルを救い、結果論ではあってもこれまで守ってきた」
 かみしめるように、そして――――なぜか、少し寂しげに。ロズは静かに言葉を紡ぐ。
「アンタが救世主かどうか決めるのはアンタじゃない。救われた人間の方なんだよ。そして彼らが救世主と呼んでいるからには、アンタはネーベルの救世主なのさ。――――昔も、今も、確かにな」
 私は何事か言い返そうとした。しかし、言うべき言葉は無いのだった。それに気づいたようで、ロズは嬉しそうに何度もうなずく。
「忘れるなよ、アンタを信じれば命だって賭けられる奴がいるんだぜ」
 その言葉が終った頃だろうか。光が消えた。
「さ、行って来いよ」

 

     ◆ ◆ ◆

 

 自分の槍は、逆鱗を外した。
 その意味を領主が理解するよりも早く、灰竜の反応が起きた。鱗を突き破るように、足元から槍のような枝が突き出る。咄嗟にラムサスはリベレを動かそうとしたが、動作が遅過ぎる。本体こそ金属だが、リベレの翅は薄い。枝の集中攻撃で、リベレはあっという間に樹竜の首筋に落下した。
 ラムサスはリベレから飛び出し、竜の上を駆け出した。踏んだ場所から次々と枝が生え、彼を追い始める。もはや武器もリベレも失った彼に、打つ手は無かった。ただただ本能的に逃げるばかりである。
 そうするうちに、いよいよ業を煮やしたのだろう。エスメラルダは身体を揺さぶり、ラムサスを振り落とそうとし始めた。そんな状態でまともに走れるわけも無く、ネーベル領主は転び、転がり、谷間の虚空に投げ出された。
 宙を舞いながら目を閉じ、彼は一言呟く。
「……すまない……」
 彼が何を思って彼がそんなことを言ったのかはわからない。守れなかった領民に対してなのか、この事態を引き起こした自分の間違いに対してなのか、それとも……竜花戦争時に目前で喰われた妹に対してなのか。

 ――――その瞬間であった。
 空中で、細い腕が彼を抱きとめたのである。
 おそるおそる目を開いたラムサスが見たのは、緑翼をはためかせ自分を抱く、娘の姿だった。
「ドロシー……なのか?」
 その問いには応えず、彼女は、いや、私は高度を上げた。エスメラルダの枝が迫っていたのだ。こちらもやられているばかりではない。霧で敵の背を包み、爆破する! 一気に枝を薙ぎ払ったところで、ようやく領主は私の正体に思い至ったようだ。
「……まさか、あなたは……」
『ああ、そうだ』
 もう、迷わない。もう、疑わない。
 私は私として、生きよう。
『翼は緑青、名はガードルード。この町の――――救世主だ』
 領主を地上にそっと降ろし、私はそのまま戦闘に舞い戻った。


     ◆ ◆ ◆


 町中が宴に酔いしれる中、旅人はまさに出立しようとしていた。この騒ぎに乗じて誰にも知られず町を出ようという腹であろうが、そうは問屋が卸さない。
「待て」
 町はずれにてロズを呼び止めたのは私である。もっとも、翼まで消してしまっているため、外見だけではどこからどう見ても、領主の小娘そのものなのだが。
「礼も言わせずに出て行く気か」
「エンテ鍋もシュティーア肉も、そして! エーアトベーレもたらふく頂いたからな」
 私は白い目を向ける。
「冗談さ。アンタと同じで、褒められるのは好きじゃないんだよ」
 振り返ったロズはニヤケ顔である。
「どうだい、その身体は? 気にいったか?」
「冗談では無い。今でこそ私が表に出ているが、この身体は娘のものだ。力の加減がわからぬから不便極まりない」
「いいじゃん、あの子が望んだことだ。これで町は救われた。ドロシーも死ななかったし、アンタも今後生きていける。多少の不便でゴチャゴチャ言ってんなよ、男だろ?」
「男ではない。私、雌竜なのだが」
「こまかいコトはいいんだよ」
 全く、この若者は。今になっても未だ、真意が掴み切れぬ。私は苦笑し、彼を引き留めるのを諦めた。
「……これからの旅に幸あれ、若き同族よ」
「なんだよ、気づいてたのか?」
「当然だ」
 花術を見破る目、人間としてはズレた発想、そして私とドロシーの同化を成し遂げる花術の使い手。こやつが人間だという方が驚きである。
「最後に聞かせてくれ。君は、竜でありながら、何ゆえ人を助けるのだね」
「なぜって、かわいいからさ」
 即答である。
「人間は馬鹿だ。愚かだ。知識のために本能も捨てた、間抜けな生き物だ。でも、だからこそ彼らは必死だ。個体のそれぞれが生きることに命を賭けている。俺はそんな人間を、愛しいと思うよ」
 それだけ言うと、彼はくるりと背を向けた。
「アンタだってそうだったじゃねえか」
 そして返事も待たぬまま、彼はてくてくと山道に消えていった。私も、もう追うことはしない。不遜な男の背が見えなくなった頃、私はくるりと踵を返した。と、
「……わあ!」
 小娘は身体が返った途端、騒々しく駆け出す。
「何してんのよガドさん! 早くしないとご馳走なくなっちゃうじゃない!」
『ロズといい貴様といい、食より優先すべきことはあると思うぞ!』
 小娘は身体が返った途端、騒々しく駆け出す。

 ああ、ロズ。私も君に同感だ。この生き物はひどく愚かだが、同時にひどく愛しい。

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